前方後円墳
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前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の大きさを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県奥州市から南は鹿児島県にまで及んでいる。近年の研究により、古代伽耶が存在した朝鮮半島西南部でも存在が確認されている。
「前方」とは「前半分が方形(四角形)である」という意味であり、「前の方向」という意味ではない。
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[編集] 概要
[編集] 起源
日本が起源である前方後円墳についてこれまで幾つかの議論がおこなわれている。最もよく知れられているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して梅原末治らは中国大陸からの影響があったとの説を提起していた。梅原は始皇帝陵などの前方に設けられていた祭壇などに由来するとしている。
[編集] 形状
前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めで使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。
現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための憤丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生憤丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥方をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。
[編集] 分布
前方後円墳の存在が明確でないのは北方では北海道、青森県および秋田県の3県と南方の沖縄県のみにすぎない。建造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られている。離島の対馬、壱岐、隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていない。各地域で最後に建造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。5世紀を最後に建造が途絶えた徳島県などは数少ない例外である。
日本列島以外では、近年韓国における考古学者の研究によって倭の支配を受けていたと見られる朝鮮半島南部から南西部にかけて5、6世紀に建造されたと見られる前方後円墳の存在が明らかになっている。
近畿地方を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所も多い。古墳時代に築かれた巨大な墳墓中はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓である。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしている。
[編集] 終焉
6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、墳丘長100メートル以上の規模の比較的大きなものは九州の岩戸山古墳、尾張の断夫山古墳など一部を除くと、奈良盆地内や古市古墳群など、畿内に集中するようになる。
また岩戸山古墳と断夫山古墳、そして畿内でも大王墓の可能性が高い古墳とその他の古墳との規模の格差が拡大している。これは当時の社会体制の変化を表しているものと考えられ、特に河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、今城塚古墳といった大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。見瀬丸山古墳など6世紀の大王墓と推定される墳墓は、3世紀から大王墓が造られ続けてきた古市古墳群、百舌鳥古墳群、馬見古墳群、佐紀盾列古墳群、大和・柳本古墳群といった古墳群から離れた場所に造られており、この点からも6世紀の大王の権力構造に変化が生じたことがわかる。
また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる[1]。
一方、関東地方では他の地方とは異なり、6世紀、埼玉古墳群など墳丘長100メートルクラスを含む前方後円墳が盛んに造られる。埼玉古墳群では長方形をした二重周濠の築造、下野の前方後円墳では基壇と呼ばれる広い平坦面を持った前方後円墳など、地域色が見られる前方後円墳が造られており、6世紀の段階ではまだ全国一律の造墓規制を行う段階には至っていない。
前方後円墳の出現期から、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる見瀬丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。関東地方や周防など[2]、一部の地域で7世紀初め~前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。
[編集] 脚注
[編集] 前方後円墳
前方後円墳は、憤丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など)などの諸要素から成っている。
[編集] 後円部
後円部は、前方後円墳で最も大切な場所である。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたからである。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られている。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25~26度あり、それ以上の急勾配もある。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られている。前方部から後円部に登るために一つの工夫が為されている。 それを隆起斜道(りゅうきしゃどう)という。この隆起斜道の設置によって後円部と前方部が繋がることになる。しかし、この斜道だけで、頂上や頂下の墓壙に達することが難しい場合が多いので斜道の途中から墓壙に達するための掘割墓道(ほりわりぼどう)を設置した。 また、括れ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっている。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしている。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれているといってもよい。登ることを慎めという意味であり。前方後円墳は禁忌の状態に築造されている。
[編集] 前方部
最古の前方後円墳は3世紀代の箸墓古墳のように前方部の前面幅が撥(バチ)形になっており、前方部の前面幅が後円部の直径に匹敵するほど開いている。京都府相楽郡山城町椿井大塚山古墳などが挙げられる。高さも後円部の方が高くなっている。次の段階では、前方部が前面に向かってまっすぐ伸び、幅狭く低い。例として、桜井市茶臼山古墳などがある。
その後、時代が下るにつれて後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じとなり(古墳時代中期)、さらに時代が下ると前方部は巨大化の一途をたどり、前方部の幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多い(古墳時代後期)。また、古墳時代後期の一部の前方後円墳には、「剣菱形」と呼ばれる、前方部の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をしているものがある(なお剣菱形が確認されているのは今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と極めて数が少ない)。
[編集] 造出
最古級の前方後円墳には造出(つくりだし)は見つかっていない。憤丘長200メートルを超える大形前方後円墳の括れ部(くびれぶ)裾に造り出しが見られる。佐紀盾列古墳群と奈良盆地西方の馬見古墳群の大形前方後円墳、古市古墳群・百舌鳥古墳群の大形と中形前方後円墳に設けられる。この造出に埋葬が行われている例が見られる。埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしている。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、括れ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たのではないか。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されるものと思われる。
[編集] 祭祀用土器
詳細は「埴輪」を参照
埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などである。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られている。器台は一メートルほどもあるものもあり、壺も40~50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなる。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられる。
[編集] 横穴式石室
詳細は「横穴式石室」を参照
横穴式石室の石室そのものは広い空間であり、一人の死者だけでなく親族や血族の死者を一緒に葬ることができる。今までの竪穴式石室の一人の死者(首長)を葬るという葬法とは大いに違い、埋葬観念や埋葬施設に変化が生じた。 埋葬祭祀は、隅角(前方部の前面の左右のどちらか)から前方部頂へ登り、そこから後円部に向かって降りていき、隆起斜道(後円部へ登りやすくした斜面)を登り、掘割墓道(石室への道)を経て墓壙に入る。石室は後円部頂に入り口を前方部方向に向けて造る。このような古式の例は、福岡県老司古墳や鋤崎古墳に見ることができる。
[編集] 朝鮮半島南部の前方後円墳
詳細は「朝鮮半島における前方後円墳」を参照
韓国最大の古墳としては、全長120メートルの新羅慶州の5世紀末頃の皇南大塚が知られているが、これは墳形が双円墳であり、日本の前方後円墳とは系統が異なっている。
しかし、1983年に韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになったものの、現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、墳丘長は80メートルないし100メートル規模で、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。そのことから、これらの前方後円墳は、当時南下しようとして盛んにこの地域に圧力をかけていた百済に対抗すべく、倭人の勢力と結託してその文化・風習を積極的に取り入れた伽耶の在地領主の墳墓ではないかという説が出されている。基本的にこうした前方後円墳の大きさは、朝廷とどの程度親密か、どの程度の地位があるかのよって決定される。朝廷に従属した部族、集落の長の前方後円墳はちょうど80メートルないし100メートル規模であることが多い。こうした例は日本においても、7世紀以前の東北地方において多くみられる。
また、この地方の国守として倭より派遣されていたとされる穂積臣押山(ほづみのおみおしやま。『日本書紀』継体六(512)年条に記述がある)のような倭人領主の墳墓と見る説もあり、墳墓に眠る人物の身元はいまだに確定していない。
[編集] 参考文献
- 古墳時代の政治構造、青木書店 2004年。
- 西日本の終末期古墳、中国書店 2006年。

