南方熊楠

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南方 熊楠
1891年 アメリカにて
人物情報
生誕 1867年5月18日
紀伊国和歌山
死没 1941年12月29日(満74歳没)
和歌山県田辺町
居住 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イギリスの旗 イギリス
国籍 日本の旗 大日本帝国
学問
研究分野 博物学
生物学(特に菌類学
民俗学
研究機関 大英博物館
主な業績 粘菌研究
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南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日慶応3年4月15日) - 1941年昭和16年)12月29日)は、日本博物学者生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。

菌類学者としては粘菌研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

概説[編集]

南方熊楠は和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、さらにイギリスに渡って大英博物館にはいる。日本に帰国後は、和歌山県田辺市に居を定めた。多くの論文を著し、大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。

熊楠の学問大系は博物学、特に植物学基礎とするが、その学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。

1892年明治25年)にはイギリスに滞在時に、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学考古学宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿した。

帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗・伝説・宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい70種を発見し、また自宅のの木では新しくとなった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

年譜[編集]

※日付は1872年まで旧暦

  • 慶応3年(1867年4月15日 - 和歌山城下橋丁(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる[1]。南方家は、海南市にある藤白神社を信心していた。藤白神社には熊野神がこもるといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、すべて藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字をむさぼり読んで成長した。
  • 1873年明治6年) - 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)に入学。 
  • 1876年(明治9年) - 雄小学校卒業、鐘秀学校[2]に入学。岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写。
  • 1879年(明治12年) - 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)に入学。教師鳥山啓から博物学をすすめられ、薫陶を受ける(鳥山啓は、のち華族女学校教師となる。行進曲『軍艦』の作詞者として知られる)。
  • 1880年(明治13年) - 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。
  • 1881年(明治14年) - 『和漢三才図会』を写し終える。

上京[編集]

米・英に留学[編集]

大英博物館
孫文
  • 1897年(明治30年) - ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。
  • 1898年(明治31年) - 大英博物館で暴力事件を起こす。

紀南、植物採集・研究[編集]

  • 1900年(明治33年) - 大英博物館から出入り禁止の処分を受ける。14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(泉南郡岬町)次いで和歌山市の円珠院に居住する。
  • 1901年(明治34年) - 孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。
  • 1902年(明治35年) - 熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。
  • 1903年(明治36年) - 論文『燕石考』完成。
  • 1904年(明治37年) - 田辺に家を借りる。
  • 1905年(明治38年) - ディキンズとの共訳『方丈記』完成。
  • 1906年(明治39年) - 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。
    • 6月 - タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種と認められた。彼が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。[4]
  • 1907年(明治40年) - 前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。
  • 1909年(明治42年)9月 - 新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。
  • 1910年(明治43年) - 紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日「家宅侵入」で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。
柳田國男(1940年ころ)
  • 1911年(明治44年) - 柳田國男との文通が始まる(1913年まで続く)。
    • 9月 - 柳田『南方二書』を出版。
    • 10月13日 - 長女文枝誕生。
  • 1912年(明治45年/大正元年) - 田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。
  • 1913年(大正2年) - 柳田國男、田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。
  • 1914年(大正3年) - 「十二支考」連載(1923年まで)。(※同年、サラエボ事件、第一次世界大戦へ)
  • 1915年(大正4年) - アメリカ農務省の植物学者スウィングル英語版[6]が田辺を来訪し、神島を共同調査。
  • 1916年(大正5年) - 田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。
  • 1917年(大正6年) - 自宅の柿の木で粘菌新属を発見。
  • 1920年(大正9年) - 小畔四郎[7]らと高野山の菌類などを調査する。
  • 1921年(大正10年) - 粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila、長い糸の南方の粘菌の意・現在の標準和名ミナカタホコリ)と命名される。命名者は大英博物館の粘菌学者グリエルマ・リスター(Gulielma Lister)[8][9]であった。
  • 1922年(大正11年) - 南方植物研究所設立資金募集のため上京。
  • 1925年(大正14年) - 長男熊弥、精神異常発症。
  • 1926年(大正15年/昭和元年) - 『南方随筆』刊行。イタリアのプレサドラ大僧正の菌図譜出版に際し、名誉委員に推される。
  • 1929年(昭和4年) - 紀南行幸昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物はの箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。(※同年、世界恐慌
  • 1930年(昭和5年)6月 - 天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。
  • 1935年(昭和10年)12月24日 - 神島が国の天然記念物に指定される。
  • 1940年(昭和15年)11月10日 - 東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を歩行不自由の理由で断る。
  • 1941年(昭和16年)12月29日 - 自宅にて死去。死因は萎縮腎であった。満74歳没。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られる。

学問[編集]

生物学[編集]

熊楠は博物学者として紹介されることが多いが、時代としてはすでに博物学は解体されており、彼の活動はその面では完全に植物学の分野に収まる。彼の専門分野はいわゆる隠花植物である。東京時代にアメリカのカーチスという学者が生涯に菌類を6000点収集したとの話を聞いて、自分は7000点を集めることを決心したとの逸話がある[10]

しかしながら、彼が生涯でもっとも時間をかけていたのは、実は顕花植物の収集であったらしい。渡米前には日光などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されている[11]。初期のものは台紙に張った正式な押し葉標本の形に整えられているものが多いが、後期のものの多くは新聞紙に挟まれただけである。またいくつかには詳細な書き込みや細部の図がつけられており、そのようなものからも彼がしっかりとした植物学者としての知識を持っていたことがうかがえる。ただし、彼自身は高等植物に関して専門家であると発言していない。しかし、自然保護運動にせよ、隠花植物の研究にせよ、高等植物に関する知識がその下地を作っていたのであろう。

彼については粘菌のことが取り上げられることが多いが、彼自身は隠花植物全般を専門にしていた。彼は非常に多くの標本を作製し、それらを図として残した。

淡水藻類についても多くのプレパラート標本が作られたのはわかっている。ただし、この分野については彼が発表したものも少なく、また標本の保存もよくないため、詳しいことはわかっていない。

菌類のうち、キノコについても彼は多くの努力を費やした。乾燥標本も多く作成したが、彼はキノコの彩色図に専門的な記載文をつけたものを3500枚も作成した。彼の標本を検討した粘菌学者の萩原博光はこれについて「南方ほど多くの図と記載文を残した研究者は少ないだろう」と述べているという[12]

粘菌については、彼は古くから関心を持っていたのは間違いないが、初期にはむしろ植物や淡水藻類に努力を傾けており、標本の様子などから見て、その精力が注がれたのは田辺に居を定めてからであるらしい[13]。彼は6000点以上の変形菌の標本を残し、数度にわたって変形菌目録を発表した。彼が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには彼の名が残されたことでよく知られる。しかし、萩原は彼の先進性を別のところに認めている。ミナカタホコリは生きた樹木の樹皮に発生するもので、このような環境に生息する変形菌の研究は1970年代以降に注目されるようになったものであり、また1990年代に注目されるようになった冬季に発生する粘菌にも彼が注目していたことがわかっている[14]

評価[編集]

このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものからは、彼が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、彼はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、彼は数度にわたって目録を発表しており、彼以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも彼は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば彼は新種を記載してはおらず、彼の手になる新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、彼に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。

ネイチャー誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている[15]。 これについては、彼が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、彼の残したメモや日記、手紙類から、彼の学問について推測するための努力は今も続けられている。

自然保護運動[編集]

学問とは直接につながるものではないが、彼は自然保護運動における先達としても評価されている。特に神社合祀令に反対運動を起こしたのは、それによって多くの神社の鎮守の森が失われることを危惧したことによる。これに関しては特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。南方はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点できわめて先進的であった。神島の項も参照のこと。

人物[編集]

  • 子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。
    • 田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、“某氏”の話が出た。南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている[16]
    • 元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていたころ、南方をいろいろ調べたことがあった。その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという[17]
  • 旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。
  • 奇行が多かったことで知られる。異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていた。熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田國男宛の書簡で書いている。そのまた、多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と呼ばれたという話も残る。
  • 渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の都々逸を残している。この留学は徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で利害の一致を見たために実現したと考えられている。なお熊楠本人は純粋な愛国主義者で、英国留学中に大使館を通し義援金を振り込んでいる[要出典]
  • 幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつける。
  • ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズ[18]は『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと南方に大学へ来るように、と呼び出す。南方はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂、南方もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場はケンカ別れに終わるが、しばらくして南方の言い分に得心したディキンズは、それから終生南方を友人として扱った。
  • 大英博物館の図書館で閲覧者に馬鹿にされた熊楠は大勢の前で頭突きを喰らわせ3か月の入館禁止となった。1年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復職した。
  • 猫好きであったことで有名。ロンドン留学から帰国後、猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の体を松枝に洗ってもらった。
  • 熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム英語版(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。
  • ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若舞などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。
  • 熊楠の手による論文はきちんとした起承転結がなく、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。さらに、猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文にたびたび苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」、「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析し、「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また彼の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている[19]
  • 生涯定職に就かなかったためにろくに収入がなく、父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に頼りっきりだった。常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を求めてくる兄を快く思っておらず、研究所設立のため資金集めをしていたときに遺産相続の問題で衝突して以降、生涯絶縁状態になった。熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。
  • 口から胃の内容物を自在に吐瀉できる反芻胃を持つ体質で、小学校時代もケンカをすると“パッ”と吐いた[20]。そのため、ケンカに負けたことがなかったという。
  • 蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」[21]とのことばも残している。ただし、残されている蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという[22]
  • 酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、酒にまつわる失敗も少なくなかった。
  • 語学にはきわめて堪能で、英語フランス語ドイツ語はもとより、サンスクリットにまで及ぶ19の言語を操ったといわれる。語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。
  • 1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂え、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。
  • 江戸川乱歩岩田準一とともに男色衆道)関連の文献研究を熱心に行ったことでも知られている。戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明。
  • 当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が残っているため、写真に撮られるのが好きだったといわれている。
  • 1941年(昭和16年)11月2日、藤白にいる熊弥に、『日本動物図鑑』を届けたことが日記にある。11月16日、『今昔物語』上巻(辻本尚古堂、1896年、江戸時代の井沢長秀注本を活字にしたもの)に「此今昔物語二冊、代金三円、昭和十六年一月十六日東京神田神保町一誠堂書店より購収、娘文枝ニ与フル者也、南方熊楠」と書き入れた。12月8日の真珠湾攻撃の報道を知っていたかどうか、当日には何の記載もない[23]
  • 臨終の際、医者を呼ぶかと問われると「花が消えるから」と拒否したという。
  • 熊楠の脳は大阪大学医学部ホルマリン漬けとして保存されている。本人は幽体離脱幻覚などをたびたび体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があり、それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。
  • 熊楠が飼っていた2000年平成12年)近くまで生きていた。正確な年齢はわからないものの、100歳は超えていたといわれる。

著作[編集]

生前刊行本[編集]

  • 『南方二書』 柳田國男編(私家版小冊子)・1911年
  • 『南方閑話』 坂本書店・1926年
  • 『南方随筆』 岡書院・1926年
  • 『続南方随筆』 岡書院・1926年

全集・選集・日記[編集]

  • 『南方熊楠全集』(全12巻) 乾元社・1951〜1952年
  • 『南方熊楠全集』(全10巻別巻2) 平凡社・1971〜1975年
  • 『南方熊楠選集』(全6巻別巻1) 平凡社・1984年
  • 『南方熊楠日記』(全4巻) 長谷川興蔵編/八坂書房・1987〜1989年

書簡集[編集]

  • 『南方熊楠書簡集』 紀南文化財研究会編/紀南文化財研究会(紀南郷土叢書・第11輯)・1981年 → 増補版・1988年
  • 『南方熊楠書簡抄 宮武省三宛』 笠井清編/吉川弘文館・1988年
  • 『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』 中瀬喜陽編/日本エディタースクール出版部・1988年
  • 『門弟への手紙 上松蓊へ』 中瀬喜陽編/日本エディタースクール出版部・1990年
  • 『竹馬の友 小笠原誉至夫宛書簡』 長谷川興蔵・小笠原謙三編/八坂書房・1993年
  • 『南方熊楠書翰—高山寺蔵 土宜法龍宛1893-1922』 奥山直司・雲藤等・神田英昭編/藤原書店・2010年
  • 『キノコ四天王 樫山嘉一宛南方熊楠書簡』 吉川壽洋編/南方熊楠記念館・2011年

往復書簡集[編集]

  • 『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』 飯倉照平編/平凡社・1976年 → 平凡社ライブラリー(上下)・1994年
  • 『南方熊楠・土宜法竜往復書簡』 中瀬喜陽・長谷川興蔵編/八坂書房・1991年
  • 『南方熊楠男色談義・岩田準一往復書簡』 長谷川興蔵・月川和雄編/八坂書房・1991年
  • 『南方熊楠・リスター往復書簡』 山本幸憲編/南方熊楠邸保存顕彰会・1994年
  • 『南方熊楠・平沼大三郎往復書簡[大正15年]』 南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書)・2007年
  • 『南方熊楠・小畔四郎往復書簡(全4巻)』 南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書)・2008〜2011年

著作(編集版)[編集]

  • 『南方熊楠随筆集』 益田勝実編/筑摩書房〈筑摩叢書〉・1968年 → ちくま学芸文庫・1994年 のち復刊
  • 『十二支考』(全3巻) 飯倉照平校訂/平凡社東洋文庫・1972〜73年 のちワイド版
  • 『南方熊楠文集』(全2巻) 岩村忍編/平凡社東洋文庫・1979年 のちワイド版
  • 『熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集』 飯倉照平・鶴見和子・長谷川興蔵編/八坂書房・1991年
  • 『南方熊楠コレクション』(全5巻) 中沢新一編・解説/河出書房新社〈河出文庫〉・1991〜1992年 のち復刊
     タイトル:I.南方マンダラ II.南方民俗学 III.浄のセクソロジー IV.動と不動のコスモロジー V.森の思想
  • 『南方熊楠 珍事評論』 長谷川興蔵・武内善信校訂/平凡社・1996年
  • 『十二支考』(上・下) 宮田登解説/岩波文庫・1994年、ワイド版・2003年
  • 『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌編』 飯倉照平監修/松居竜五・田村義也・中西須美訳/集英社・2005年

復刻判[編集]

  • 『南方随筆』 萩原星文館・1943年
  • 『南方随筆 正・続』(復刻版) 沖積舎・1992年
  • 『南方二書 原本翻刻』 南方熊楠邸保存顕彰会・2006年

資料・目録[編集]

  • 『南方熊楠菌誌』(第1・2巻) 小林義雄編・解説/八坂書房・1987-89年 ※熊楠の英文記載・和文解説
    • 『南方熊楠菌誌』(第1巻〜第5巻) 同/南方熊楠記念館・1989-96年 ※改訂版 
  • 『南方熊楠菌類彩色図譜百選』 小林義雄編/学伸社エンタプライズ・1989年
  • 『南方熊楠記念館蔵品目録 資料・蔵書篇』 南方熊楠記念館・1998年
  • 『南方熊楠変形菌標本目録』 萩原光博編/南方熊楠顕彰館・1999年
  • 『南方熊楠邸蔵書目録』 南方熊楠資料研究会編/南方熊楠邸保存顕彰会・2004年
  • 『南方熊楠邸資料目録』 南方熊楠資料研究会編/南方熊楠邸保存顕彰会・2005年
  • 『南方熊楠プレパラート標本目録』 萩原光博編・2005年
  • 『南方熊楠菌類図譜』 ワタリウム美術館編・萩原博光解説/新潮社・2007年 ※120枚を厳選。

評価・顕彰[編集]

  • 昭和天皇1948年昭和23年)ごろ渋沢敬三(当時常民文化研究所所長)に熊楠の標本調査を依頼したことを機縁として、渋沢により「南方ソサエティ」が設立された。
  • 1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて御製雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。
  • 1980年代ころより南方再評価の動きが生じ、地元和歌山県田辺市に南方熊楠顕彰会が設立され、生前資料の保存と研究、啓発行事などを行っている。
  • 出生地和歌山市では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。
  • 1990年に週刊少年漫画誌である「週刊少年ジャンプ」において『てんぎゃん 南方熊楠伝』というタイトルで、彼の半生がその奇行・暴れぶりから研究現場での苦闘まで鮮やかに漫画化されたが、雑誌の購買層には合わず、短命漫画となった。なお、当作品は一部完(熊楠がイギリス留学に旅立つ)という形で連載を終えているため、作者は留学してからのプロットも構想済みである。しかし、現在は版権の関係で連載を再開することはできないため、未完のまま終わっている。

家族[編集]

子孫[編集]

熊楠の邸宅は熊楠没後は、娘の文枝ら遺族が管理していたが、2000年(平成12年)に文枝が死去し、後に田辺市へ寄贈された後は、研究者・有志たちにより整備され南方熊楠顕彰館となった。粘菌標本は国立科学博物館「筑波実験植物園」に収蔵されている。

また、長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。 熊楠の実弟である常楠の家系は、世界一統という造り酒屋として現在も続いている。

南方熊楠を題材とした作品[編集]

「南方熊楠顕彰会」関係者を中心に「熊楠日記」等の研究や評伝が刊行されている。

評伝・評論[編集]

  • 『新潮日本文学アルバム58 南方熊楠』 神坂次郎編・評伝、新潮社、1995年 - 写真多数の入門書。
  • 飯倉照平編 『南方熊楠 人と思想』 平凡社、1974年 - ※基本文献
  • 飯倉照平・長谷川興蔵編 『南方熊楠百話』 八坂書房、1991年
  • 飯倉照平 『南方熊楠 梟のごとく黙坐しおる』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2006年
  • 『南方熊楠アルバム』 中瀬喜陽・長谷川興蔵編[27]、八坂書房 1990年、新装版2004年
  • 『南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』 中瀬喜陽監修、平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2012年
  • 中瀬喜陽編著 『南方熊楠、独白 熊楠自身の語る年代記』 河出書房新社、1992年
  • 中瀬喜陽 『覚書南方熊楠』 八坂書房、1993年
  • 南方文枝 『父 南方熊楠を語る』 日本エディタースクール、1981年
    • 改訂版 南方(岡本)文枝 『素顔の南方熊楠』 谷川健一・中瀬喜陽編、朝日文庫、1994年
    • 新版 『父を語る 柳田国男と南方熊楠』 谷川健一編、冨山房インターナショナル、2010年
  • 岡本清造 『岳父・南方熊楠』 飯倉照平・原田健一編、平凡社、1995年

小説[編集]

  • 神坂次郎 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 新潮社、1987年 / 新潮文庫、1991年
  • 津本陽 『巨人伝』 文藝春秋、1989年 / 文春文庫(上下)、1992年。大河評伝小説
  • 江戸川乱歩 「緑衣の鬼」 - 松村喜雄『乱歩おじさん 江戸川乱歩論』(晶文社1992年)p.157によると、この作品に登場する在野の粘菌学者夏目菊太郎は熊楠をモデルにしている。
  • 山田風太郎「風の中の蝶」 - 『明治波濤歌』収録。新潮社、ちくま文庫
  • 千秋寺亰介あすかあきお)「怨霊記」シリーズ
  • 阿井景子 『超人』講談社 改題し『花千日の紅なく 南方熊楠と妻』、集英社文庫
  • 東郷隆 『名探偵クマグスの冒険』集英社 、2008年 ロンドン時代の熊楠の活躍を描く
南方熊楠が脇役として登場

漫画[編集]

映画[編集]

DVD[編集]

  • 『学問と情熱 南方熊楠 萃点は見えたか…』 紀田順一郎(総合監修)、室田日出男(ナレ-タ-) 紀伊國屋書店
    DVDは下記を、タイトル改題し廉価再発売した。
    元版は谷川健一監修、『ビデオ評伝シリーズ第1巻 南方熊楠 学問と情熱』 紀伊國屋書店 1997年

関連文献[編集]

単行本
  • 中山太郎『学界偉人南方熊楠』富山房 1943年 
  • 平野威馬雄『博物学者 南方熊楠の生涯』牧書房 1944年。下記は新版
  • 同『大博物学者 南方熊楠の生涯』 リブロポート、1982年
  • 同『くまぐす外伝』 濤書房、1972年/誠文図書 1982年/ちくま文庫、1991年 - 読み易い評伝
  • 笠井清『南方熊楠 (人物叢書)』 吉川弘文館 1967年、のち新装版
  • 同『南方熊楠 人と学問』 吉川弘文館、1980年
  • 同『南方熊楠 親しき人々』 吉川弘文館、1982年
  • 同『南方熊楠外伝』 吉川弘文館、1986年 
  • 鶴見和子『南方熊楠 地球志向の比較学』講談社学術文庫、1981年 
  • 同『南方熊楠のコスモロジー コレクション鶴見和子曼荼羅5』藤原書店、1998年
  • 同『南方熊楠 萃点の思想 未来のパラダイム転換に向けて』藤原書店、2001年
  • 松居竜五『南方熊楠 一切智の夢朝日選書、1991年
  • 荒俣宏・環栄賢編 『南方熊楠の図譜』青弓社、1991年
  • 松居竜五・中瀬喜陽ほか編 『南方熊楠を知る事典講談社現代新書、1993年
  • 中沢新一『森のバロック』せりか書房 1992年/講談社学術文庫(抄版)、2006年
  • 高橋康雄『心に不思議あり 南方熊楠 人と思想』 JICC出版局、1992年
  • 保永貞夫 『南方熊楠 自然保護のさきがけ』 講談社火の鳥伝記文庫、1993年-中高生向けの伝記
  • 『南方熊楠 新文芸読本』 河出書房新社、1993年4月-南方熊楠小伝ほか全8章
  • 仁科悟朗『南方熊楠の生涯』新人物往来社、1994年
  • 米山俊直『クニオとクマグス』河出書房新社、1995年 
  • 近藤俊文『天才の誕生 あるいは南方熊楠の人間学』岩波書店、1996年
  • 飯倉照平『南方熊楠 森羅万象を見つめた少年』岩波ジュニア新書、1996年 - 中高生向けの伝記 
  • 後藤正人『南方熊楠の思想と運動』 世界思想社、2002年
  • 千田智子『森と建築の空間史 南方熊楠と近代日本』 東信堂、2002年
  • 原田健一『南方熊楠 進化論・政治・性』 平凡社、2003年
  • 神坂次郎『南方熊楠の宇宙 末吉安恭との交流』 四季社、2005年
  • 松居竜五・岩崎仁編『南方熊楠の森』方丈堂出版、2005年 - CD-ROM付き
  • 松居竜五・ワタリウム美術館編 『クマグスの森―南方熊楠の見た宇宙』 新潮社〈とんぼの本〉、2007年
  • 『南方熊楠とアジア』 勉誠出版〈アジア遊学144〉、2011年 - 執筆者は小峯和明ほか23名
  • 武内善信『闘う南方熊楠 「エコロジー」の先駆者』勉誠出版、2012年
  • 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版、2013年
  • 唐澤太輔『南方熊楠の見た夢』勉誠出版、2014年
  • 『南方熊楠大事典』(松居竜五・田村義也編)、勉誠出版、2012年
  • 『日本博覧人物史―データベースの黎明』 紀田順一郎編、ジャストシステム、1994年 - 人物列伝の一人
雑誌特集
  • 太陽 特集奇想天外な巨人、南方熊楠』、1990年11月号、荒俣宏・田中優子ほか
    • 『南方熊楠 奇想天外の巨人』平凡社〈コロナブックス〉 1995年、再編改訂版
  • 『南方熊楠 現代思想』 1992年7月号 青土社
  • 『南方熊楠 ユリイカ詩と批評』 2008年1月号 青土社
  • 『國文學 南方熊楠特集 「ナチュラルヒストリーの文体」』 2005年8月号 学燈社 

脚注・参照[編集]

  1. ^ 熊楠の生まれた時、父弥兵衛は39歳、母住が30歳であった。ちなみに、この二人の間には、長男藤吉・長女くま・次男熊楠・三男常楠・次女藤枝・四男楠次郎の6人が生まれている。生誕地は橋丁二十二番地、その跡地に当たる駐車場の角に、和歌山市によって熊楠の胸像が1994年建てられている。(飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 2ページ)
  2. ^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。
  3. ^ William Wirt Calkins - Illinois Natural History Survey(英語)
  4. ^ 発見場所は、稲荷村(現田辺市)の糸田にある猿神祠(古くは山王権現社と呼ばれていた)で、高山寺のある台地の会津川に臨む見晴らしの良い場所にあった(飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 206ページ)
  5. ^ 飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 200ページ
  6. ^ 松居竜五「南方熊楠宛スウィングル書簡について (南方熊楠英文論文の連関的研究,I共同研究)」、『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第7巻、龍谷大学、2005年3月25日、 149-156頁、 NAID 110004628956
  7. ^ 変形菌分類学研究者 - 日本変形菌研究会
  8. ^ Gulielma Lister - Wanstead's Wildlife(英語)
  9. ^ 変形菌分類学研究者の紹介(国外) - 日本変形菌研究会
  10. ^ 飯倉(2006)、p.36
  11. ^ 飯倉(2006)、p.277
  12. ^ 飯倉(2006)、p.279
  13. ^ 飯倉(2006)、p.273
  14. ^ 萩原(1999)、p.244
  15. ^ 当時のネイチャー誌における投稿論文は、現在の査読を行わない読者読者投稿欄のようなものであった。
  16. ^ 『南方熊楠 人と思想』 281頁
  17. ^ 『南方熊楠 人と思想』 280 - 281頁
  18. ^ 『日本学者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ』秋山勇造 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
  19. ^ 『森のバロック』58〜62貢
  20. ^ 『南方熊楠 人と思想』 290頁
  21. ^ 「平家蟹の話」
  22. ^ 紀田(1994)
  23. ^ 飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 334-335ページ)
  24. ^ 清酒 世界一統-知られざる巨人-南方熊楠-南方熊楠と世界一統の歩み
  25. ^ 。(飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 359ページ
  26. ^ 。(飯倉照平著 『南方熊楠 -梟のごとく黙座しおる- 』 《ミネルヴァ日本評伝選》 ミネルヴァ書房 2006年 337・360ページ
  27. ^ 写真多数の図版本。中瀬喜陽は地元在住の研究者、長谷川興蔵は編集者、平凡社・八坂書房で著作資料の校訂を担当した。

参考文献[編集]

  • 飯倉照平 『南方熊楠 -梟のごとく黙坐しおる-』、ミネルヴァ書房、2006年
  • 飯倉照平編 『南方熊楠 人と思想』 平凡社、1974年
  • 萩原博光 「南方粘菌学を探る(1)」、『熊楠研究』第1号(南方熊楠資料研究会、1999年)所収、

関連項目[編集]

人物

外部リンク[編集]