前方後円墳

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大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵、大阪府堺市
日本最大の前方後円墳。
日本最古の前方後円墳(3世紀中頃の築造)。

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の巨大さを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまでおよんでいる。また、近年、朝鮮半島西南部でも若干の存在が確認されている。

概要[編集]

起源[編集]

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もある。

形状[編集]

模式図

前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代国学者蒲生君平19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。

分布[編集]

前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道青森県秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。建造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られている。離島の対馬壱岐隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていない。各地域で最後に建造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。5世紀を最後に建造が途絶えた徳島県などは数少ない例外である。

日本列島以外では、韓国の西南部、全羅南道に当たる栄山江流域を中心に10基程度が分布する[1]

近畿地方宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所も多い。古墳時代に築かれた巨大な墳墓中はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王ピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓である。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしている。

終焉[編集]

佐紀盾列古墳群
奈良県奈良市

6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、墳丘長100メートル以上の規模の比較的大きなものは九州の岩戸山古墳尾張断夫山古墳など一部を除くと、奈良盆地内や古市古墳群など、畿内に集中するようになる。

また岩戸山古墳と断夫山古墳、そして畿内でも大王墓の可能性が高い古墳とその他の古墳との規模の格差が拡大している。これは当時の社会体制の変化を表しているものと考えられ、特に河内大塚山古墳見瀬丸山古墳今城塚古墳といった大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。見瀬丸山古墳など6世紀の大王墓と推定される墳墓は、3世紀から大王墓が造られ続けてきた古市古墳群、百舌鳥古墳群馬見古墳群佐紀盾列古墳群、大和・柳本古墳群といった古墳群から離れた場所に造られており、この点からも6世紀の大王の権力構造に変化が生じたことがわかる。

また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる[2]

一方、関東地方では他の地方とは異なり、6世紀、埼玉古墳群など墳丘長100メートルクラスを含む前方後円墳が盛んに造られる。埼玉古墳群では長方形をした二重周濠の築造、下野の前方後円墳では基壇と呼ばれる広い平坦面を持った前方後円墳など、地域色が見られる前方後円墳が造られており、6世紀の段階ではまだ全国一律の造墓規制を行う段階には至っていない。

前方後円墳の出現期から、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる見瀬丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。関東地方や周防など[3]、一部の地域で7世紀初めから前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。

形状と構造[編集]

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器埴輪など)などの諸要素から成っている。

後円部[編集]

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所である。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたからである。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られている。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度あり、それ以上の急勾配もある。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られている。前方部から後円部に登るために一つの工夫が為されている。それを隆起斜道(りゅうきしゃどう)という。この隆起斜道の設置によって後円部と前方部が繋がることになる。しかし、この斜道だけで、頂上や頂下の墓壙に達することが難しい場合が多いので斜道の途中から墓壙に達するための掘割墓道(ほりわりぼどう)を設置した。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっている。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしている。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれているといってもよい。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されている。

前方部[編集]

最古の前方後円墳は3世紀代の箸墓古墳のように前方部の前面幅が(バチ)形になっており、前方部の前面幅が後円部の直径に匹敵するほど開いている。京都府木津川市椿井大塚山古墳などが挙げられる。高さも後円部の方が高くなっている。次の段階では、前方部が前面に向かってまっすぐ伸び、幅狭く低い。例として、桜井市茶臼山古墳などがある。

その後、時代が下るにつれて後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じとなり(古墳時代中期)、さらに時代が下ると前方部は巨大化の一途をたどり、前方部の幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多い(古墳時代後期)。また、古墳時代後期の一部の前方後円墳には、「剣菱形」と呼ばれる、前方部の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をしているものがある(なお剣菱形が確認されているのは今城塚古墳河内大塚山古墳見瀬丸山古墳鳥屋ミサンザイ古墳瓦塚古墳と極めて数が少ない)。

造出[編集]

最古級の前方後円墳には造出(つくりだし)は見つかっていない。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随すると考えられている。この造出に埋葬が行われている例が見られる。埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしている。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たのではないか。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されるものと思われる。

祭祀用土器[編集]

埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などである。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られている。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなる。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられる。

横穴式石室[編集]

横穴式石室の石室そのものは広い空間であり、一人の死者だけでなく親族や血族の死者を一緒に葬ることができる。今までの竪穴式石室の一人の死者(首長)を葬るという葬法とは大いに違い、埋葬観念や埋葬施設に変化が生じた。 埋葬祭祀は、隅角(前方部の前面の左右のどちらか)から前方部頂へ登り、そこから後円部に向かって降りていき、隆起斜道(後円部へ登りやすくした斜面)を登り、掘割墓道(石室への道)を経て墓壙に入る。石室は後円部頂に入り口を前方部方向に向けて造る。このような古式の例は、福岡県老司古墳鋤崎古墳に見ることができる。

朝鮮半島南部の前方後円形墳[編集]

前方後円墳の位置(韓国内)
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
前方後円墳
朝鮮半島南部における前方後円形墳の分布

朝鮮半島南部の大韓民国全羅北道全羅南道では、日本列島の前方後円墳に類似する古墳群の存在が知られる。これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳」のほか楽器のチャング(チャンゴ、長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン)」などと表記される。日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本節では「前方後円形墳」と表記して解説する。

一覧[編集]

(凡例)
1)前方後円形墳の判断には諸説あるが、本一覧表では高田貫太「栄山江流域における前方後円墳築造の歴史的背景」[4]掲載の13基に加え、2013年に発見報道のあった康津永波里古墳[5]・羅州佳興里新興古墳[6]の計15基を採用した。また特に、『韓国民族文化大百科事典』(韓国学中央研究院)[7]が明らかな前方後円形墳として挙げる10基は太字で記載した。
2)「発掘調査」欄は、発掘調査が行われた年次を記載。
3)「文化財指定」欄は、大韓民国における文化財指定名称・指定区分を記載。
4)「韓国語版」欄では、ウィキペディア韓国語版における当該項目のリンクを記載。
5)「文化財庁」欄は、大韓民国文化財庁ホームページにおける当該項目のリンクを記載。
6)「大百科」欄は、『韓国民族文化大百科事典』(韓国学中央研究院)オンライン版における当該項目のリンクを記載。
朝鮮半島南部の前方後円形墳の一覧
古墳名 所在地 座標 発掘調査 文化財指定 韓国語版 文化財庁 大百科
名称 区分
高敞七岩里古墳 全羅北道高敞郡孔音面七岩里 (不明) (不明) なし
光州月桂洞1号墳
(月溪洞1号墳)
光州広域市光山区月渓洞 位置 1993年
1995年
월계동장고분
(月溪洞長鼓墳)
光州広域市記念物第20号 [リンク] [1] [2]
光州月桂洞2号墳
(月溪洞2号墳)
光州広域市光山区月渓洞 位置
光州明花洞古墳
(明花洞長鼓墳)
光州広域市光山区明花洞 位置 1993年
1994年
명화동장고분
(明花洞長鼓墳)
光州広域市記念物第22号 [3] [4]
霊光月山里月桂1号墳 全羅南道霊光郡法聖面月山里 位置 未調査 영광월산리월계고분군
(靈光月山里月桂古墳群)
全羅南道記念物第189号 [5]
潭陽古城里1号墳
(潭陽古城里月城山1号墳)
全羅南道潭陽郡水北面古城里 (不明) (不明) 담양성월리월전고분
(潭陽古城里月城山古墳群)
全羅南道記念物第187号 [6]
潭陽聲月里月田古墳 全羅南道潭陽郡古西面声月里 位置 (不明) 담양고성리월성산고분군
(潭陽聲月里月田古墳)
全羅南道文化財資料第221号 [7]
咸平新徳1号墳 全羅南道咸平郡月也面礼徳里 位置 1992年 함평예덕리신덕고분군
(咸平禮德里新德古墳群)
全羅南道記念物第143号 [8] [9]
咸平馬山里1号墳
(咸平馬山里杓山(瓢山)1号墳)
全羅南道咸平郡鶴橋面馬山里 位置 未調査 함평마산리고분군
(咸平馬山里古墳群)
全羅南道記念物第122号 [10] [11]
咸平長鼓山古墳
(咸平長年里長鼓山古墳)
(咸平竹岩里古墳)
全羅南道咸平郡孫仏面竹岩里 位置 未調査 함평죽암리고분
(咸平竹岩里古墳)
全羅南道記念物第152号 [12] [13]
羅州佳興里新興古墳[6] 全羅南道羅州市多侍面佳興里 位置 2013年 なし
霊岩チャラボン古墳 全羅南道霊岩郡始終面泰澗里 位置 2011年 영암태간리자라봉고분
(靈巖태간리자라峰古墳)
全羅南道記念物第190号 [14] [15]
康津永波里古墳[5] 全羅南道康津郡康津邑永波里 (不明) 未調査 なし
海南龍頭里古墳 全羅南道海南郡三山面昌里 位置 2008年 해남용두리고분
(海南龍頭里古墳)
全羅南道記念物第121号 [16] [17]
海南長鼓山古墳
(海南方山里長鼓峰古墳)
全羅南道海南郡北日面方山里 位置 未調査 해남방산리장고봉고분
(海南方山里장고봉古墳)
全羅南道記念物第85号 [18] [19]

以上のほか、光州堯基洞古墳(光州広域市光山区堯基洞)など数基の古墳で前方後円形の可能性が指摘されている[8][9]

特徴[編集]

考古学調査により現在までに判明した主な特徴は次の通り。

分布
上記一覧表のように、朝鮮半島西南部の全羅南道全羅北道(一部)における栄山江流域・霊光地域・高敞地域・海南半島に10数基が分布する。この地域では、在地系古墳として羅州市の羅州潘南古墳群・羅州伏岩里古墳群などが知られ、前方後円形墳はその外縁部に1基ずつ距離をおいて位置する[10]。ただし、光州月桂洞1号墳・2号墳のみ2基が隣接して築造されている。
築造年代
発掘調査が行われていない古墳もあり築造年代は確実ではないが、概ね5世紀後半から6世紀前半の期間に収まるとされる[10]。日本の前方後円墳の期間(3世紀中頃-7世紀前半頃)に比して短期間の築造になる。
朝鮮半島においてこの期間は三国時代にあたる。後述のようにこれら古墳群と関係する百済は、4世紀後半からの高句麗の南下政策によって都を漢山城(漢城、現・ソウル特別市)から熊津(現・公州市)、泗沘(現・扶餘郡)に移すが、このうち熊津に都を置いた時期(475年-538年)に概ね相当する。
日本列島の出土品では、この期間の対朝鮮半島の主な交流相手は5世紀前半に新羅、5世紀後半に大加耶、6世紀前半に百済、6世紀後半に新羅であった[11]。また継体天皇21年(527年?)には、ヤマト王権(親百済系)と北部九州(親新羅系)との間で磐井の乱が発生している。
墳丘
墳丘は前方後円形で、日本列島の前方後円墳と平面形を概ね共通する。墳丘長は約30メートルから最長77メートル(海南長鼓山古墳)で、日本列島の同時期の前方後円墳に比して中-大規模クラスになる。しかし墳丘表面が急斜するなど、断面形において日本列島のものとは大きな差異が認められる[12]。また、前方後円形墳同士でも形状は異なり、特に光州月桂洞1号墳・2号墳と光州明花洞古墳では、前方部が扇状に広がる特徴を有する[12]。墳丘自体の築造方法は、日本列島の工人の手法ではなく在地系工人の手法になる[12]。そのため、日本の前方後円墳と同一でなくむしろ模倣に近いと指摘される[12]
外部施設
外部施設として、一部の古墳では墳丘表面に周濠・葺石・段築の存在が知られ、これらは日本の前方後円墳と共通する[12](ただし無いものも多数存在)。造出はいずれの古墳も有していない。
光州月桂洞1号墳・光州明花洞古墳・霊岩チャラボン古墳では、円筒埴輪朝顔形埴輪に類似した土製品が出土している[13]。これらの器形や、墳丘周囲に並べる使用法は、日本の埴輪とも一致する[13]。また光州月桂洞1号墳・霊岩チャラボン古墳の周濠からは、日本のものと似た木製品が出土している[13]。しかし、以上の土製品・木製品は日本の出土品と作製法・形状の点で大きな相違があり、墳丘築造同様に在地系工人による模倣品とされる[12][13]
なお円筒埴輪状土製品の使用は、前方後円形墳に限らず在地系古墳においても見られている[13]
内部施設(埋葬施設)
日本の前方後円墳と同様に後円部中央に埋葬施設1基を有し、石室は多くで横穴式石室が採用されている(ただし霊岩チャラボン古墳は竪穴式石室[13]。発掘調査がなされた古墳のうちで、海南龍頭里古墳・咸平新徳1号墳は、日本の北部九州・有明海沿岸部の古墳と概ね同じ工法で、内壁にベンガラを塗ることにも共通性が見られる[13]。海南長鼓山古墳においても同様に北部九州の要素が部分的に認められるが、全体的には北部九州とは異なる独特の構造になる[13]。光州月桂洞1号墳・2号墳の場合は大部分が破壊されているが、やはり九州系石室の要素が存在する[13]。一方これらに対し、霊岩チャラボン古墳は百済系の石室とされる[13]。なお光州明花洞古墳でも石室の調査がなされているが、破壊が著しいため系譜はわかっていない[13]
石室内の埋葬棺は、咸平新徳1号墳や光州月桂洞1号墳・2号墳では百済系装飾木棺の使用が推測されている[13]。また光州明花洞古墳・霊岩チャラボン古墳においても木棺の使用が推測される[13]。これら木棺の使用は、北部九州にはほとんど見られない埋葬法になる[13]。石室内施設での倭(日本)系要素は少なく、石屋形状(光州月桂洞1号墳)や石室内壁のベンガラに見られる程度である[13]。咸平新徳1号墳では埋葬施設から多数の副葬品が見つかっており、倭系文物の銀装三角穂式鉄鉾・捩り冠頭太刀、百済系文物の装身具が見つかっている[13]
なお、上記の北部九州系の横穴式石室は前方後円形墳に限ったものではなく、一帯の在地系古墳においても確認されている[13]
在地系古墳との比較
栄山江流域では、前方後円形墳とは異なる在地系古墳も羅州を中心として同時期に営まれている(羅州潘南古墳群・羅州伏岩里古墳群など)[14]。その中で、5世紀中頃までは低墳丘に複数の甕棺・木棺を埋葬する複合梯形墳が採られた[14]。5世紀後半から方形・円形の高塚古墳に変わり、墳丘には複数の横穴式石室が設置された[14]。これらと前方後円形墳とは、横穴式石室の使用、葺石・埴輪状土製品の使用、百済系装身具の使用、木棺の使用などの共通点が存在する[14]。一方で、墳形や、1古墳における埋葬施設の数の点では明らかに相違し、立地においても在地系高塚古墳の外縁部に前方後円形墳が分布するという違いがある[14]

考証[編集]

研究史[編集]

朝鮮半島の前方後円形墳に関する研究は、古くは戦前に日本の谷井済一・有光教一らによって存在可能性が指摘されたことに遡る[15]。戦後に至り、1972年に韓国の黄龍潭・尹世英らにより松鶴洞の古墳について前方後円墳の可能性が指摘され、再び認識されるようになった[15]

本格的に注目を浴びるようになったのは1983年で、韓国の姜仁求によって慶尚南道固城の松鶴洞1号墳[注 1]を初めとする慶尚道・全羅道・京畿道の古墳36基で前方後円形の可能性が指摘された[15]。1980年代後半から古墳の測量調査が進み、さらに1990年代からは発掘調査も開始され、前方後円形の古墳が存在することは確実となった[15]。現在では上記10数基が前方後円形として認められ、考古学的に全容が明らかになりつつある。

これらの前方後円形墳は、当初日本列島の前方後円墳の起源になるとして注目されていた[16]。しかしその後の調査によって築造年代が5世紀中頃以降であることが明らかとなり、逆に倭(日本)から導入されたことが確実とされている[16]。ただし具体的な経緯に関しては明らかとなっておらず、被葬者の比定は在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれ[16][17][18]、現在も活発な議論が続いている。

現在の諸説[編集]

●-高句麗
●-新羅
●-百済
大加耶-●
○-前方後円形墳群
前方後円形墳築造頃の朝鮮半島
領域は諸説があるため、都のみを記載。

上述の通り、これら前方後円形墳の被葬者については在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説が存在する。各説の詳細はそれぞれ次の通り。

在地首長説
栄山江流域の在地系首長が、主体性を保ったまま、それまでの形式に代えて前方後円形を採用したとする説[18]。百済が漢山城陥落ののち南方を志向したことを受け、栄山江流域首長が百済・倭と一定の交流を取りながら自立を維持するため、対外的アピールとして倭の形式を採用したと推測する[18]。また九州系の横穴式石室が存在することから、九州へ渡った栄山江流域出身者が媒介となり、北部九州と連携しようとしたとする[18]。羅州地域の在地系古墳との対応については、在地系グループ間で交流相手が倭・百済で分かれた結果の相違として、併存性を仮定する[14]。そのほか、倭との交流に関係なく百済の圧迫に対抗するためのモデルとして前方後円墳を模倣したとする説、栄山江流域はすでに百済の支配下にあったが漢城陥落に伴ってその支配が緩まったとする説も提唱されている[18]
この説に対して、前方後円形墳の多くが在地系譜のない地域に突如出現することが反論として挙げられる[17]
倭系百済官人説
  • 主な論者:朱甫噋、山尾幸久、西谷正、朴天秀
大加耶征服を見据えた百済が、栄山江勢力の牽制のため派遣した倭人(北部九州・有明海出身者)の墓とする説[18]。前方後円形墳の分布の分散性、前方後円形墳における百済系・倭系要素の混在、『日本書紀[注 2]にある倭系百済官僚の存在が根拠として挙げられる[18]。特に、前方後円形墳は在地系譜のない地域に突如1代に限って出現することから、外部からの単発的派遣が指摘される[17]。羅州地域の在地系古墳との対応については、外部勢力により交通路の遮断や外縁部からの圧迫のため前方後円形墳が配置されたとして、敵対性を仮定する[14]
この説に対して、在地系古墳と前方後円形墳の間に共通点が多く存在することが反論として挙げられる[19]
倭人説
  • 主な論者:東潮、洪潽植
倭(日本)から集団的に移住した倭人の墓とする説[18]。その中で、栄山江流域を『宋書』倭国伝に見える「慕韓」と推測し、倭の影響下にあったと推測する[17]
この説に対して、倭人の大量移住の痕跡が見られないこと、慕韓は考古学的に実体がなく形式的呼称と見られること、栄山江流域と倭の間の交通路に大加耶・新羅が勢力を張っていたため倭の割拠は困難であることが反論として挙げられる[17]
その他
林永珍は、栄山江流域から北部九州に移住した集団が、情勢の変化に伴い再び栄山江流域に戻ったと推測する[18]。しかし考古学的に裏付けることはできていない[17]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 松鶴洞1号墳は、発掘調査により築造時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものと判明したため、前方後円形説は否定されている。しかし森浩一は、調査前の墳丘が明らかに前方後円形をなしていたことから、剣塚(福岡県筑紫野市)のように前期古墳を取り込んで後期古墳が築造された可能性を指摘する。
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇23年4月条には、百済文斤王(三斤王)の死去により東城王が帰国するに際し、筑紫国軍士500人が護衛に遣わされたと見える (朴天秀 2007年, p. 107)。また同書継体天皇6年条には、下哆唎国守の穂積臣押山の名があるが、これを倭系百済官僚とする説がある (朴天秀 2007年, p. 112)。そのほか、欽明天皇紀には紀臣奈率弥麻沙、物部施徳麻奇牟、物部連奈率用奇多、許勢奈率奇麻、物部奈率歌非、物部奈率奇非などの倭系と見られる百済人官僚の名が記されている。

出典[編集]

  1. ^ 田中(2001)
  2. ^ 古墳時代の政治構造。32、33頁。
  3. ^ 西日本の終末期古墳。123頁。
  4. ^ 高田貫太 2012年, p. 86.
  5. ^ a b "강진서 발견된 고대 무덤 '전방후원분'"聨合ニュース、2013年2月20日記事)(朝鮮語)
  6. ^ a b "국내 가장 오래된 5세기 중반 전방후원분 발견"聨合ニュース、2013年10月8日記事)(朝鮮語)
  7. ^ 전방후원분(韓国民族文化大百科).
  8. ^ 高田貫太 2012年, p. 85.
  9. ^ 崔榮柱 2013年.
  10. ^ a b 高田貫太 2012年, p. 88.
  11. ^ 朴天秀 2014年.
  12. ^ a b c d e f 早稲田大学 1996年, pp. 47-48.
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  14. ^ a b c d e f g 高田貫太 2012年, pp. 91-96.
  15. ^ a b c d 西谷正 2002年, pp. 4-7.
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  17. ^ a b c d e f 朴天秀 2007年, pp. 73-80.
  18. ^ a b c d e f g h i 高田貫太 2012年, pp. 85-88.
  19. ^ 高田貫太 2012年, pp. 98-99.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]