大仙陵古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
大仙陵古墳
NintokuTomb.jpg
大仙陵古墳国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
位置 北緯34度33分50.16秒
東経135度29分14.32秒
所在地 大阪府堺市堺区大仙町
形状 前方後円墳
規模 墳丘長486m(全国1位)
高さ35m
築造年代 5世紀前期-中期
被葬者 第16代仁徳天皇宮内庁治定)
出土品 埴輪・須恵器、(伝)甲冑・鏡・環刀
史跡指定 宮内庁治定「百舌鳥耳原中陵」
特記事項 全国第1位の規模[1]
テンプレートを表示
仁徳天皇陵 拝所

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳。墳丘長は日本最大で、墓域面積は世界最大であるとされる。周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。

宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇に治定されている。一般には「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」とも呼ばれる。

古墳の概要[編集]

築造時期・被葬者[編集]

採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。

治定について[編集]

『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇反正天皇履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。

規模[編集]

当古墳の規模について、堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している[2]

  • 古墳最大長:840メートル
  • 古墳最大幅:654メートル
  • 墳丘長:486メートル
  • 墳丘基底部の面積:103,410平方メートル
  • 後円部直径:249メートル
  • 後円部高さ:35.8メートル
  • 前方部幅:307メートル
  • 前方部長さ:237メートル
  • 前方部高さ:33.9メートル

墳丘長は、第2位とされる大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の425メートルを上回り、日本最大である。墳丘本体の体積や表面積では誉田御廟山古墳と甲乙付けがたく、特に体積については誉田御廟山古墳が最大であるとの指摘がある。

墳形・周濠[編集]

大仙陵古墳のステレオ空中写真(1979年(昭和54年)) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

墳丘は3段からなっている。測量図では、前方部の一部は綺麗な三段になっているが、墳丘の大半の等高線に大きな乱れが観察され、地震などによる大規模な崩壊もしくは人為的破壊、あるいは未完成であったことが推測されている。後円部の頂上部分は崩壊が酷いが、もとは直径60~70メートルの円形であったようである。

被葬者が葬られた後円部と前方部とが繋がるくびれ部には両側に突出した造出し(つくりだし)がある。この造出しの役割は、まだ解明されていない。

江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠はもとは三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである(『堺市史続編』)。この三重目の濠は、大古墳の周りに配置された陪塚(ばいちょう・ばいづか)の円墳に3カ所で突き当たり、それらを迂回している。内濠(一重目)の幅は約70メートル、くびれ部では最も広く東側で115メートル、西側で120メートルある。この内濠を囲むのが内堤である。ここに約30センチメートルの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。外濠(二重目)を囲んで外堤が造られていた。三重目の濠があるがその外側に堤がないのが不自然である。また、内側の外堤部も元々は一部が切れていたが、これも1896年(明治29年)の工事で補修され、現在の形になった。現在でも航空写真で後円部を上、前方部を下と見立てた際に左側の外堤が細くなっている。

外表施設[編集]

墳丘には葺石(ふきいし)と埴輪が存在している。特に三重目濠から出土した巫女形埴輪の頭部が著名である。また造出し近辺で宮内庁職員が須恵器の大甕を採集しており、本来は造出し上に置かれていたものである可能性が高い。埴輪の中には武人や馬などが多いが、中には円筒形をしたものがあり、これは結界を張って内部に人を入らせないようにしていたと考えられる。

埋葬施設[編集]

後円部に存在する埋葬施設は江戸時代には露呈しており、既に盗掘されているようである。江戸時代の1757年(宝暦7年)には、後円部の埋葬施設には長持型石棺が認められている。

前方部正面の中段にも竪穴式石室が築造されている。1872年(明治5年)には、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、埋葬施設が露出している。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されているが、この時の記録は関東大震災で焼失してしまっている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままである。

副葬品[編集]

後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている。

  • 甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が鋲留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。
  • 鉄刀二十口は、把(つか)や鞘には金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス杯は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。

なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。

ボストンの仁徳陵出土品[編集]

アメリカボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

  • 鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。又、この鏡は、百済王より七支刀と同時に奉られた七子鏡であるとする説もある。
  • は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅任那古墳から出土している。

宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉天心により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという[3]

陪塚[編集]

陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は中型や小型合わせて15基あり、前方後円墳1基、帆立貝式古墳はその可能性も含めて5基、大きな円墳2基、円墳または方墳など小さな古墳7基、合わせて15基が陪塚的な位置にある。

西側から狐山、竜佐山(帆立貝式古墳)、孫太夫(帆立貝式古墳)、収塚(帆立貝式古墳推定)で、これら4古墳は大山古墳と同時期に築造された。前方部の南西端を北上すると直ぐ銅亀山(方墳か)、さらに北上し後円部の北方に丸保(防)山古墳(帆立貝式古墳)とその北に永山古墳(前方後円墳)があり、ともに周濠がある。丸保山古墳の南西にもう1基の帆立貝式古墳と南東に墳形不明の古墳がもう1基ある。後円部の長軸線上で外堤上に茶山古墳(直径約55m、円墳)、その東方で外堤上に大安寺山古墳(直径約60m、円墳)があり、陪塚に指定されているが、円墳では大規模な部類に入り検討すべき点が多いという。大安寺古墳の南東直ぐ近くに源衛門山古墳(直径約40m、円墳、周堀)がある。さらに三重目の濠に沿って南下すると塚周り古墳があり、また、南に円墳と方墳らしき古墳があったが、戦後の混乱期に復興のための土取工事で1950年(昭和25年)頃に消滅した。

史料上の記述[編集]

大仙陵古墳の復元模型(大阪府立近つ飛鳥博物館

『記紀』の記述[編集]

古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399年)正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。

延喜式[編集]

平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。

堺鏡[編集]

『堺鏡』(1684年(貞享元年))には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていた。そのため、尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、1853年(嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、1864年(元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年(慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。

明治時代[編集]

1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。

名称の変遷と混乱[編集]

形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している。また、併記する場合も多いため、より多種に渡ってしまっている。江戸時代の絵図等では「仁徳天皇陵」「大山陵」の表記が見られる。

主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降[4]、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。

宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。

現在では、堺市が町名に大仙を採用したことから(大仙町、1929年(昭和4年)より)、大山よりも大仙が定着している。また、仁徳御陵・仁徳帝陵よりも仁徳天皇陵が定着しているが、堺市民の間では単に御陵と呼ばれることが多く、駅(御陵前停留場)、道路(御陵通)、町名(御陵通、1933年(昭和8年)より)などの名称にもなっている。

現状[編集]

仁徳天皇像(堺市・大仙公園)

歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年(平成12年)には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。しかし、濠に棲むナマズや鯉を狙った釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750メートル)、陵域を一周することもできるが、余りにも巨大な墳丘のため、どこから見ても山にしか見えない。

考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。

堺市民は親しみを込めて「仁徳さん」もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵・反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。堺市役所高層館21階の展望ロビーからは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。

他の古墳にも言えることだが、立ち入り制限のおかげで、都会の中心にありながら貴重な自然が残されていることも特徴である。鬱蒼とした木々が茂り、多くの鳥や昆虫の楽園となっている。

「世界遺産登録計画」[編集]

政令指定都市となった堺市では、大仙陵古墳を含む「百舌鳥古墳群」を、ユネスコ世界遺産に登録する計画が持ち上がっている。しかし、大仙陵古墳は皇室財産であり、登録条件である「当該国又は地方の法令による確実な保護管理を担保すること(日本では文化財保護法に基づく『国宝』や『特別史跡』、自然公園法に基づく国立公園など)」を満たしていない。この点については、宮内庁文化庁・大阪府・堺市等関係機関が協議継続中である。歴史学や考古学の一部学会からは、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある一方で、皇室財産を文化財同様に扱うことへの反対運動も多い。

交通アクセス[編集]

参照[編集]

  1. ^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ 2012年12月19日更新版)。
  2. ^ 仁徳天皇陵古墳百科(堺市ホームページ)2012年12月19日更新版。
  3. ^ 徳田誠司「米国ボストン美術館所蔵 所謂「伝仁徳天皇陵出土品」の調査」(『書陵部紀要』第62号〔陵墓編〕、宮内庁書陵部、2011)
  4. ^ 森浩一『巨大古墳』講談社学術文庫、2000年8月、39ページ

参考文献[編集]

  • 中井 正弘 「仁徳陵 この巨大な謎」 1992年 創元社
  • 「仁徳陵古墳-築造の時代」 1996年 大阪府立近つ飛鳥博物館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]