日本の軍事史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、古代中央集権政府における徴兵制の崩壊後、長期間にわたる武士による武力の独占を経て、明治維新後の近代的徴兵制に基づく国民軍の成立と帝国主義による対外戦争に特徴づけられる。日本第二次世界大戦総力戦を経験して軍民ともに壊滅的な損害を蒙り敗戦した。敗戦後、アメリカ軍を主体とする連合国軍に占領された後に、日本国憲法によって自衛を除いた武力行使および砲艦外交を禁じられた自衛隊を創設し、現在に至る。

先史時代[編集]

縄文時代[編集]

考古学の研究によれば縄文時代に既に環濠集落の存在が確認されている。これは周囲に空堀や水堀を設けることで防御機能を高めた施設を伴った集落の形態である。また、殺傷痕のついた縄文の人骨も全国の遺跡で発見されている。しかしながら、縄文時代に戦争があったか否かに関しては、研究者の間で一致を見ていない[1]

弥生時代[編集]

弥生時代に入ると環濠集落は一般的となり、また高地性集落も出現することから、戦争も日常的にあったと考えられている。弥生時代の初期に朝鮮半島を経由して銅剣が伝来した。伝来時の銅剣は、細身で鋭いデザインであり、純粋に武器として使用された可能性が高い。その後すぐに鉄剣も伝来した。大陸や朝鮮と違って、銅剣・鉄剣到来の時期的な差が少ないため、銅剣が戦場で使用されていた時期は比較的短いとされる。弓に関しては魏志倭人伝に『木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。矢は竹製で鉄または骨製の鏃を使う』[2]と記されており、和弓の原型が既に出現していたことが伺える。他に矛および盾が武器として記されている。また同書は日本には馬はいないと述べている[3]。遺物としては、漆を塗った木製の甲冑と盾が出土している。

弥生時代後期(2世紀後半)には倭国大乱と呼ばれる戦乱があったことが、中国の複数の史書に記述が見られる[4]

古代[編集]

古墳時代[編集]

東京国立博物館所蔵の鉄製鋲留短甲と小札鋲留眉庇付冑

古墳時代になると、鉄製の刀剣を国内で製造することが可能となった。防御武具としては鉄製短甲が出現したが、6世紀には出土遺物としては見られなくなり、挂甲に代わられている。3-4世紀の遺跡からは木製のが出土しており、5世紀頃になると鉄製[5]が登場した。また、この頃までには乗馬の風習も伝わったと考えられている[6]

4世紀末から5世紀初には、『倭』は朝鮮半島に進出し、百済新羅高句麗の軍勢と戦っている(広開土王碑)。広開土王碑に記載される『倭』を、日本の史学者は大和政権と理解することが一般的であるが、九州地方の地方政権であるとする説もある。また、日本書紀によると527年~528年に九州で磐井の乱が発生している。これは朝鮮半島南部へ出兵する大和政権軍の進軍を、新羅から賄賂を受けた筑紫君磐井が妨害したことが原因とされている。この磐井の乱を鎮圧した物部麁鹿火の属する物部氏、および大伴氏が古代の有力軍事氏族であった。物部氏は6世紀の終わりには蘇我氏との争いに敗れて没落するが、大伴氏は、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂が初代征夷大将軍となって蝦夷との戦いに出征している。

飛鳥時代[編集]

山城(鬼ノ城備中国

奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年にと新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

律令制に基づく軍団の設立[編集]

古代軍団歩兵の復元。福島県文化財センター白河館

その後に律令制が導入されると軍事制度も整備され、中央官制の兵部省が設置される。また戸籍の整備により徴兵制が採用され(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)、徴兵された兵士は各地に設置された軍団[7]に配属されて軍事訓練を受けた。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている[8]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。

軍団兵士は、自弁で弓矢・太刀・小刀等を用意する必要があった[9]。その他の官給の武器としてがあり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[10]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[11]、多くは歩兵であったと考えられる。甲冑としては「綿襖冑」[12]や「革製甲」[13]が使用されていた。

遠征軍が組織される場合は、兵一万人以上(一軍)なら将軍一人、三軍ごとに大将軍一人を置くこととなっていた。実際には三軍からなる遠征軍が編成されることはなかったが[14]、大規模な軍や三位以上のものが軍を指揮する場合には、大将軍の呼称が用いられた。著名な例としては、8世紀終わりから9世紀始めにかけての陸奥国蝦夷に対する戦争征夷大将軍に任ぜられた、坂上田村麻呂がある。

なおこの頃中国から兵法が伝わっている。『続日本紀』によると、大宰府にあった吉備真備のもとへ、760年に『孫子の兵法』を学ぶために下級武官が派遣されたことが記されている。真備は764年に起きた藤原仲麻呂の乱では孫子の兵法を実戦に活用したとされている。

軍団の縮小・廃止と健児の制[編集]

軍団制度はもともと唐や新羅の侵攻に備えたものであり、その危険が減ると必要性は薄れてきた。このため、792年、桓武天皇により、陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国を除いて軍団は廃止され、代わって健児の制が布かれた。健児としては、土着の豪族である郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜することとしていた。この要件を満たすためには、経済力と武芸の訓練を行う時間が必要である。従って、百姓で健児となり得るのは富豪百姓(田堵)のみであり、一般農民らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。健児の定員は、国ごとに30~100人程度と、数千人に達する軍団よりはるかに少なく、「試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士」となることが求められた[15]。これら健児は弓射騎兵であり、職能的には次代の武士と連続性を持つといえる。少数精鋭化が実施されたとはいえ、健児を動かすには国衙を通じて中央の承認を得る必要があり、運用の柔軟性が向上したわけではなかった。

なお、防人に関しては東国からの徴兵は廃止されたものの、9世紀初めから10世紀終わりにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲ったため(新羅の入寇)制度自体は存続し、九州の兵士がそれにあてられた。

中世[編集]

国衙軍制[編集]

古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)、個別人身支配を原則とした律令制度は機能しなくなり、土地課税原則の王朝国家へと変質した。中央から派遣された国司は、土着の豪族である郡司や富豪百姓を通じた支配を行った。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出した。健児の軍事力だけではこれに対応することができず、国衙受領の地方行政に、軍事権に関しても裁量を認めた。これは国衙軍制と呼ばれている[16]。東国では寛平・延喜東国の乱が発生すると、朝廷は発兵などの裁量権を受領に与えると共に追捕官符を国衙へ発給した。国衙軍制における兵士も、また郡司・富豪層であった。

武士の誕生[編集]

沢瀉縅大鎧東京国立博物館所蔵)

寛平・延喜東国の乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」が最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を郎党と呼んで主従関係を結すび、また血縁関係者である「家の子」も合わせ、武士団が形成されていった。

武士は堀と土塁を巡らせた屋敷を拠点とし、騎射戦闘を実施した。この頃、丸木弓に代わり、木と竹を張り合わせた合成弓が出現した。また、騎射戦闘に適した大鎧が開発された。刀も、それまでの直刀から蝦夷の蕨手刀の影響を受けて、馬上での使用に適した湾曲した刀、即ち日本刀が誕生した。このような新装備のため、武士の戦闘力は格段に向上した。

10世紀中頃に平将門藤原純友が、朝廷に対して反乱を起こした(承平天慶の乱)が、この鎮圧に功績のあったものたちは、極めて低い官位にある中下級の官人であった。しかし朝廷はこの時、彼らの間の不満が乱の原因になったとの認識のもと、彼らを四位・五位といった受領級の中・下流貴族に昇進させた。この結果、10世紀後半の貴族社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。桓武平氏清和源氏秀郷流藤原氏などが代表例で、軍事貴族と呼ばれている。

水軍[編集]

海上でも陸上と同じように武力をもって世業とする集団が登場するようになった。彼らは水軍と呼ばれ、平時には海上関を設けて帆別銭などの通行料の徴収や金銭を代償に取った船舶航行の警護をおこなったが、海賊となり略奪行為を行うこともあった。戦時には陸上勢力に協力し、治承・寿永の乱(源平合戦)や、南北朝の動乱には、両勢力とも水軍を利用した。

僧兵[編集]

武士と並んで、中世の軍事力を支えたのが僧兵である。広大な寺領神領を有して経済的に豊かであった寺社は、自身を防衛する武力を保持する必要が出てきた。京都奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したものが僧兵の始まりである。平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷摂関家に対して強訴をくりかえした。以仁王の挙兵では平家とも争った。中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野別当にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。

騎馬戦闘を主とする武士の弓矢に対し、徒歩戦闘主体の僧兵の主力武器は薙刀であった。中国に留学した僧が、長柄武器である大刀を伝え、これが変化して薙刀になったと言う説もある。平安末期になって武士も徒歩戦闘を行うようになると、徒歩武者も薙刀を使用するようになった。

平氏政権の誕生[編集]

平治物語絵巻』(ボストン美術館蔵)。弓矢を持つ騎乗の武士薙刀を持つ徒歩の武士が描かれている

清和源氏のうち河内源氏前九年の役後三年の役を通じて関東地方の武士と主従関係を結び勢力を拡大していった。また桓武平氏のうち伊勢平氏(平家)は院や朝廷の重用を受けることとなり、河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。12世紀半ばに、都で保元の乱平治の乱が起こった。前者は皇位継承問題や摂関家の内紛が原因であり、後者は院近臣らの対立により発生した乱であるが、両乱に功績のあった平清盛参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権が誕生した。現在ではこれを最初の武家政権と見る説が有力である。治承三年の政変後白河法皇院政が停止され、平家一門は全国のおよそ半分にあたる32カ国を知行国とすることとなった。平氏の知行国の増加は全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった[17]

源平合戦と鎌倉幕府の成立[編集]

狩野元信画『源平合戦図屏風』赤間神宮所蔵

このような中、後白河法皇の皇子である以仁王が平家に対して挙兵した。東国でも伊豆に配流されていた源頼朝が挙兵し、1180年から1185年にかけて、源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱が発生した。この内乱は、東北地方を除き、ほぼ全国規模で行われた。頼朝は傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして大軍が長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した[18]。これに対して平家は、知行国からの動員を図るなどしたが、十分な兵力の確保は出来なかった。平家に勝利した頼朝は、さらに奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府を開く。

従来から武士の主従には御恩と奉公という関係があった。御恩とは、主人が従者の所領支配を保障すること、又は新たな土地給与を行うことである。奉公は従者の軍役・経済負担などである。鎌倉幕府の成立によりこの関係は公的なものとなった。鎌倉殿と直接主従関係を結んだ武士は御家人と呼ばれたが、関東地方で一国数十名、地方では一国あたり十名程度であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。鎌倉幕府は、当初は東国の地方政権を目指したが、承久の乱の後はその支配を全国に及ぼした。幕府が任命した守護が全国に派遣されたが、守護の職掌は軍事・警察的な職務に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配は禁じられていた。

文永の役における鳥飼潟の戦い。元軍に突撃する竹崎季長と応戦、敗走する元兵。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)

幕府の軍事制度はクビライによる元寇に対する防衛でも活用され、1274年の文永の役では博多に上陸した元軍の進撃を内陸部で阻止し、1281年の弘安の役では事前に御家人を動員して防塁を建設し、本土への上陸を許さなかった。しかし、戦いには勝利したものの、鎌倉幕府は報酬として御家人に与える領土を獲得したわけではなく、「御恩」が十分でないことに対する不満が生じ、鎌倉幕府の弱体化の一因となった。

なお、この当時の甲冑や刀剣は明珍や正宗などの名工や鍛冶集団によって高度化されている。

建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府[編集]

黒韋肩妻取威胴丸東京国立博物館所蔵)

鎌倉時代後期になると、北条得宗家による権力の独占、元寇以来の政局不安など、、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。また、諸国では悪党の活動が活発となった。このような中、後醍醐天皇は悪党の楠木正成や幕府側の御家人である新田義貞足利尊氏らの協力を得て、1333年に倒幕に成功する。倒幕後、後醍醐天皇は天皇親政による政治を復活しようとした(建武の新政)が、武士らの離反を招いた。足利尊氏は離反し、室町幕府を成立させ将軍の下で新たな政治秩序を構築した。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開き、その後50年以上にわたって南北朝の騒乱が続いた。

鎌倉末期から南北朝にかけての戦力は、正規の武士に加えて、「野伏(のぶし)」と呼ばれる農民から徴集される兵から構成されていた[19]。兵力の大規模化と共に、従来の騎馬戦闘に代わって集団戦・接近徒歩戦が盛んになり、上級武士の間では胴丸腹巻が多く用いられるようになり、騎馬戦闘に特化した大鎧は廃れていった。また、薙刀に代わって集団戦での使用に適したが使用されるようになった。

守護から守護大名へ[編集]

三代将軍足利義満の代に、南北朝は統一され、幕府は全国を掌握した。鎌倉幕府と同じく、室町幕府も各国に守護を派遣したが、次第に守護の権限は拡大されていった。やがて、守護職は世襲されるようになり、守護大名が誕生し、守護領国制と呼ばれる地方支配体制が確立した。中央においても幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。有力な守護大名は数カ国を領国とし、その軍事力は幕府を上回る場合すらあった。南北朝が統一された後も、しばしば戦乱は生じていた。1467年には有力守護大名である山名軍と細川軍が京都で武力衝突した応仁の乱が発生し、戦争は京都から地方にまで拡大した。

武装した農民である野伏は、室町時代に頻発した土一揆の中心兵力となったが、その一部は守護大名に雇用され、軽武装の歩兵である足軽となった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化した。

戦国時代[編集]

火縄銃(姫路城天守閣蔵)
当世具足の一種である南蛮胴具足。東京国立博物館所蔵

応仁の乱により、室町幕府の権威が失墜すると、中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず一定地域を統一する権力を有する戦国大名が出現した。戦国大名は有力国衆など被官家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立した(大名領国制)。戦乱は日常的となったが、戦国時代も後半になると武田信玄上杉謙信毛利元就北条氏康など、数カ国の領国を有する強力な戦国大名が出現し、数万の兵力を運用できるようになった。このような中、尾張織田信長兵農分離に基づいた軍勢を用いて勢力を拡大し、畿内を中心に平定し、室町幕府をも滅ぼした。

戦国後期になって集団戦が本格化・大規模化していくと、足軽が重要な役割をはたすようになった。初期の足軽は傭兵であったが、やがて戦国大名は自領の農民から足軽を徴募するようにり、正規戦力として整備されていった。戦国時代の戦闘は、と呼ばれる300-1000人程度の集団を基本単位として行われたが、備は騎馬武者、徒武者に加え、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織されたものであった。大大名は幾つもの備えを編成し、それを組み合わせて使用した。例えば、姉川の戦いにおいて、織田軍は13段の備を有していた[20]。なお、江戸時代には1万石以上を大名と呼んだが、これは独立した備を編成するには1万石以上の領地が必要なためである。

戦国時代には当世具足と呼ばれる、より機能性の高い甲冑が使用されるようになった。足軽も御貸具足と呼ばれる甲冑を使用した。また武士が戦場で使用する武器は、これまでの弓矢から、騎馬武者・徒武者共にに変わった。弓矢は足軽の武器となったが、後には遠戦武器として鉄砲が加わった。鉄砲は1543年種子島に漂着したポルトガル人が持っていたものであるが(鉄砲伝来)、製造技術が日本に伝わると、鉄砲は急速に普及していった。国友日野根来が鉄砲の主要生産地であった。鉄砲は弓に比べると長い訓練を必要としないため、鉄砲の普及は大部隊の編成を容易にした。黒色火薬も国産化されたが、その原材料である硝石は輸入が主であった。大砲(フランキ砲青銅鋳造砲)も輸入されたが、いくつかの城攻めに使われた程度で普及はしなかった。当時の大砲の砲弾は実体弾であり、運搬の困難を考えるとメリットが少なかったためと考えられる[21]。火薬を使用した武器としては、他に焙烙玉(焙烙火矢)という大型手榴弾があり、主に船戦や城攻めで使用された。また戦国末期[22]には棒火矢というロケット弾が発明され、島原の乱では反乱軍側が使用したとの説もある[23]

近世[編集]

豊臣政権[編集]

信長の死後、織田氏の家臣の一人である羽柴秀吉が織田家の内紛を収め、信長の事業を引き継いだ。秀吉は、九州及び関東以北を残す日本の中央部を統一した1585年に、関白となった。この関白の権限を持って、九州における戦闘の中止を命令したが(九州停戦令)、これに従わない島津氏を20万の大軍で討った(九州征伐)。また、後北条氏も惣無事令に従わないことを理由に攻め、これを下した(小田原征伐)。さらに、秀吉は中国大陸への進出を計画し、朝鮮半島に出兵するが、足かけ7年に及ぶこの戦役は秀吉の死去により終結した(文禄・慶長の役)。

秀吉は、全国を統一すると各地で太閤検地を実施し、それまでの複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新した。これにより、平安期以来の荘園制度は完全に崩壊することとなる。また、従来の貫高制に代わって石高制が採用され、軍役も石高に基づいて課された。例えば、朝鮮への出兵に際しては、九州の諸大名には一万石あたり600人の動員が命じられた。他方、農民に対しては刀狩りを行い、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を進めた。

従来兵役においてはある程度の地位以上の場合は兵量の持参が原則であったが、豊臣政権では検地による財政強化もあり、軍役の際に参加する大名に兵量を給付することが可能となった[24]。例えば九州征伐では兵30万人と馬2万頭の1年分の食料を調達しており[25]、小田原征伐では駿河江尻に兵糧米20万石を回航している[26]。しかし、この兵量を前線まで運ぶのは各大名の責任であり、その運搬能力が十分ではなく、九州の役では軍勢が日向に入ったあたりで食料が続かなくなっている[27]。同様の問題は文禄の役でも発生しており、釜山までの食料の補給・備蓄は豊臣政権の責任で行い、実際十分な補給・備蓄があったものの、漢城や他の前線までの輸送は各大名が責任を負っており[28]、前線までの補給は十分とは言えなかった。兵量等の輸送は小荷駄隊が担当したが、荻生徂徠は「戦国の時分に車なき」[29]としており、駄載または人夫による輸送が中心であったと思われる。

江戸幕府の成立と200年の平和[編集]

秀吉の死後、再び内紛が勃発し、1600年関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年江戸幕府を開き、1615年大坂の役での勝利で豊臣氏を滅ぼした。応仁の乱以降150年もの間断続的に続いた大規模な戦乱は、これで終了した(元和偃武)。その直後に一国一城令が出され、国内に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し[30]、各大名は幕藩体制の下で統制されることになった。三代将軍徳川家光までの治世は武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固める為の時期であり、幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名親藩譜代大名外様大名の区別なく容赦なく改易減封の処置を行った。家光の死後は文治政治へと転換し、1639年に島原の乱が発生した後は、200年以上戦乱が起きることはなかった。また家光の代にいわゆる『鎖国』が始まり、外国との関係も極めて限定されるものとなった。

家光はオランダから臼砲を輸入したり[31]、中国大陸でと戦うへの援軍を検討するなど軍事面にも関心を持っていたが、家光の死後は幕府の軍事面への関心は急速に薄れていった。幕府の軍事組織としては五番方(小姓組書院番新番大番小十人組)があったが、次第に形骸化していった。

幕末[編集]

幕府陸軍歩兵の調練風景(1867年、大坂城内)
1859年型四斤山砲
幕府海軍開陽丸。1990年に復元されたもの(江差町)
箱館湾海戦。上陸支援艦砲射撃を行う新政府軍の春日丸甲鉄艦

軍事面での近代化は幕末に始まった。18世紀の末から19世紀の始めにかけ、欧米の艦船が日本の周辺に出没するようになると、海防論が議論され、砲台の整備も行われるようになった。1854年にアメリカとの間に日米和親条約が結ばれ鎖国が終わると、翌1855年に幕府は長崎海軍伝習所を開き、近代海軍である幕府海軍が設立された。また1862年には幕府陸軍も設立された。訓練はヨーロッパの軍事書籍[32]を参考にして行われていたが、1867年にはフランス軍事顧問団が招聘され、本格的な訓練が開始された。ただし、幕府陸軍はあくまで従来の軍制と並立する組織であった。

1858年には日米修好通商条約を始めとする安政五カ国条約が結ばれ、日本は本格的に開国し、世界経済の中に巻き込まれていく。自由貿易の開始により、近代的な蒸気軍艦、大砲、小銃なども輸入された。当初は武器の輸入は幕府に限られていたが、やがて大名にも武器の購入が認められ[33]、特に西国の大名は藩兵力の近代化を進めていった。1865年にアメリカ南北戦争が終了し、大量の銃砲が余剰となったことも、武器輸入が急増した一因であった。

幕府は安政五カ国条約調印に際し、朝廷からの勅許を得ようとしたが失敗し、幕府と朝廷の関係は悪化した。また攘夷派にとっては、朝廷という支えができることとなった。幕府は朝廷との連携を模索して公武合体を実施したが、公武合体自体により朝廷から将来の攘夷を約束させられる始末で、攘夷派を抑えることはできなかった。このため、開国後の対外政策に一貫性を欠くこととなり、加えて幕府内の開国派は安政の大獄で失脚しており、幕府は諸外国からの信頼も失ってしまった。

攘夷派の中心は長州藩であったが、長州藩は禁門の変第一次長州征伐での恭順で一旦力を失った。しかし、当初は幕府側に立っていた薩摩藩は徐々に反幕府的な立場に変わって行き、ついには薩長同盟が成立する。幕府は第二次長州征伐を実施するが、薩摩を始めとする多くの大名が出兵を拒否し、幕府はこの戦争に敗北した。徳川家茂の死去により徳川慶喜が将軍になると、幕府は一旦勢力を回復することに成功したが、逆に薩長の倒幕の意志を強くすることとなった。慶喜は前土佐藩山内容堂の案を入れ、大政奉還を行い内戦の危機を回避しようとしたが、朝廷は王政復古の大号令によって幕府の廃止と新政府樹立を宣言した。薩長を中心とする新政府と幕府の武力衝突は避けられないものとなった。

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが発生した。幕府軍は幕府陸軍と旗本、親藩・譜代大名の混成軍であったが、戦闘になることは予想しておらず、兵力においては上回っていたものの、組織的に攻撃する新政府軍に敗れた。このなか、幕府陸軍は薩長と互角に戦ったが、慶喜は朝敵となることを恐れ早々と恭順し、小栗忠順ら主戦派を解任、さらに継戦を進めるフランス公使レオン・ロッシュの意見も退けた。このため幕府陸軍、幕府海軍とも新政府軍との本格的な戦闘を行うとはなかった。幕府は新政府に恭順し、江戸城無血開城が行われたが、東国諸藩は奥羽列藩同盟を組織し、新政府軍と引き続き戦った。しかし、列藩同盟諸藩は新政府軍と比べると装備に劣り、庄内藩を最後に降服した。また、榎本武揚を中心とする幕府の脱走部隊が箱館政権を樹立したが、これも翌年には鎮圧された(箱館戦争)。これらの一連の戦争は戊辰戦争と呼ばれている。

幕末は小銃の技術革新時期であったため、日本にも各種の小銃が輸入された。最初に大量に導入された洋式小銃はゲベール銃で、火縄銃と同じ前装式滑腔銃であるが、雷管式の発射機構を有していた。後には国産の火縄銃もゲベール銃に改造されている。続いてミニエー銃が導入されたが、これは銃身にライフリングを刻んだ銃であり、威力が大幅に増大した。ミニエー銃の一種であるエンフィールド銃(1853年式)が、南北戦争の終結により大量に払い下げられ、日本にも約5万挺が輸入され、戊辰戦争の主力小銃として使われた。ボルトアクション後装式歩兵銃である1866年式シャスポー銃も幕府陸軍の伝習隊に配備された[34]。またエンフィールド銃を後装式に改造したスナイドル銃(1866年式)も輸入・国内改造され、戊辰戦争後期には薩摩軍の主力小銃となった。プロイセンドライゼ銃も輸入されている。また、洋式銃は銃剣の装着が可能という特徴があった。大砲としてはオランダ製の12ドイム臼砲やフランス製四斤山砲が使用された。幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館では砲身切削用の工作機械を輸入し、四斤山砲を国産している。他方、当時欧米で普及していた野砲は牽引に通常6頭の馬を必要とし、当時の日本では調教された馬の確保が困難であったため、あまり使用されなかった。

洋式海軍の整備も急速に進んだ。幕府は64隻、諸藩合計で127隻の洋式艦船を取得していたとの最近の研究がある[35]。多くは中古の商船を購入して大砲を据え付けたものであったが、幕府海軍の富士山丸開陽丸は軍艦として米国及びオランダに発注されたものであった。特に開陽丸は排水量2,590トンと大型で、ペリーの黒船に匹敵する大きさであった。また小型ではあるが、純国産の蒸気軍艦である千代田形も建造されている。さらに、幕府は米国から装甲艦ストーンウォールも買い付けたが、日本到着は戊辰戦争勃発後であり、結局新政府に引き渡された。造船所としては佐賀藩三重津海軍所や幕府の長崎製鉄所が設立されたが、幕府はさらに大規模な造船所である横須賀造船所の建設にも着手していた。しかしながら、完成は明治になってからで、後に横須賀海軍工廠へと発展した。また、幕府海軍訓練のためにイギリスからトレーシー顧問団が招聘されたが、戊辰戦争により本格的な訓練は出来なかった。

近代[編集]

兵制の確立[編集]

明治新政府は幕府の開国派が提唱していた富国強兵策を引継ぎ、軍備の近代化を進めていく。1869年に兵部省を設置し、海軍は1873年にイギリスからダグラス教官団を、陸軍は1872年に第二次フランス軍事顧問団を招いて近代軍の制度的基盤を構築した。明治政府の直轄軍事力は、当初薩長土藩士中心にした御親兵(後に近衛師団に発展)のみであったが、廃藩置県後の1871年に4個の鎮台が整備され、各藩が保有していた軍備は廃止された。鎮台兵は当初は士族の志願兵により構成されていたが、1873年には徴兵令が公布されると共に6個鎮台へと拡張され、国民軍への移行が始まった。翌1874年には、新政府初の外征となった台湾出兵が行われたが、派遣兵力は鎮台兵1個大隊、九州で徴募した士族からなる1個大隊で、鎮台兵も士族中心の構成であった。なお、この出兵に対して清国は積極的な対応を取らなかったが、これは日本海軍が2隻の甲鉄艦(東艦龍驤)を保有していたためで、これをきっかけに清は海軍の増強を開始している。1877年の西南戦争でも鎮台兵に加えて士族の徴募兵が参加した。1885年には、陸軍大学校教官としてドイツからメッケル少佐が招聘され、その後の帝国陸軍の基礎が作られた。メッケルの指導もあり、国内治安重視の鎮台制は1888年に外征も可能な師団制へ移行された。1889年の徴兵令の改正によって、当初あった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、ほぼ国民皆兵制が実現できた。

日清戦争[編集]

村田銃の一斉射撃を行う帝国陸軍歩兵

朝鮮においても攘夷思想が盛んであったが、明治政府は江華島事件をきっかけに日朝修好条規を締結し朝鮮を開国させ、その近代化に影響を及ぼそうとした。しかし、1882年の壬午事変をきっかけに、日本の影響力は低下し、朝鮮の内政・外交は旧宗主国であるに握られた。清に対抗すべく、日本は「1883年から「軍拡八カ年計画」のよって国家予算の20%以上を軍事費に回し、軍備の拡張に務めた。1894年に甲午農民戦争が発生すると、日清両国はその鎮圧を名目に出兵したが、7月25日に豊島沖海戦が発生、7月29日には陸上でも両軍が激突し、8月1日に両国は宣戦布告した。日本は黄海海戦に勝利して制海権を把握、陸戦でも平壌鴨緑江旅順と優勢を維持し、陸海共同の威海衛の戦いに勝利し清国海軍を降伏させた。日本はさらに直隷決戦の準備を進めたが、1895年4月17日に締結された下関条約により戦争は終了した。結果、日本は賠償金2億テール台湾を割譲されたが、三国干渉により遼東半島は返還した。

日本はこの戦争に陸軍7個師団、240,616人を動員し、うち174,017人が国外に出征した。清の兵力はこれを遥かに上回わり、日本より優れた兵器も保有していたが、軍事システムは前近代的であった。八カ年計画は陸軍に重点がおかれていたため、陸軍は攻勢戦略に自信を持っていたが、海軍はそうではなかった。しかし、黄海海戦では単縦陣での巡洋艦の速射砲による攻撃で、単横陣での衝角攻撃を試みる清国艦隊に勝利した。戦費は2億3,340万円で、外債は発行せず国内で調達したが、賠償金2億テール(約3億6000万円)を得たことで賄うことができた。

歩兵用の小銃として、第一線部隊は国産の村田銃を使用したが、二線装備として幕末以来のスナイドル銃も使用されていた。大砲類は全て輸入に頼っていた。海軍の艦艇の多くも輸入されたものであったが、当時の最大艦であった三景艦の三番艦である橋立は、横須賀造船所で建造された。

日露戦争[編集]

バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊

日清戦争前とは異なり、1896年度-1905年度の軍事費の7割弱が海軍に回されたことにより、日露開戦に先駆けて戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊が実現した。また、陸軍も6個師団が増設され、常設師団数は13個となった(日露戦争末期にさらに4個師団が増設された)。

日清戦争には勝利したものの、三国干渉で日本が弱体と見た朝鮮は、今度はロシアに接近した。ロシアは1898年に遼東半島の旅順・大連を清から租借し、旅順には軍港を建設した。さらに、1900年に義和団の乱が発生すると、ロシアは満州を占領し、鎮圧後も撤兵を行わなかった。このロシアの南下策は日本に脅威を与えただけでなく、中国におけるイギリスの権益にも影響をおよぼすものであったため、これに対抗すべく1902年に日英同盟が締結された。

1904年2月8日、日本駆逐艦の旅順口攻撃により日露戦争が始まった。同日、日本第一軍仁川に上陸・北上し4月30日-5月1日の鴨緑江会戦でロシア軍を破り満州に入った。第二軍は5月末に遼東半島に上陸、大連を占領後北上し、得利寺の戦い大石橋の戦いでロシア軍を破った。旅順のロシア太平洋艦隊は積極的に出撃して来なかったため、旅順要塞を攻略するための第三軍が編成された。これに反応してロシア艦隊はウラジオストクに向けて脱出を試みるするが、黄海海戦で連合艦隊に敗れ旅順に戻った。日本の第一軍、第二軍および第四軍は、8月24日-9月4日の遼陽会戦に勝利したが、ロシアは早期に撤退したため決定的勝利は得られなかった。1905年1月1日、旅順要塞が陥落しロシア太平洋艦隊も壊滅。第三軍は奉天に向けて北上を開始した。3月1日、日本軍全軍24万人(第一~第四軍、鴨緑江軍)、ロシア軍36万人が奉天付近で激突、3月10日に日本軍は奉天に入城したが、ロシア軍の包囲殲滅には失敗した。その後両軍ともに攻勢に出る余力はなく四平街付近での対峙が続いた。海上では5月27日-5月29日に、ヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊が連合艦隊と激突し(日本海海戦)、バルチック艦隊は壊滅した。この後、ロシアも和平に向けて動き出し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、9月5日にポーツマス条約が締結され講和が成立した。

日露戦争での日本の動員兵力は約109万人であり、日清戦争の5倍に達した。また、外債によって戦費を調達したのも特徴である。約8200万ポンド(8.2億円)の戦費が外債によって賄われたが、これは1903年の一般会計歳入は2.6億円の3倍以上に相当する。当初は外債の引受先を探すのも困難であったが、鴨緑江会戦の勝利後は、高金利であったこともあり、応募が殺到した。

陸軍の主力小銃である三十年式歩兵銃、主力野砲である三十一年式速射砲は国産であったが、重砲や機関砲は輸入品であった。また、この頃から国内の軍事研究に基づいた日本軍独自の戦闘教義が開発されるようになる(1909年版の歩兵操典から翻訳ではない独自体系の運用が追加された)。海軍の戦艦および巡洋艦は全て輸入されたものであったが、日露戦争中に国産初の戦艦である薩摩が起工されている。なお、薩摩は起工時には世界最大の戦艦であったが、最初の弩級戦艦であるドレッドノートが先に就役してしまったため、就役時にはすでに時代遅れとなっていた。

日露戦争では国力では劣勢でありながらも戦力の運用や外交政策によって勝利を収めることができた。日清・日露両戦争の成果として日本は自らの国防圏を朝鮮半島と満州まで拡大することが可能となった。

第一次世界大戦[編集]

14インチ砲搭載の超弩級巡洋戦艦金剛

日露戦争後も軍備の拡張は続けられた。1912年までに海軍は12インチ砲搭載の前弩級戦艦8隻、弩級戦艦2隻を就役させ、日露戦争集結時点での4隻を加えて戦艦は14隻となり、さらに鹵獲戦艦6隻があった。1913年から1917年にかけては、14インチ砲搭載の超弩級戦艦4隻・超弩級巡洋戦艦4隻が加わった。陸軍も4個師団が追加され、合計21個師団となった。ロシアとの間に日露協約が締結され満州の利権の分割に合意、日露関係は良好となり大陸情勢は安定した。

第一次世界大戦が勃発すると英国は日英同盟を理由に参戦を要請し、これに応えて陸軍は青島要塞を攻略し、海軍は南洋諸島のドイツ植民地を占領した。戦争が長引くと、連合国はヨーロッパへの戦艦や陸軍の派遣を繰り返し要請してきたが、、陸軍派遣は実施されず海軍もインド洋と地中海に船団護衛のための駆逐艦を派遣したにとどまった。大戦末期にロシア革命が生じるとシベリア出兵を実施したが、得るものは少なく、新たに成立したソ連との関係を悪化させた。

第一次世界大戦後も海軍は16インチ砲搭載の戦艦8隻・巡洋戦艦8隻からなる八八艦隊の実現を目指したが、2隻が完成した時点でワシントン海軍軍縮条約(1922年)が締結され、ネーバル・ホリデーが始まった。日本は主力艦を英米の6割に制限され、1912年以前に就役していた戦艦は全て廃棄された。また、1930年のロンドン海軍軍縮会議により補助艦を英米の7割とされた。陸軍も大戦後の不況により3次に渡って軍縮が実施され、1925年の宇垣軍縮で4個師団が削減された。

第二次世界大戦[編集]

第一次世界大戦では総動員の実施が認識されるようになり、日本の国防体制の在り方を巡って皇道派統制派の間で議論が分かれた。統制派が軍部の中で主導権を獲得すると、装備の近代化や航空戦力の拡充を進めるだけでなく、動員体制の準備が進められるようになる。満州事変で日本が満州国を建国したことで中国やアメリカとの対立を深め、日中戦争が勃発すると日本は中国軍を相手に長期戦を強いられた。そこで1938年に国家総動員法を制定して物資の動員体制を整備する。太平洋戦争が勃発すると日本海軍は当時の海上作戦において未確立であった航空打撃作戦を実施してハワイ空襲を成功させる。また戦争の前半では各方面の作戦が成功したために中国大陸から東南アジア、西太平洋に及ぶ勢力圏を一時的に確立した。しかし中国大陸での国民党軍との戦闘および対ゲリラ作戦の消耗や太平洋での通商破壊などにより日本の戦争能力は次第に低下し、1944年7月にマリアナ諸島が陥落した後は、アメリカによる本土への戦略爆撃が開始されて敗戦が決定的となる。1945年には沖縄を喪失し、広島長崎原子爆弾が投下された。さらにソ連対日参戦を経て、敗戦を迎えた。

現代[編集]

敗戦後に日本は連合国軍により一端は武装解除されるが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると共産主義国家に対抗するためにGHQは当初の予定を繰り上げ、段階別に日本の再軍備を進めることになった。1950年に創設された警察予備隊は7万名から成る警察力として組織されたが、1952年には海上警備隊(後に警備隊)、保安隊、1954年には保安隊と警備隊が統合され自衛隊として再編・変容していった。GHQは更に西ドイツ同様に国軍へ再編させる腹積もりであったが、国民の旧陸軍への悪感情を配慮し、自衛隊で留めたという逸話も伝わっている。(ダグラス・マッカーサーは共産主義の台頭と冷戦が戦後に起こったことを苦々しく思っていたようである) また日本の国防体制では1951年に締結された日米安全保障条約に基づく在日米軍との連携が強化されるようになり、防衛費も拡大されるようになる。再軍備や日米同盟は、国内での反戦運動から合憲性を疑われた。自衛隊の正当性は、戦前からの戦争責任と合憲性の観点から市民団体等による非難の対象となり、反基地闘争や安保闘争をもたらすことになった。

しかし冷戦が終結するとそれまで自衛隊を違憲として批判してきた社会党が自衛隊の合憲性を認め、さらに日米安保も堅持する方針が打ち出された。日米同盟はポスト冷戦の国際環境で周辺事態の脅威が高まる中でその機能が見直され、1999年に日米新ガイドラインに基づいた新しい同盟関係が構築されるようになる。また有事法制の成立で防衛活動の法的整備が進むとともに、自衛隊の任務は国連中心主義に基づく国際協調を目的とした海外派遣にまで拡大しており、世界各地への平和維持活動イラク派遣などの政策が実施されるようになった。

脚注[編集]

  1. ^ 縄文時代にも戦争があったとする代表的な研究者は小林達雄である。
  2. ^ 木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃
  3. ^ 「其地無牛馬虎豹羊鵲」
  4. ^ 三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)に倭国大乱の記載がある
  5. ^ 物部氏が奉納した鉄盾が著名(一族の威力を示す儀礼用盾とも)
  6. ^ 北海道庁日高振興局ホームページ > 地域政策部 > 地域政策課 > 馬文化ひだか:馬を知る:馬と人間の歴史:馬の伝来から鎌倉時代まで[1]
  7. ^ 軍団が設立された時期は明らかではないが、飛鳥浄御原令によるとする説が有力で、遅くとも大宝律令には規定されている。
  8. ^ 一国平均の兵士数を2000人とすると、全国では12万の軍団兵士がいたことになる。奈良時代の人口は500万人程度と推定されるため、人口の2.4%となるが、現在の日本の人口に当てはめると300万近くの兵力に相当する。当然ではあるが、農民にとっては大きな負担であった
  9. ^ 養老令第十七軍防令 第七 備戎具条
  10. ^ 養老令第十七軍防令 第十 軍団条
  11. ^ 養老令第十七軍防令 第五 隊伍条
  12. ^ 『続日本紀考証巻八』淳仁の条
  13. ^ 続日本紀宝亀11年(780年)
  14. ^ 蝦夷征討のため、太平洋側の征東軍(征夷軍)と日本海側の征狄軍(鎮狄軍)の2つの軍が編成され、征夷将軍と鎮狄将軍が同時に任命されたことはあるが、統率のための大将軍は任命されていない。
  15. ^ 貞観8年(866年)11月の勅
  16. ^ 下向井龍彦、『国衙と武士』(「岩波講座 日本通史 第6巻 古代5」所載)、岩波書店、1995年、ISBN 4000105566
  17. ^ 上横手雅敬/元木泰雄/勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』中央公論新社、2002年。川合康『日本の中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年。
  18. ^ 三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」。
  19. ^ 呉座勇一『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか』新潮社(2014年)、ISBN 978-4106037399
  20. ^ 浅井三代記による。ただ同書は同時代ではなく元禄期に書かれたものである。
  21. ^ 久保田正志著『日本の軍事革命』、錦正社、2008年。当時の日本の馬は小型で、また調教が十分でなく多頭立ての馬匹索引ができなかった。このため大砲はソリに乗せて人間が運搬していた。
  22. ^ 和漢三才図会ではその発明は戦国時代ではなく寛永期とされている。
  23. ^ 『天草騒動』、『古今武家盛衰記-南島変乱記』等。坂口安吾の『島原の乱雑記』これを採用している。
  24. ^ 山室恭子著『黄金太閤―夢を演じた天下びと』中央公論社、1992年、P72。ISBN 978-4121011053
  25. ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十。
  26. ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十二。
  27. ^ 『川角太閤記』三下
  28. ^ 『文禄二年二月十八日付豊臣秀吉朱印状』
  29. ^ 荻生徂徠『鈐録 巻之六 行軍』該当箇所はPDFの35ページ
  30. ^ 二条城サイト-日本の城の歴史
  31. ^ 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)
  32. ^ 例えば、ハインリヒ・フォン・ブラント著、高野長英翻訳の『三兵答古知幾(さんぺいたくちき)』等。
  33. ^ 日米修好通商条約第3条では武器は幕府のみが購入できることになっているが、幕府の許可があれば各大名も武器購入ができた。逆に言えば許可がないと購入できない訳であり、長州藩は第一次長州征伐後に洋式武器が入手できなくなった。
  34. ^ 一部の研究者はシャスポー銃は実戦では使用されなかったと主張している。最近では木村益雄『明治陸軍の制式小銃と戦傷者の治療(2007年)』など
  35. ^ 朴 栄濬著『海軍の誕生と近代日本』SGRAレポート第19号

関連項目[編集]