外地

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外地(がいち)とは、戦前の日本において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。属地ともいった。日本の現行法において単に「外地」という場合は「本邦以外の地域」を意味し、日本の旧統治区域に限定されない(#外地の語の用法参照)。

概要[編集]

外地(Dependent territory:属領)は一般に国外の地を指し、日本では日本固有の領土[1]以外に、第二次世界大戦までの日本が領有していた地域を指す。

具体的には以下の地域である[2]

第二次大戦中に日本軍により占領された区域(occupied territories)は法的に領有されたものではないが、満州国や中国各地の日本人租界、中南米やハワイなど移民先を含め、日本領土以外で日本人社会が形成されている領域を含め外地と呼ぶこともあった[3]。行政用語としては用語「外地」は慣例的なものであり、立法上明確に定義されたものではなかった(#外地の語の用法)。

共通法の制定[編集]

日本は、台湾を領土とした後、地域により異なる形式・内容の法令が施行される事態になったため、これらの法令の適用関係を定めるための法規範が必要になった。そのため、1918年に、日本の統治権が及ぶ各地域間の法令の適用範囲の確定及び連絡統一を目的とする共通法(大正7年法律第39号)(1918年4月17日施行)が制定された(2005年現在も廃止の措置は採られていないが、事実上失効していると解されている)。

なお、共通法は、その性質上当然に(領土ではない関東州や南洋群島も含む)外地にも施行されるべき法律とされていた。

また、法的には共通法1条で内地(同条2項で樺太は内地に含むと規定)とされていない地域が外地に該当する。

内地に編入された地域[編集]

南樺太[編集]

樺太は、幕末から明治初頭にかけての不平等条約で一旦喪失したが、1905年調印のポーツマス条約により、北緯50度線以南が日本領に復帰した(もともと共通法内地とされ準内地的扱い。後に、唯一内地に編入された)。

南樺太についても、台湾や朝鮮と同様に日本の領土であったため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られた。しかし、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督や朝鮮総督とは異なり、立法権を一般的に委任する方策は採られなかった。これは、台湾や朝鮮とは異なり南樺太は内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。そのため、南樺太に施行すべき法律を勅令で定めるほか、施行される法律については勅令により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設ける方式を採った。そのような事情から南樺太を外地として扱わないことがあり、前述の共通法でも内地として扱われていた。

なお、1943年(昭和18年)4月1日、「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)の廃止にともない、名実ともに樺太が内地に編入された。

外地に適用される法令の区分[編集]

日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。

当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律(明治29年法律第63号(六三法))にちなみこの論点は六三問題と呼ばれ、宮澤俊義『憲法講義案』(昭和11年4月17日発行)によれば「台湾・朝鮮および樺太でも憲法は通用する。但し、ここでは法律(大正一〇法三・明治四四法三〇・明治四〇法二五)によつてゐる程度の「立法の委任」が行はれてゐる」(P.16)とする。これに対し美濃部達吉は、著書『憲法講話』において上記植民地の見解をふまえ「凡て殖民地には憲法は施行せられないと解するのが正当な解釈である」として政府の解釈を否定した。

外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。

台湾[編集]

台湾は、1895年調印の下関条約により、日本の領土となった。

台湾統治に当っては、当時の政府の見解としては、前述のとおり日本の領土であるため憲法の効力が及び、台湾における立法についても憲法5条により帝国議会の協賛を要するという見解を基本として統治方針を固めた。しかし、慣習調査の必要もあり、台湾の実情を踏まえた法律を整備することには時間を費やすことが予想された。

そのため、時期によって差異はあるものの、その性質上当然に施行されるべき法律は別として、台湾統治のために設置された台湾総督府の長たる台湾総督が発する命令律令)という形で立法権を委任する(委任が包括的であったため、憲法違反ではないかという議論が起きた。)ほか、内地に施行される法律につき勅令で台湾にも施行することができるようにする方針を採った(初期は前者が原則だったが、後に後者が原則になる。詳細については台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律を参照)。

朝鮮[編集]

朝鮮は、1910年調印の日韓併合条約により、日本の領土となった。

朝鮮における立法も、台湾と同様に日本の領土とされたため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られ、その性質上当然に施行されるべき法律は別として、朝鮮統治のために設置された朝鮮総督府の長たる朝鮮総督が発する命令(制令)という形で立法権を委任するほか、内地に施行される法律につき勅令で朝鮮にも施行することができるようにする方針を採った。もっとも、台湾の場合と異なり、最後まで前者が原則であった。

関東州[編集]

関東州は、1905年調印のポーツマス条約により、租借地としてロシアから引き継いだ地域である。

関東州は、日本が統治権を取得したものの、領土の一部を構成していたわけではなかった。このようなことを根拠に、政府は関東州には憲法の効力が及ばず、天皇は帝国議会の協賛を要せず立法権を行使できるという見解を採った。つまり、内地の法律を勅令により施行する措置は採らず(性質上外地にも施行される法律を除く)、勅令を関東州に対して発することにより立法権を行使することにした。もっとも、基本的には内地に施行されていた法律に依る旨の内容の勅令を出していた。また、関東長官には、一定の範囲で罰則の制定権を認めることにより、一定の範囲で立法権を委任する措置を採った(関東庁)。

南洋群島[編集]

南洋群島は、1919年調印のヴェルサイユ条約により、ドイツの植民地であった南洋諸島の一部につき1920年国際連盟による委任統治領として認められた地域である。

南洋群島(南洋庁)についても、関東州と同様に領土ではないという点から、内地の法律を施行する措置は採られず、天皇が発する勅令により立法権を行使することにし、南洋長官には、一定の範囲で罰則を設けることを認めることにより、一定の範囲で立法権を委任する措置を採った(南洋庁令)。1933年日本が国際連盟脱退を宣言すると(正式脱退は1935年)、南洋諸島は日本領に編入された。住民構成は、朝鮮・台湾・関東州と異なり、現地人である島民よりも内地人台湾人などの移住者の人口が多かった。

行政[編集]

司法制度[編集]

教育制度[編集]

外地の喪失[編集]

外地とされていた地域は、敗戦により全て喪失したため、現在は外地と称される地域は存在しない。外地を喪失した法的な時期については、日本国との平和条約第2条に外地の権原放棄に関する規定があるため、同条約の発効日(1952年4月28日)と考えるのが一般的である。もっとも、同条約には中華民国が参加していないことなどから、台湾については、日華平和条約の発効日(1952年8月5日)とする考え方もある。

外地の語の用法[編集]

戦前の用例[編集]

戦前の日本では、外地の語は慣用語であったため、用例により範囲が異なっていた。

  • 第二次世界大戦前の法令で所得税法人税内外地関渉法(昭和15年法律55号)など表題に内外地という表現を含む法令があったが、外地の語は単独で用いられず、その範囲は定義されなかった。ただし、これらの法令は朝鮮・台湾・関東州・南洋群島・樺太について規定しており、これらが外地に相当するものと推定される。
  • 内閣統計局『日本帝国統計年鑑』(~1941年)は朝鮮・台湾・樺太のみを外地とした。日本の領土ではなかった南洋群島・関東州・南満州鉄道付属地は外地に含めなかった。
  • 山崎丹照『外地統治機構の研究』(1943年)は朝鮮・台湾・関東州・南洋群島・樺太を外地とした。
  • 一般的な用法としては、朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島のほか、南満州鉄道付属地満洲国、および太平洋戦争中の占領地を含めて外地と呼ぶことがあった。

その他、領事が領事裁判権を持つ租界などは、内地に含まれた。

戦後の用例[編集]

戦後の日本では、外地の語が法令で用いられるようになった。

  • 外地官署所属職員の身分に関する勅令(昭和21年勅令第287号)など法令に外地の語があらわれた。法令中では外地の定義・範囲は明かではないが、外地官署とはすなわち台湾総督府、朝鮮総督府、関東局、樺太庁、南洋庁を指すものとして運用された。
  • 外務省条約局編『外地法制誌』(1955~1971年)は台湾・朝鮮・樺太・南洋諸島・関東州・南満州鉄道付属地を外地として扱っていた。外務省条約局によれば、「外地とはすなわち内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域(the territory governed by laws other than those of Japan proper)」とされた。

現行法上の外地[編集]

現行法において単に外地という場合は「本邦以外の地域」を意味し、日本の旧統治区域に限定されない(引揚者給付金等支給法第2条など)。このほか、外地に関する法律用語としては次のようなものがあるが、その範囲は一定しない。

  • 外地郵便貯金・外地郵便為替・外地郵便振替貯金…朝鮮、台湾、関東州、樺太、千島列島、南洋群島、小笠原諸島硫黄列島硫黄鳥島伊平屋島及び北緯27度以南の南西諸島大東諸島を含む)にあった郵便局で扱われたもの(軍事郵便貯金等特別処理法第2条)。
  • 外地弁護士…朝鮮弁護士令・台湾弁護士令・関東州弁護士令による弁護士(検察庁法第37条など)
  • 外地関係共済組合…朝鮮総督府の逓信官署共済組合・交通局共済組合、および台湾総督府の専売局共済組合・営林共済組合令・交通局逓信共済組合・交通局鉄道共済組合(旧令による共済組合等からの年金受給者のための特別措置法第2条)
  • 外地整理事務外務省の所管事務の一つ(外務省設置法第4条)外務省外地整理室参照

なお、北海道沖縄県奄美群島鹿児島県)、小笠原諸島東京都)の住民が、本土あるいは本州を「内地」と呼ぶことがあるが、内地に対する語としてこれらの地域を「外地」と呼ぶことは基本的にはない。

類似概念[編集]

植民地[編集]

日本政府が内地以外の統治区域を植民地と呼ぶことは珍しく、ほとんどの法令は個別の領域名(樺太・朝鮮・台湾等々)をもって記述されるのが通例であった。ただし行政文書においては「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。準行政文書としては昭和4年(1929年)の満鉄臨時経済調査委員会編纂『帝国植民地課税一覧』がある。

法令等において日本の外地を植民地と呼称した例としては、昭和7年9月3日予算外国庫ノ負担トナルベキ契約ヲ為スヲ要スル件に使用例があるが、その他にはほとんどみられない。現行法上は日本の旧外地を植民地と呼ぶことはない。なお外国の属領を植民地と呼ぶことはある(現行法でも)。

社会科学界では「外地」「植民地」分類による文章は大量に存在し、例えば憲法学者・行政法学者であった美濃部達吉は、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べている(『憲法撮要』大正十二年)。

しかし同時代的な「植民地」なる用語への評価としては「(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地という文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ放つた所の鐘の音であるのである」(「日本植民地要覧」全国新聞東京聯合社編 大正元年(1912年)10月)。

また以下の資料からは植民地という用語への感情的反発があったことがうかがえる。

1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。

小熊英二, 『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN4-7885-0648-3 1998年刊

我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。 但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。 我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。 併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。

矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊

海外領土等[編集]

国際連盟事務局からの海外領土等の名称及び順序に関する照会に対し、外務省は1930年8月、朝鮮(英称:Chosen)・台湾(英称:Taiwan)・樺太(英称:Karafuto)・関東州租借地(英称:The leased Territory of Kwantung)・日本国委任統治南洋群島(英称:The South Sea Islands under Japanese Mandate)と回答している。なお、この回答案作成の際、外務省の内部文書ではこれらの地域を一括して殖民地と呼んでいる。

属地[編集]

条約上、内地以外の統治区域を総称するときに属地という語が用いられた。例えば万国郵便条約(大正14年条約第11号)。

脚注[編集]

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  1. ^ 日本の憲法体系では、新旧憲法ともに領土規定が存在せず、比較法学の観点ではこれは異例である。明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案の段階においては、領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり、日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。この事情は明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた。*「憲法における領土」石村修(法制理論39pp158-185.2007-03.新潟大学法学会ISSN-0286-1577)[1][2]*「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[3]
  2. ^ goo辞書「外地」[4]
  3. ^ 「日本の国土からみて、外国の土地」Yahoo!辞書[5]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

旧外地法令の調べ方(国立国会図書館リサーチ・ナビ)[6]