見瀬丸山古墳

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見瀬丸山古墳
Mise Maruyama kohun aerial.jpg
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
位置 北緯34度28分33.11秒
東経135度47分53.98秒
所在地 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町
形状 前方後円墳
規模 全長318m、高さ21m
築造年代 6世紀後半
被葬者 有力説:欽明天皇堅塩媛
出土品 須恵器
史跡指定 昭和44年(1969年)国指定、宮内庁畝傍陵墓参考地
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見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)は、奈良県橿原市見瀬町、五条野町、大軽町にまたがった地区に存在する前方後円墳6世紀後半に築造されたと推定されており、欽明天皇堅塩媛の陵墓であるとの説もある。

基礎データ[編集]

古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。これは奈良県下では最大、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。羨道は一枚の長さ4.8メートルの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ1.5メートルほど。玄室の長さ8.3メートル、最大幅4.1メートル、高さ4.5メートルで、二つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれている。玄室内には約1メートルの土砂が堆積しており、石棺の身については詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42メートル、幅1.44メートル、高さ0.42メートル。前棺は蓋の長さが2.75メートル、幅1.41メートル、高さ0.63メートル。材質は流紋岩溶結凝灰岩加古川付近の竜山石

通常石室は円墳の中央に置かれるが、丸山古墳では中央から20mほどずれている。石室を作る際の石が大型化する中、かつ横穴式を目指したことで、中央まで横穴を掘れなかったのではないかとする説もある。

丸山という名前が示すように多くの人達はこの古墳を単なる丸い古墳、円墳と考えており、古くは五条野丸山古墳と呼称されていた。明治時代になり現在の名称で呼ばれるようになったが、地元においては後円部は五条野町、前方部は大軽町が大部分を占めているので、現在でも丸山古墳と称されている。

研究史[編集]

『聖蹟図志』中の図を一部抜粋
左下が見瀬丸山古墳、右上は石室および石棺の詳細
見瀬丸山古墳のステレオ空中写真 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

江戸時代から明治時代にかけて幾度か石室内部の調査が行われた。1790年寛政2)の北浦定政による記録においては[要出典]石室内には水が溜まっており、長さは最大で28メートルと極めて長大なものであったとされている。1796年寛政8)の惟徳実見記で堤惟徳(つつみこれのり)は水が腰に及ぶ中、玄室の長さを3、幅1丈半と計測した。1854年嘉永7)津久井清影が著した『聖蹟図志』によると、石室内には2つの家形石棺が残されており、入り口側は石室右に寄って主軸と平行に、奥側は横を向いておかれている。羨道は段々奥低く水溜れり、天井石六枚、長さ14。玄室は天井石三枚で長さ4間、幅3間。と記されている。1855年安政2)には脇坂淡路守が羨道の長さを「奥行11間34」、玄室は3間、幅と高さ2間半と計測している。

明治時代に入ると、お雇い外国人として来日し、奈良の古墳調査を行ったウィリアム・ゴーランドは「日本最大のドルメン(横穴式石室)」と評価した。記録によると羨道は巨大な自然石6枚(最大のものは16フィート)で天井を覆い、長さ約60フィート、高さ8~10フィート、幅4~8フィート、壁は巨大な粗い自然石を積んでいる。羨道を40フィート進んだところで、内部に4フィートほどの深さで水が溜まっており、玄室には進めなかったが、かろうじて水面に顔を出している二つの家形石棺様子を観察した。[1]出土品は多くが大英博物館に保存されている。


上記のような調査に基づいて、江戸時代末に行われた天皇陵比定作業においては、天武天皇および持統天皇の合同陵であるとされた。その後鎌倉時代における天武天皇陵盗掘犯の調書である『阿不幾乃山陵記』(あふきのさんりょうき)が1880年明治13)に発見されたことで、二人の天皇の合同陵指定は他の古墳に移された。見瀬丸山古墳は宮内省によって天皇陵指定を解かれ、後円部上段の一部が陵墓参考地に指定された。

その後、後円部より出土した唐式鏡が現在京都大学文学部博物館に所蔵されている。宮内庁の実測調査時に特徴から田辺編年のTK43型式の須恵器片が出土しており、5,6世紀半ばまでに築造された古墳に見られる埴輪は一つも発見されていないことからも、築造時期は6世紀後半であるとの説が有力視されている。 350年間続いた巨大な前方後円墳時代から横穴式石室古墳への過渡期を示す重要な古墳である。

1991年の石室撮影写真を巡る議論[編集]

1991年に橿原市在住の児童が友人と遊んでいた際、同古墳の柵外において横穴式石室羨道への入り口を発見した。この話を聞いた児童の父親は、5月30日早朝の出勤前に自身の子と共に羨道を通って内部に入り、カメラで石室内部を撮影した。父親から連絡を受けた大阪の朝日放送が撮影写真の解析を、東海大学情報技術センターとコニカの共同作業によっておこなった。寸法については、撮影者の子供が写っている写真を基に解析し決定された。江戸時代の記録通りに配置されていた家形石棺はどちらも蓋近くまで泥で埋まっており、蓋に付く縄掛け突起の特長から、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀に、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀にそれぞれ造られたと推定された。石室正面を構成する花崗岩の巨石は重量が100トンを越えると推定されており、石舞台古墳の75トンの石をもしのぐ大きさである。石室はその石積様式から6世紀末から7世紀初めに構築されたと考えられた。

その後、森浩一同志社大学教授(当時)が12月10日の大阪講演でこの話を取り上げ、12月26日テレビ朝日ニュースステーションの番組内においても撮影された30枚の写真が放送された。おそらくは本物の天皇陵内部を垣間見る機会を得た国民からは強い関心が寄せられた。古墳研究の専門家の間においてもこれらの写真の有する学術的価値は極めて高いと評価された。

その後1992年8月10日から9月15日まで宮内庁書陵部による開口部の閉塞工事にあわせて簡単な実測調査が行われ、後日報告書が作成、公表された。

被葬者をめぐる論議[編集]

これまでの研究成果および古墳の規模から、研究者の間では欽明天皇堅塩媛の陵墓であるとの説が有力視されるようになっている。しかし『日本書紀』では、571年(欽明32)に没し、河内古市(もがり)がいとなまれ、檜隈坂合陵(ひのくまさかあいりょう)に葬られたとされているので欽明陵は桧隈の地にあることになっているが、見瀬丸山古墳は桧隈の地にあると言えないとの説があり、もうひとつ『日本書紀』には620年(推古28)に欽明陵に石を葺き、盛り土をしたとの記録があるが、見瀬丸山古墳には石を葺いた形跡は見られない。この点、現在欽明陵に比定されている梅山古墳は場所的にも桧隈の地にあり、大規模な葺石も発見されている。そのため、見瀬丸山古墳に近い時期に築造されたとみられている梅山古墳が欽明陵であるとの説も残っている。

見瀬丸山古墳の被葬者が欽明天皇と堅塩媛でない場合、古墳の築造時期から考えて、被葬者候補としては蘇我稲目の名も挙げられている。

文献[編集]

  • 季刊考古学・別冊2  『見瀬丸山古墳と天皇陵』 猪熊兼勝他 雄山閣 1992年 ISBN 4639010990
  • 書陵部紀要 第45号 『畝傍陵墓参考地石室現況調査報告』 宮内庁書陵部 1994年
  • 古代を考える 57  『見瀬丸山古墳の検討』 古代を考える会 1996年
  1. ^ ゴーランド『日本のドルメンとその築造者』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]