石舞台古墳

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石舞台古墳
Ishibutaikofun.jpg
石舞台古墳
位置 北緯34度28分0.44秒
東経135度49分34.14秒
所在地 奈良県高市郡明日香村島庄
形状 不明
規模 長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m
築造年代 7世紀初頭
被葬者 蘇我馬子か?
史跡指定 昭和27年(1952年)国特別史跡
  

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952年)3月27日、国特別史跡に指定される。

目次

[編集] 概要

古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。昼間は公開されており、玄室内に入ることが可能である。

封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。蘇我馬子の墓であったことから封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている[1]

1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。1954年(昭和29年)から1959年(昭和33年)にかけて古墳の復元整備事業が行われ、この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が曲げられたという逸話がある。

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。

[編集] 名称

石舞台という以外に地元では「石太屋」(いしふとや)、「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている[2]

[編集] 脚注

  1. ^ 網干善教「別冊太陽 飛鳥 古代への旅」(2005、平凡社) p.33
  2. ^ 『高松塚への道』(草思社、2007年)p66-68

[編集] 関連項目

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