土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土器(どき)(英:pottery, earthenware)とは、土を練り固めて器の形にし、加熱することで仕上げたものをさす。
目次 |
[編集] 概要
一般には、粘土を窯を使わず、野焼きの状態で700 - 900℃の温度で焼いた器のことを指し、陶磁器とは区別することが多い。この場合、野焼きを行う穴を焼成坑と呼ぶ。また、古墳時代より製作が始まった日本の須恵器のように窯で焼成したものであっても胎土として使用された本来の粘土の性質が露出しているために、陶器とみなしえないものも土器に含まれる。この場合、須恵器は陶質土器として位置づけられている(朝鮮半島でも陶質土器の表現を用いる)。土器の器壁の内部には、気孔が多く残っているため、透水性が著しく、陶磁器と比べて比重が軽く、胎土の密度がちいさい。したがって、脆くて壊れやすい。
土器の出現はオーストラリアの考古学者ゴードン・チャイルドによれば「人類が物質の化学的変化を利用した最初のできごと」であり、物理的に石材を打ちかいてつくった石器とはまた異なる人類史的意義を有している。
ことに日本にあっては、それが煮炊きのために用いられたところから小動物の狩猟に依存していた生活や自然の恵み(植物の実・根、貝・鳥獣・魚)に依存する食料採集生活ではあまり土器が使われなかった。彼らの中で比較的定住する傾向を持つ集団が土器を使った。 土器を使用することによって加熱によるアク抜きや煮沸、煮炊きが可能となった。ドングリ・クリなどの堅果(木の実)、貝類を含めた魚介類、山菜、根菜など多種多様な動植物が食糧として活用される契機となって定住化がすすみ、各地で竪穴住居より構成される縄文集落が形成された。生業として採集や漁労が採り入れられ、沿岸部では、土器を用いた塩づくりも広くおこなわれて広汎な交易がおこなわれるようになった。
[編集] 土器の彩色
土器は、メソポタミア、インダス、黄河、ギリシャなどの各文明でみられる彩文土器のように、彩色される場合もあるが、この場合、彩色具は、あくまでも表面を彩色するのみであり、釉薬(うわぐすり、またはゆうやく)のように胎土を覆ったり、透水性を変化させたりなどの物理的、化学的な変化を器本体にもたらさないことを前提としている。ただし、その区別は微妙であり、メソアメリカで後古典期にみられる光沢のある釉薬がかかったような焼成のよい器であるPlumbate Wareを鉛釉土器と呼ぶ場合などもある。
土器とは、一般に胎土が露出した状態のいわゆる素焼きの状態の器であって、磁器のように化学変化を起こしてガラス化していないため粘土の不透明な状態がそのまま残っているものを称している。
[編集] 製法
土器に残された痕跡を観察することによって、その製法を復原することができる。
縄文土器や弥生土器においては、土器が輪積みによって作られていることは、土器面に残された輪積みの痕跡や粘土紐の合わせ目に沿って割れた破片の断面などによって確認することができる。それに対し、須恵器や陶質土器はロクロを用いて作られたことが、ロクロ台からの切り離し痕跡(糸を使う場合とヘラを使う場合がある)や土器面の指頭痕などによって確かめられる。
一般に、土器は
- 素地土の採取—粘土だけでは乾燥時に収縮し、亀裂を生じることから植物の繊維や滑石などの混和材も採取する。
- 素地土作り—押したり、揉んだり、踏みつけたりして粘土中の気泡を抜き、含まれる物質を均一に混ぜ合わせ、粘性を高める。
- 成形—粘土紐を積み上げていく方法(輪積製法)やロクロを用いる方法がある。
- (整形)—縄文土器の場合は把手や突起などをつくる。土師器や須恵器の場合は高台をつくる場合などがある。
- 文様施文—縄や撚糸をころがす。ヘラ、刻みをつけた棒、貝殻、種実、縄などを押しつける。ヘラで磨り消す。ミガキをかける。塗彩する場合もある。
- 乾燥—冷暗所で7日から10日程度乾燥させる。乾燥によって土器は1割ほど収縮する。
- 焼成—焼成坑をつくり、焼成する。
- 調整—水もれを防ぐため表面を丹念に磨きあげる。漆液を塗って仕上げる場合もある。
という工程を経てつくられる。
破損したときの接着剤として、漆やアスファルトその他が用いられる場合がある。アスファルトは、日本の縄文時代においては、秋田県沿岸部の油田地帯産のものが北海道南部から東北地方にかけて広く交易されていることが確認されている。
[編集] 土器研究と考古学
日用品として使用される土器は、時期によって、用途や成形技法、形状が変化するため、型式学的研究がなされ、時間を計る物差しとして考古学上の編年の指標や研究の対象とされる。
日本において、層位学的研究を用いて、ひとつひとつの地層から出土した土器の編年研究を、ねばり強く進めたのが、山内清男、八幡一郎、甲野勇らであった。それは1920年頃からはじまり、1935年頃には縄文土器の編年の見通しが立てられ、1937年、山内清男による全国的規模の「山内編年表」が発表された。大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)などの型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要がある。加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼んでいる。この手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。
また、土器は胎土中の岩石や鉱物の組成と出土周辺地域の地質を比較すること(胎土分析)によって、在地的な土器であるか外部から搬入されたものであるか産地を推定すること(産地同定)がある程度可能であり、土器製作集団の活動や移動を示す大きな指標にもなっている。胎土分析、産地同定ともにデータの増加にともない、精度は近年、格段に向上している。
土器の年代は、今ではおおむね炭素14年代測定法が受け入れられている。
[編集] 土器の形態と用途
時代によって生業や生活様式が異なることから、単純に形態から用途を類推することはできない。縄文土器は、当初煮炊きの道具として生まれたことが土器の表面にこびりついた煤状炭化物や吹きこぼれの痕跡によって確かめることができるが、その多くは深鉢の形状をなしており、これら深鉢形土器は縄文時代を通じて貯蔵、場合によっては子ども用の墓(土器棺)など多用途に用いられた。それに対し、稲作農耕が本格化して、米粒食が普及すると甑(こしき)、鍋、甕などが炊飯や煮炊き具として普及し、供献用ないし食器として椀が登場する。ただし、甕形の土器は縄文時代よりすでに液体などの貯蔵用として用いられており、弥生時代には棺としても用いられており、ここでもやはり形態と用途との対応は一義的ではない。
土器形態に関しては、長谷部言人考案の説が、基準が明瞭なため広く採用されている。それは、口径と高さの値をもととしたもので、
- くびれのあるもので、頸と胴との接点の幅が最大幅の3分の2以上のものが「甕」
- くびれのあるもので、頸と胴との接点の幅が最大幅の3分の2以下のものが「壺」
- くびれのない鉢形のうち、高さが口径の3分の2以上のものが「深鉢」
- くびれのない鉢形のうち、高さが口径の2分の1ないし3分の1程度のものが「浅鉢」
- 高さが口径の3分の1以下のものが「皿」
- 高さが3分の1くらいの台のつくものが「高坏」
である。なお、たとえば単に「壺」と称した場合、現代人の壺の用途に引きずられて考えやすいため、あくまでも形状に限定しているという意味で、考古学では「壺形土器」のように呼称することが多い。
用途に関しては、煮沸用土器、貯蔵用土器、供献用土器に大別されることが多い。日本列島においては、縄文時代より海水を煮詰めて塩をつくる製塩土器があるが、これは煮沸用土器にあたる。塩はさかんに内陸部に運ばれたであろうと思われる。煮沸用土器があることで、生水ではなく煮沸した水を飲料に供給できたことは、中毒症の罹患や感染症の蔓延を防ぎ、人びとの定住化をおおいに促進させたものと考えられる。なお、日本や東北アジア以外の世界各地では土器は当初より貯蔵用土器が古く、多くの場合、農耕のはじまりと結び付けられて理解されている。
[編集] 日本の土器
歴史的には、原始的な陶磁器が土器である。日本では縄文式土器や弥生式土器が有名で、弥生式土器の系統は古墳時代以降土師器に受け継がれる。大陸より製法のもたらされた須恵器が支配者階級に好まれたのに対し、土師器はより一般的な容器として広く用いられたが、のちに独特の意義を認められ、中世ではかわらけとして酒杯として用いられた。現代でも一部の神社などの祭祀で御神酒をいただく際の飲む使い捨ての酒杯として残っている。
- 縄文土器
- 弥生土器
- 土師器
- 須恵器
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 大川清『日本土器事典』雄山閣出版、1997.1、ISBN 4639014066
- 小林達雄『縄文人の世界』朝日新聞社、1996.7、ISBN 4022596570
- 藤村東男『縄文土器の知識Ⅱ 中・後・晩期』東京美術、1984.8、ISBN 4-8087-0243-6

