都道府県

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都道府県(とどうふけん)とは、日本の広域普通地方公共団体である「」、「」、「」、「」の総称である。現在では、都が東京都の1、道が北海道の1、府が京都府および大阪府の2、県が43で、「1都1道2府43県」、総数は「47都道府県」である。市町村とともに普通地方公共団体の一種で、包括的地方公共団体広域的地方公共団体ともいう。

概要[編集]

都道府県区分

都道府県とは、日本における行政区画の一つである。市町村が「基礎的な地方公共団体」(地方自治法2条4項)とされるのに対して、都道府県は「市町村を包括する広域の地方公共団体」(同条5項)とされ、広域にわたる事務や市町村に関する連絡事務などを処理する。日本全国は1727市町村または23特別区にくまなく分けられ、すべての市町村および特別区は47都道府県(1都、1道、2府、43県)のいずれか一つに包括されている、二段階の地方制度である。

都道府県には、議決機関として議会(都道府県議会)、執行機関として知事(知事部局)を置く。そのほか、公安委員会(都道府県公安委員会)と警察本部教育委員会選挙管理委員会監査委員などの委員会および委員とその事務部局を置く。都道府県は自治権を持ち、条例・規則を制定し、地方税負担金などを賦課・徴収し、地方債を起こす権能を有する。

1947年昭和22年)5月3日日本国憲法が施行された日に地方自治法も施行され、都道府県と市町村を中心とする地方自治制度が始められた。地方自治法には、統一的な都道府県制度が定められた。ただし、都道府県のうち、都は、特別区に対する一定の調整権限を有することが特徴的である。府県の間には法律上の違いはなく、名称の違いはもっぱら歴史的なものである[1]。道は、地方自治法上は府県と同じ扱いであるが、府県とは若干異なる警察組織を有するほか(警察法46条・51条)、河川法(96条)、道路法(88条)などには道についての特例がある。

歴史[編集]

明治期の制度改変[編集]

江戸時代幕藩体制の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、明治維新により、段階を経ながら中央集権体制が確立されていった。

1871年明治4年)の廃藩置県に前後して、順次設置された府・県・庁・都のいずれにおいても、内務省によって任命された官選知事が行政を司り、国の地方行政機関として位置付けられていた。一方、それぞれに民選議会が設置されており、ある程度の地方自治が存在した。

府県[編集]

1868年(明治元年)、江戸幕府の直轄領(幕領旗本の領地)が明治政府の直轄領になり、三都江戸大坂)や、開港5港などを管轄する重要地域をとし、それ以外をとして、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。はそのまま大名(諸侯)が治めた。

1869年9月1日(明治2年7月25日)、かねてより諸侯から出されていた版籍奉還の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で知藩事として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。

この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て天皇に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、幕藩体制江戸幕府の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、府藩県三治制と呼ばれる(府県のみ直轄)。

1869年9月29日(明治2年8月24日)の太政官布告によって、京都府東京府大阪府以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府(神奈川府新潟府越後府甲斐府度会府奈良府箱館府長崎府)が県に名称変更した。この時点では、天皇東京行幸東京にいたが、高御座(天皇の在所を示す玉座で、これのある場所が皇居とされる)の移動が無かったので、高御座のある京都府の方が東京府より序列が前になっている。なお、この太政官布告前は、東京府は江戸府と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。

1871年10月13日(明治4年8月29日)に行われた廃藩置県により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、飛び地が全国各地に見られ、府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併し、1使3府72県となった。

1876年(明治9年)に県の大規模合併が行われ、1878年(明治11年)に制定された地方三新法の1つ、郡区町村編制法により合併や領域変更が行われ、一時は37府県まで減ったものの、分割運動によって1889年(明治22年)の市制町村制1890年(明治23年)の府県制郡制の制定を経て、1庁(北海道庁)3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。1890年(明治23年)以後、県の合併・分割は一切行われず、1943年(昭和18年)に正式に内地編入された樺太庁が追加されたほか、同年、東京府が東京都となり現在に至っている(終戦時、1都(東京都)2庁(北海道庁・樺太庁)2府(京都府・大阪府)43県)。

廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。1886年(明治19年)以後は、両者とも「知事」と呼ばれた。府知事や県令(県知事)は、内務省から派遣される官僚であった。一方で、1878年(明治11年)に制定された地方三新法の1つである府県会規則(北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、地方自治の主体としての性格も併せ持った。

1889年(明治22年)に市制が始まるが、を代表するのは市会であり、現在のように市長ではなかった。ただし、「県」下の市には「市会推薦市長」が存在したのに対し、「府」下の市(東京市京都市大阪市)には市長は存在せず、府知事がその役を兼務した(市制特例参照)。これら3市では、1898年(明治31年)10月になって初めて市長が生まれた。

国の地方行政官庁としての府県は、勅令である「地方官官制」によって、地方自治体としては法律である「府県制」(明治23年 法律第35号(明治32年、法律第64号で全面改正))によって規定されている。

沖縄県は、「県」が設置される経緯が、他の県と異なっている。

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都道府県数の推移
年月日 備考
1868年8月2日
慶応4年6月14日
2府 最初の府県として箱館府京都府設置。以降、府藩県三治制下において政府直轄地が順次府県となる
1869年9月20日
(明治2年8月15日
-府-県 開拓使設置)
1871年10月13日
(明治4年8月29日
3府302県 廃藩置県。北海道の一部を除く国内全域が府県となる
1872年2月10日
(明治5年1月2日
3府72県 1月19日(前年12月10日)〜 第一次府県統合
1875年12月20日 3府59県 第二次府県統合前
1876年1月2日 3府35県 前年12月10日〜 第二次府県統合。廃藩置県後では最少の府県数
1879年4月4日 3府36県 沖縄県設置
1880年3月2日 3府37県 徳島県分立
1881年2月7日 堺県編入、福井県分立
1881年9月12日 3府38県 鳥取県分立
1882年2月8日 3府41県 開拓使を3つの県に移行
1883年5月9日 3府44県 富山県佐賀県宮崎県分立
1886年1月26日 3府41県1庁 3つの県を北海道庁に移行
1887年11月4日 3府42県1庁 奈良県分立
1888年12月3日 3府43県1庁 香川県分立
1899年3月16日 府県制が3府4県に施行され、北海道と沖縄県を除く全3府42県が「自治体」となる
1943年7月1日 1都2府43県1庁 東京府を東京都に移行
1945年 1都2府42県1庁 沖縄県がアメリカ施政下に入る
1946年9月27日 1都1道2府42県 府県制改正により北海道庁を北海道に移行
1947年5月3日 地方自治法施行により都道府県が「普通地方公共団体」となる
1972年5月15日 1都1道2府43県 沖縄返還により沖縄県が復帰
※開拓使および樺太および戦前における外地は除いた。

北海道」という呼称は、1869年(明治2年)7月開拓使設置と同年、「松前地」および「蝦夷地」と呼ばれた地域を改称し、北海道11国86郡を制定したのに始まる。これは律令制の下で68の五畿七道に区分した用法と整合する。渡島国の一部については廃藩置県で成立した館県が弘前県に吸収・青森県の一部となっていたが後に開拓使に移管。1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて道内を三分する函館県札幌県根室県の3県が設置されたが、1886年(明治19年)に廃止され「北海道庁」が設置された。

当時、北海道庁の管轄域を「北海道」と呼んだが、「北海道」は単なる地域呼称・地方名であり、現在のような「道」という自治体名ではない(内地編入された樺太における樺太庁の命名法と共通する)。従って、地方行政官庁として他の府県と並列するときには「庁府県」という表現が用いられた。

北海道庁官制(明治19年 勅令第83号(後に全面改正))によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる官職とした。1901年(明治34年)、北海道会法(明治34年 法律第2号)および北海道地方費法(明治34年 法律第3号)が公布されて議会が設置され、「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。なお、北海道会は府県会と比べて議会の権限は狭かった。その後、樺太(共通法1条2項では内地に含まれた)における法令上の特例が廃止され、新たに樺太庁が正式に加わり2庁となった。

昭和期の制度改変[編集]

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第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日東京都制(昭和18年 法律第89号)の施行により、東京市東京府と合併され「東京都」となり、市制と自治権を剥奪された。東京都官制(昭和18年 勅令第504号)により「東京都長官」が長官とされ、東京都を設置した内務官僚である大達茂雄が、その第1代に任命された。

東京都制によって都議会が設置され、旧・東京市内の各区にも区会が置かれたが、特に区部に対する国の統制は強力だった。

道府県[編集]

戦後、1946年(昭和21年)9月の府県制改正に伴って、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて府県制に統合され、同法は道府県制と改称された。この改正法の附則の規定により従来北海道地方費と呼んできた自治体を「道」と呼ぶものとされた。

1947年(昭和22年)5月3日の地方自治法施行とともに、北海道庁官制も廃止され、地方行政官庁であった北海道庁も、普通地方公共団体の一つである「北海道」となった。

地方自治法施行以後[編集]

都道府県[編集]

1947年(昭和22年)4月日本国憲法第92条で予定された法律として地方自治法が公布された。この中で都道府県は、以前の「中央政府の下部機関」という立場ではなく、市町村と同様の「普通地方公共団体」に位置づけられ、議会議員のみならず知事選挙によって選ばれることになった。ただし、1947年(昭和22年)4月に実施された最初の知事公選はまだ成立していなかった地方自治法ではなく、前述の府県制(道府県制)・東京都制改正で地方長官について公選制が導入されたことを根拠に行われた。この時点で、1都(東京都)1道(北海道)2府(京都府・大阪府)42県。その後、1972年(昭和47年)にアメリカから返還された沖縄に沖縄県が置かれ、再び43県となっている。

都道府県知事が公選となる一方で、戦前に起源を持つ機関委任事務制度は2000年(平成12年)に廃止されるまで長く存続した。都道府県は、普通地方公共団体として市町村と対等であるが、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理する(地方自治法(第2条第5項))。

しかし、「都」・「道」・「府」・「県」という「単位」の定義が地方自治法には明記されておらず、現在の都道府県名は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づいて使われている。

沖縄県[編集]

沖縄県1945年(昭和20年)から(正式にはサンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日から)1972年(昭和47年)のアメリカによる占領下では、日本の統治下になかったため、この時期における沖縄の扱いは微妙であり、国会では「琉球政府」、「南西諸島」などの呼称が使用され、都道府県の数では1都1道2府42県などと数えられ、沖縄は県の数として含められていない[2]

沖縄復帰を前に制定された「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」では、かつての沖縄県が「地方自治法に定める県として存続する」ものとされた。

制度[編集]

議決機関[編集]

都道府県に納める税[編集]


廃置分合[編集]

都道府県を合併したり、新しく都道府県を設置したりすることを「廃置分合」といい、次のように分けられる。

  • 複数の都道府県を廃止して、新たに都道府県を設置する(合体)。
  • 一の都道府県を廃止して、その区域を他の都道府県の区域とする(編入)。
  • 一の都道府県を廃止して、その区域に複数の都道府県を設置する(分割)。
  • 都道府県の区域の一部を分けて、都道府県を新設する(分立)。

廃置分合については、都道府県の設置・廃止を伴わずに区域のみを変更する「境界変更」(市町村の所属都道府県の転属を含む)と併せて、地方自治法第6条及び第6条の2に規定されている。

廃置分合の原則的な手続き[編集]

法律による(第6条第1項)。この法律は、憲法95条に定める「一の地方公共団体のみに適用される特別法」(地方自治特別法)であると解されるので、関係都道府県において住民投票を行い、それぞれ過半数の賛成を得なければ効力を生じない(詳細な規定は地方自治法第261条第262条)。

合体と編入の例外[編集]

平成16年法律第57号による改正で、簡略な方法による合体・編入の手続きが新設された。

  • 複数の都道府県を廃止して、その区域全部に新しい都道府県を設置するとき
  • 一の都道府県を廃止して、その区域全部を他の一の都道府県の区域とするとき

に限って、

  • 関係都道府県の議会の議決により申請し、
  • 国会の承認を経て内閣が定める。

という手続きによることができるようにしたものである(地方自治法第6条の2)。

これは、長野県山口村岐阜県中津川市との合併の際に、都道府県にまたがる市町村の合体(新設合併)には法律の制定が必要なこと(後述)がクローズアップされたことや、道州制導入の前段としての自主的な都道府県合併を促す必要があるとの趣旨で設けられたものである。

廃置分合と知事・議会議員[編集]

  • 合体の場合、関係都道府県の知事と議会議員は失職し、新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。
  • 編入の場合、編入された都道府県の知事と議員は失職するが、編入をした都道府県の知事と議員は失職しない。
  • 分割の場合、廃止される都道府県の知事と議員は失職し、分割後に新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。
  • 分立の場合、分離前の都道府県の知事と議員は失職せず、分離されて新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。

境界変更[編集]

都道府県の境界変更も、廃置分合と同じく法律(地方自治特別法)によることを原則とするが、次のような場合は「自ら変更する」こととなっている(地方自治法第6条第2項)。

  • 都道府県の境界でもある市町村の境界に変更があったとき
  • 都道府県の境界にわたって市町村の設置があったとき

この2つの場合においては、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定めることとなる(第7条第3項)。

  • 従来地方公共団体の区域に属しなかった地域を市町村の区域に編入したとき

市町村の境界変更と同じく、市町村の区域に変更があったことに伴う変更であるからである。

所属都道府県の変更[編集]

一の市町村又は一の郡の全体が他の都道府県に編入されるときも、都道府県の境界変更であり、法律によることとなる(昭和25年9月9日付け)。

都道府県にまたがる市町村の合体[編集]

異なる都道府県に所属する市町村が廃止され、その区域に市町村が設置される場合は、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定める(第7条第3項)。

従来、都道府県の境界を越える市町村の合体(複数の市町村を廃止して、その区域に新たに市町村を設置すること)にも、第6条第1項により、新たに制定される法律によるものとされていた(昭和28年6月29日付け 自行行発第195号)。

そのためもあり、2005年平成17年)の長野県山口村と岐阜県中津川市との合併は、中津川市への編入という形をとることになった。それを契機として、平成16年法律第57号による改正により、都道府県の境界にわたる市町村の境界変更の手続きと同様の簡易な手続きによることとされた。

分割論が存在する地域[編集]

1876年(明治9年)に大規模合併が実施された県では分割運動が起こって再度分割された県も存在するが、1888年(明治21年)末に香川県愛媛県から分離されて以来、都道府県の分割は実施されていない。

しかし今もなお、都道府県の分割を求める声が市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。

福井県
2006年(平成18年)3月上旬に、嶺南(若狭地方)に当たる敦賀市小浜市市長が「(もし道州制が敷かれる際に、)嶺北(越前地方)が北陸州へ入るなら、嶺北とは縁を切っても近畿州へ入る」と発言し、嶺南の福井県からの脱退を示唆している。
長野県
筑摩県が分割されて長野県に編入されて以来、分割を求める動きが度々出ている。両県の合併後、県内地理教育唱歌として作られた「信濃の国」が事実上の県歌として広く歌われ、県民意識統合の象徴とされた(1968年、正式に県歌として制定)。
山口県下関市福岡県北九州市
関門海峡の両岸に位置する下関市と北九州市が合併して、山口県や福岡県、さらには道州制のにも属しない「関門特別市」を結成する動きがある。

地域順の一覧[編集]

Regions and Prefectures of Japan 2.png
北海道
青森県
岩手県
宮城県
秋田県
山形県
福島県
茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
千葉県
東京都
神奈川県
新潟県
富山県
石川県
福井県
山梨県
長野県
岐阜県
静岡県
愛知県
三重県
滋賀県
京都府
大阪府
兵庫県
奈良県
和歌山県
鳥取県
島根県
岡山県
広島県
山口県
徳島県
香川県
愛媛県
高知県
福岡県
佐賀県
長崎県
熊本県
大分県
宮崎県
鹿児島県
沖縄県

以下にJIS X 0401による都道府県コードの順番で日本の都道府県を挙列する。

北海道地方 北海道
東北地方 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県
関東地方 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県
中部地方 新潟県 富山県 石川県 福井県 山梨県 長野県 岐阜県 静岡県 愛知県
近畿地方 三重県 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県
中国地方 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県
四国地方 徳島県 香川県 愛媛県 高知県
九州地方 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県
沖縄地方 沖縄県

名称[編集]

庁府県設置(あるいは名称変更)
当時の庁舎所在地と郡[3]
庁府県 所在郡 所在地 現所在地
北海道庁 札幌郡 札幌  

青森県 津軽郡 青森
岩手県 岩手郡 盛岡
宮城県 宮城郡 仙台
秋田県 秋田郡 秋田
山形県 村山郡 山形
福島県 信夫郡 福島

茨城県 茨城郡 水戸
栃木県 都賀郡 栃木 宇都宮
群馬県 群馬郡 高崎 前橋
埼玉県 埼玉郡 岩槻 さいたま
千葉県 千葉郡 千葉
東京府 豊島郡 東京 新宿
神奈川府 橘樹郡 神奈川 横浜

新潟府 蒲原郡 新潟  
富山県 新川郡 富山
石川県 石川郡 美川 金沢
福井県 足羽郡 福井  
山梨県 山梨郡 甲府
長野県 水内郡 長野
岐阜県 厚見郡 岐阜
静岡県 安倍郡 静岡
愛知県 愛知郡 名古屋

三重県 三重郡 四日市
滋賀県 滋賀郡 大津  
京都府 葛野郡 京都
大阪府 東成郡 大阪
兵庫県 八部郡 兵庫 神戸
奈良県 添上郡 奈良  
和歌山県 名草郡 和歌山

鳥取県 邑美郡 鳥取
島根県 島根郡 松江
岡山県 御野郡 岡山
広島県 沼田郡 広島
山口県 吉敷郡 山口

徳島県 名東郡 徳島
香川県 香川郡 高松
愛媛県 温泉郡 松山
高知県 土佐郡 高知

福岡県 早良郡 福岡
佐賀県 佐賀郡 佐賀
長崎府 彼杵郡 長崎
熊本県 飽田郡 熊本
大分県 大分郡 大分
宮崎県 宮崎郡 宮崎
鹿児島県 鹿児島郡 鹿児島
沖縄県 島尻郡 那覇

明治政府の県名の決め方の一つの説として、明治時代のジャーナリストである宮武外骨の著書『府藩県制史』(1941年(昭和16年)刊)が有名である。その中で、明治政府内の「永久不滅の賞罰的県名」として、「早い段階から官軍側に付いた『忠勤藩』の藩名は県名にされて、官軍側に付かなかった『朝敵藩』や、官軍側に付くのが遅かった『曖昧藩』の藩名は、一つも県名には残っていない」と述べている。

つまり、戊辰戦争で明治政府(薩長)軍だった所は「都市名」を県名にされて、一方で明治政府軍でなかった所は「郡名」を県名にされている、という説である。

の多くは、令制国一国を領する藩を除いて、城下町を藩の名称に用いる事が多かった。ただし、は後に異名を付けられたため、現在も『府藩県制史』が書かれた当時も、城下町名がそのまま都市名となっている所も多いが、俗称では藩主の姓を称する所もあった。

「朝敵藩」・「曖昧藩」とされた所は、城下町が所属する「郡」が、県名とされた所が多い。例えば、高松高松藩)は香川郡から香川県姫路姫路藩)は飾磨郡から飾磨県名古屋尾張藩)は愛知郡から愛知県水戸水戸藩)は茨城郡から茨城県仙台仙台藩)は宮城郡から宮城県盛岡盛岡藩)は岩手郡から岩手県、となっている。

「朝敵藩」や「曖昧藩」などの城下町・門前町港町においても、「都市名」が戊辰戦争後に改名された後に、県名にされている所も見られる。例えば、戊辰戦争で徳川将軍家(第15代将軍の徳川慶喜)が移住した「朝敵藩」に分類される静岡(戊辰戦争前の駿府)は安倍郡に属するが、「安倍県」ではなく「静岡県」にされている。

また、当初は「郡名」を県名にしたが、再設置で「都市名」が県名にされた所もある。例えば、福井足羽郡に属するが、1881年(明治14年)の再設置では「足羽県」ではなく「福井県」にされている。この他にも、富山新川郡に属するが、再設置で「新川県」から「富山県」に改名され、徳島名東郡に属するが、再設置で「名東県」から「徳島県」に改名されている。

石川県のように、金沢から美川(現白山市)へ県庁が移った際に、「都市名」を取った「金沢県」の名称を改めて、「郡名」から「石川県」とした所もある(のちに金沢へ再移転したが県名は石川県のまま)。

九州の県は全て、「都市名」が県名にされている(ただし、佐賀、大分、宮崎、鹿児島は郡名も同じ)。また、山陰山陽四国の9県のうち、「朝敵藩」とされた3藩のうち高松藩松江藩の属した2県は、それぞれ「郡名」を取って香川県・島根県とされた(ただし、松山藩の属した県は古事記由来の愛比売から愛媛県となっている)が、それ以外の6県は、「都市名」が県名にされている。

一方で、東北地方関東地方には、「郡名」が県名にされた所が多く、意図的に県庁所在地や県名が変えられた所も多い。

それには、宮武外骨が主張する「永久不滅の賞罰的県名」論によれば、明治政府と、その支援に回った「忠勤藩」が多いとされる西日本に手厚く臨み、逆に奥羽越列藩同盟東北地方と徳川幕府のお膝元であった関東地方には冷たく臨んだということになる。

特に、「朝敵藩」の双璧とされた会津藩の首府・若松庄内藩の首府・鶴岡や、北越戦争で明治政府と敵対した長岡藩の首府・長岡は、それぞれ廃藩置県当時には比較的大きい城下町であったにもかかわらず、いわゆる「賊軍」であるとされ、県庁を置くことも永久に許されなかった、とする。

奥羽越列藩同盟の急先鋒である磐城平藩中村藩の領域が合併されて設置された県は、県庁は旧・磐城平藩の首府であったに置かれたが、県名は郡名を取った「磐前県」とされた。なお、1869年3月1日(明治2年1月19日)に明治政府によって磐城国が設置された為に、廃藩置県の時、磐城平は略称の一つである「平」に改名された。

そして、1876年(明治9年)8月21日には、若松県(旧・会津藩)と福島県中通り)と磐前県(旧・磐城平藩と旧・中村藩)の3県が合併され、県庁も若松・平・中村から遠い福島に置かれ、県名も郡名を取った「信夫県」ではなく、都市名を取った「福島県」とされた。

長岡が位置する中越地方(旧・古志郡魚沼郡他)も、当初は柏崎に県庁が置かれて柏崎県となったが、1873年(明治6年)6月10日には旧・新潟県下越地方)や相川県佐渡島)と合併させられ、旧・長岡藩の領内で、1843年(天保14年)に天領にされた港町の新潟に県庁が置かれ、県名も郡名を取った「蒲原県」ではなく、都市名を取った「新潟県」とされた。宮武が言う所の「永久不滅の賞罰的県名」の典型例である。

ただし、宮武の主張はジャーナリストとしての情報蒐集と彼独特の分析によるものであり、都道府県の名称選定に関わる経緯を公式文書としてまとめたものではない。また県の廃置分合の過程に関わる個々の事情への考慮が薄く、単純に「史実」として受け入れることはできないという指摘もある。

例えば長岡藩の場合、長岡藩の消滅は廃藩置県の際ではなく、これに先立つ1871年1月3日(明治3年11月13日)であり、藩財政の破綻により長岡藩の側からの願い出たものであった。明治政府はこの願出を受け入れて、長岡藩を廃止して隣接する柏崎県に編入した。この柏崎県は、戊辰戦争に際して明治政府軍が占領した桑名藩飛地領の中心都市である柏崎に、既に1869年(明治2年)8月から設置されていたものである。廃藩置県の時点で「県」に替わるべき「長岡藩」は柏崎県の一部となって既に存在しておらず、長岡を忌避してわざわざ柏崎に県庁を移したわけでは必ずしもない。

一方、会津松平家斗南藩に移封された後の会津地方は政府直轄とされ、1869年7月21日(明治2年6月13日)に若松に県庁が置かれて「若松県」と称した。若松県は廃藩置県後も存続し、上述の通り1876年(明治9年)8月21日に福島県に合併された。「永久に許されない」とする前説にもかかわらず、7年間にわたって若松は県庁所在地であった。

岩手県の場合、財政困難から願いによって旧・盛岡(白石)藩1870年(明治3年)に廃藩置県に先立って盛岡県とされ、1871年(明治4年)7月の廃藩置県の際は「盛岡県」であった。翌1872年2月16日(明治5年1月8日)に太政官により「其県岩手県ト改称相成候事」と盛岡県に向けて改称の通知がなされ、「盛岡県」は消滅し岩手県となるが、改称の体裁として太政官の布告に先んじて「当盛岡県ノ名、元盛岡藩因襲ノ呼称ニテ(中略)兎角藩治ノ風習脱却仕兼候間、今般新県御改立ノ折柄、旧名ヲ改メ、岩手県ト相唱申度」と、盛岡県の側から申請した形式をとっている[4]。この際、旧来の小藩なども組み替え、従来の領域を改めて置県したため、旧藩の呼称を用いては何かと差し障りがあった可能性がある。

会津と盛岡の2藩は特に戊辰戦争で明治政府から国替えを命じられた例外的な藩であり、多額の制裁金も科されている。

同じく、仙台県→宮城県、金沢県石川県宇和島県神山県など改称例の多くは、実際は人心一新を望む県からの上申に政府が応えて実施されたものである。県令として赴任した者の多くが明治政府軍側の出身であり、「人心一新」を必要としたのが旧「朝敵藩」や旧「曖昧藩」であったことに蓋然性はあるが、宮武説のように政府が「懲罰」として体系的にそれらの県の改称を主導したと断言することは難しい。

脚注[編集]

  1. ^ 塩野宏、行政法Ⅲ第3版、137頁、有斐閣、2006年
  2. ^ 国会議事録第6回衆議院地方行政委員会10号(昭和24年11月25日)門司委員、あるいは国会議事録第38回参議院文教委員会9号(昭和36年03月09日)矢嶋三義など多数
  3. ^ 東京・京都・大阪の郡としては江戸城二条城大阪城の郡を記した。
  4. ^ [1]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]