源頼朝

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源頼朝
Minamoto no Yoritomo.jpg
絹本着色伝源頼朝像神護寺蔵)
近年は足利直義像との説もある
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 久安3年4月8日1147年5月9日
死没 建久10年1月13日1199年2月9日
享年53(満51歳没)
改名 鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝
別名 通称:三郎、佐殿、武衛鎌倉殿
源二位、右大将軍、右幕下
神号 白旗大明神
戒名 武皇嘯厚大禅門
墓所 法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
矢ノ森八景(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)
官位 正二位権大納言右近衛大将征夷大将軍
幕府 鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 - 1199年
氏族 清和源氏為義流(河内源氏
父母 父:源義朝、母:藤原季範の娘(由良御前
兄弟 義平朝長頼朝義門希義範頼
全成義円義経坊門姫、他女子
前妻:八重姫?、正室:北条政子
側室:亀の前大進局利根局
千鶴丸?、大姫頼家貞暁乙姫実朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。

河内源氏源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護地頭を配して力を強め、奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権王政復古の大号令江戸開城まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。

生涯[編集]

  • 文中の月日は全て旧暦
  • 改元の有った年は改元後の元号を記す
  • 内容の典拠については年表を参照。

出生[編集]

誓願寺(名古屋市熱田区)門前にある頼朝生誕の地の石碑

久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田[1][2][3][4](現在の名古屋市熱田区)に生まれる。幼名鬼武者、または鬼武丸[5]。母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前

父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地として源頼信源頼義源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む武士である[6]。 義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆吉田経房らとともに献盃役をつとめている[7]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。

平治の乱[編集]

保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀者となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。襲撃後の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるが[注釈 1]、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、27日、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏へと攻め寄せた。この戦いで義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちた。

近畿から東海地方の地図

義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中で一行とはぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。父・義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄・義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄・朝長は逃亡中の負傷が元で命を落とした[注釈 2]永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝[8]の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑となった[注釈 3]。 頼朝は3月11日に伊豆国蛭ヶ小島(ひるがこじま)[注釈 4]へと流された。なお同日、平治の乱に関った大炊御門経宗葉室惟方や頼朝の同母弟・源希義も流刑に処されている[8]

伊豆の流人[編集]

蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)

伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない[注釈 5]

流人とはいえ、乳母比企尼や母の弟である祐範の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている[9]。なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。

なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平天野遠景大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎[注釈 6]に嫁がせる一方で頼朝を討たんと企てた。祐親の次男・伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳頃の事件であった。31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった[注釈 7]

挙兵[編集]

伊豆地方の地図

治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた[注釈 8][注釈 9]

最初の標的は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った[9][注釈 10]

伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、三浦義澄和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平氏方の大庭景親渋谷重国熊谷直実山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた[注釈 11]。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へ脱出した[9]

関東平定[編集]

鶴岡八幡宮本殿

治承4年(1180年)8月29日、安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常千葉常胤に加勢を要請すべく使者を派遣、東京湾沿いを南下し洲崎明神に参詣する[注釈 12]。 そして使者が帰参し、9月13日に安房国を出て上総国に赴く。その後、同月17日に下総国に向かい下総国府で千葉一族と合流、19日には広常が大軍を率いて参上し、上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は、10月2日太井隅田の両河を渡る[注釈 13]武蔵国に入ると葛西清重足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠河越重頼江戸重長らも従える。10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行うなど整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる[9]

伊豆・関東地方の地図

10月16日、平維盛率いる追討軍が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た[注釈 14]。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸国佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている[9]

帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至った。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事警察を担う事となる[9]

頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居

治承4年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏が挙兵して全国各地は動乱状態となった[10]。平氏も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。養和元年(1181年)に入ると、肥後国菊池隆直、尾張国に拠る源行家、美濃国美濃源氏一党なども平氏打倒の兵を挙げ、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った[注釈 15]。全国的な反乱が続く中、平氏は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った[11]

7月頃、頼朝は後白河法皇に朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した[10]。宗盛は奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じて頼朝の牽制を期待し[10]、攻撃の矛先を横田河原の戦い以降活発化した北陸の反乱勢力に向けた[10]。頼朝がこの時期に平氏と直接対峙することはなかったが、遠江国では甲斐源氏の安田義定が独立的立場をとっており、奥州藤原氏の動向も定かでなく、坂東で身動きのとれない状態が続いた。翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉により両軍は軍事行動を行なうことができず膠着状態となった。その年、頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願すると江ノ島弁才天を勧請する[9]。また同年8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している[注釈 16]

寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が、足利忠綱らとともに21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝は小山朝政らに迎撃を託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、頼朝の異母弟である源範頼らが残敵を掃討した[9]。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった[12]

義仲との戦い[編集]

源頼朝像(中村不折画)

寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が、頼朝に追われた叔父の義広・行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。両者の話し合いで義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送る事で和議が成立した[注釈 17]

義仲は平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門を都から追い落とした。大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った[10]朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月7日、頼朝は藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れがあること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に、使者を返して要請を断った。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復し、14日には東海道東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨[10]。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。同年12月、東国自立を主張する上総広常が頼朝の命令で梶原景時に誅殺されている。

閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平氏と義経に挟まれた義仲は、法住寺合戦で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征東大将軍に任ぜられた。20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は粟津の戦いで討たれた。

頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って堀親家に命じて追手を差し向け、24日に武蔵国入間川原で義高を討った。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。ほぼ同時期に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉に於いて、頼朝の命令で天野遠景に殺害されている。

平氏追討[編集]

義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発つ。元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った[10][9]。この戦いの後、頼朝は義経を自らの代官として都に残し、義経の差配のもと畿内の武士たちの掌握を図る一方、四国に逃れた平氏を追討すべく九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下して、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣した。

6月5日の除目で、平頼盛が還任[注釈 18]一条能保(妹婿)、範頼、源広綱平賀義信が国司となった[9][注釈 19]。 8月8日に範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣した。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた[9]

10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる[9]。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする[9]。この時期になると二階堂行政平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。

文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事のため、軍を動かさず九州の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を出し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求めた[9]。この状況をみた義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると[注釈 20]、10日に讃岐国屋島に向けて出陣し、19日の屋島の戦いで平氏を海上へと追いやった。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、4月27日に頼朝は平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。

義経追放[編集]

文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く[注釈 21]。 4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士ら[注釈 22]の任官を罵り東国への帰還を禁じる[注釈 23]が、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃、義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した[9][注釈 24]

義経が近江国で宗盛父子を斬首。重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝は叔父・行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請に、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃は失敗に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。10月24日、頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父・義朝の菩提寺・勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発つと、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。義経は頼朝追討の兵が集まらず、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。海路西国を目指すも途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の静御前が吉野山で捕らえられている。なお義経を九州に迎えようと岡城を築いていた豊後国の緒方惟栄は上野国沼田に配流され、豊後国は一時関東御分国となった。

天下の草創[編集]

11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した[注釈 25]。 12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して「守護地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける[注釈 26]

24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った[注釈 27]。 28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。

文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤る。5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。

頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受ける様になり、また平重衡によって焼かれた東大寺の再建工事なども手がけた。

奥州合戦[編集]

平氏討滅後の頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年(1186年)4月には藤原秀衡に「秀衡は奥六郡の主、自分は東海道の惣官である。水魚の交わりをなすべきである。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」という書状を送りつけて威嚇している。

文治3年(1187年)10月に藤原秀衡が没し、文治4年(1188年)2月に義経の奥州潜伏が発覚すると、頼朝は藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す。文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。

6月13日に義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が実検した。25日、頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討宣旨を朝廷に求めるが勅許は下されず、大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日、勅許を待たずおよそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かった(奥州合戦)。頼朝軍はさしたる抵抗も受けずに白河関から奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。

陸奥(東北地方太平洋側)の地図

8月8日から10日にかけて行なわれた阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡率いる奥州軍を破った頼朝は、泰衡を追って北上する。22日には平泉を攻略するが、泰衡は館に火を放って逃亡していた。26日、頼朝の宿所に赦免を求める泰衡の書状が投げ込まれたが、頼朝はこれを無視して、9月2日には岩井郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。厨河柵はかつて前九年の役源頼義安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河柵での泰衡討伐を望んだのである。9月3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は6日に陣岡にいた頼朝へ届けられた。頼朝は河田次郎を八虐の罪に値するとして斬罪に処し、前九年の役で祖先の源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒した。9日、京都の一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が頼朝の下へ届いた。

12日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、19日まで逗留して降人の赦免や奥州藤原氏の建立した中尊寺毛越寺、宇治平等院を模した無量光院の寺領安堵などの処理を行った。平泉に戻って諸寺を巡り感銘を受けた頼朝は、鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した永福寺を建立している。22日、頼朝は奥州支配体制を固めるため葛西清重奥州総奉行に任命すると、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。

この奥州合戦には関東のみならず、全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜となった者に対しても、この合戦に従って戦功を上げるという挽回の機会も与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たした。

この奥州合戦の終了で治承4年(1180年)から続いていた内乱も終結を迎えることになる。

征夷大将軍[編集]

文治5年(1189年)11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功の有った御家人の推挙を促されるが、頼朝は辞退した。奥州では、大河兼任の乱が勃発するが、足利義兼千葉胤正らに出陣を命じ、文治6年(1190年)3月に大河兼任は討取られた。伊沢家景を陸奥国留守職に任命し、在庁官人を指揮させ、奥州への支配を強化した。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発つ。平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。

9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍には任官できず[注釈 28]、代わりに権大納言右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞した。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると判断したとみられている[13]。9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して「今は法皇が天下の政を執り天子は春宮のような状態ですが、天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今は幼年ですし、あなたも余算はなお遙かです。私も運があれば、政は必ず淳素に帰るに違いありません。また父の義朝は反逆により身を滅ぼしましたが、本心は忠誠を旨としており、父の忠を空しくしないため私は朝廷の大将軍になったのです」と述べている。頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年3月22日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた。12月14日、頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻った。

建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任ぜられた[注釈 29]。 一般的には将軍就任によって鎌倉幕府が成立したとされる。

晩年[編集]

建久4年(1193年)5月、御家人を集め駿河国で巻狩を行う(富士の巻狩り)。16日、この巻狩において12歳の頼家が初めて鹿を射止めた。この後狩りは中止され、晩になって山神・矢口の祭りが執り行われた。また、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。[誰?]28日の夜に御家人の工藤祐経曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く政子に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流された。建久5年(1194年)には甲斐源氏の安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年(1197年)には、薩摩国大隅国などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。

建久6年(1195年)2月、頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛した。長女・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、娘・任子を入内させている九条兼実ではなく土御門通親丹後局と接触し、大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行って朝廷工作を図った。建久7年(1196年)11月、兼実は一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる(建久七年の政変)。しかし建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により頓挫した。建久9年(1198年)正月、頼朝の反対を無視して後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。頼朝は朝廷における代弁者であった一条能保・高能父子が相次いで病死したこともあり、遅ればせながら危機感を抱いて兼実に書状を送り再度の提携を申し入れ、次女・三幡姫の入内と朝幕関係の再構築を目指した。三幡は女御の宣旨を受けるが、建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かではない。

建久10年(1199年)1月11日に出家。13日に死去した。享年53(満51歳没)。

年表[編集]

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
  • 西暦は元日を宣明暦に変更している
和暦 西暦 月日
宣明暦長暦)
内容 出典
久安3年 1147年 4月8日 生誕(数え年1歳)
保元3年 1158年 2月3日 皇后宮少進(12歳) 公卿補任
平治元年 1159年 1月29日 右近衛将監兼任 公卿補任
2月13日 上西門院蔵人補任。皇后宮少進を止む。 公卿補任
3月1日 母の死により服解 公卿補任
6月28日 蔵人(二条天皇)補任。 公卿補任
12月9~26日 平治の乱 百錬抄
平治物語
12月14日 従五位下右兵衛権佐に叙位転任。 公卿補任
12月28日 解官 公卿補任
永暦元年 1160年 3月11日 伊豆国へ配流(14歳) 清獬眼抄
不詳 不詳 不詳 伊東祐親三女・八重姫との間に千鶴丸を成すが祐親に殺される 曽我物語
安元3年? 1177年 不詳 北条時政長女・政子と結婚 吾妻鏡
尊卑分脈
治承4年 1180年 4月27日 以仁王令旨を受ける(34歳) 吾妻鏡
8月17日 配所の伊豆で挙兵、平兼隆を討つ 吾妻鏡
8月23日 石橋山の戦い 吾妻鏡
8月29日 安房国へと逃れる 吾妻鏡
9月5日 叛逆として追討の宣旨を受ける 玉葉
9月29日 2万7,000余騎が従い集まる 吾妻鏡
10月7日 鎌倉入府 吾妻鏡
10月20日 富士川の戦い 吾妻鏡
10月21日 末弟・源義経が参じる 吾妻鏡
11月5日 常陸国佐竹秀義を破る 吾妻鏡
11月7日 重ねて追討の宣旨を受ける 吾妻鏡
11月17日 和田義盛侍所別当に補す 吾妻鏡
養和元年 1181年 閏2月4日 平清盛薨去(35歳) 玉葉
寿永元年 1182年 8月12日 嫡男・頼家誕生(36歳) 吾妻鏡
寿永2年 1183年 2月23日 野木宮合戦で叔父・源義広を討伐(37歳) 吾妻鏡
源義仲信濃国で対峙し、義仲の長男・源義高を人質とする 平家物語
7月28日 義仲と源行家が入京 玉葉
9月 義仲追討令を受ける 玉葉
10月9日 従五位下に復位 公卿補任
10月14日 寿永二年十月宣旨 百錬抄、玉葉
元暦元年 1184年 1月20日 宇治川の戦い、義仲を討つ(38歳) 吾妻鏡
2月7日 一ノ谷の戦い 吾妻鏡
3月27日 正四位下に昇叙 吾妻鏡
4月 鎌倉から逃れた源義高を誅殺 吾妻鏡
10月6日 大江広元を別当とし公文所を開く 吾妻鏡
10月20日 三善康信を執事とし問注所を開く 吾妻鏡
文治元年 1185年 2月19日 屋島の戦い(39歳) 吾妻鏡
3月24日 壇ノ浦の戦いにて平氏滅亡 吾妻鏡
4月15日 内挙を得ずに官位を得た関東の御家人を追放する 吾妻鏡
4月27日 従二位へ昇叙 吾妻鏡
5月15日 義経が平宗盛清宗父子を伴い鎌倉近くに帰参するが、義経は鎌倉外に留める 吾妻鏡
5月16日 宗盛、清宗と面会 吾妻鏡
6月9日 義経を鎌倉に入れぬまま、宗盛と清宗を伴わせ京に戻す 吾妻鏡
10月17日 六十余騎で京の義経邸を襲う 吾妻鏡
10月18日 義経と行家に頼朝追討令が下る 玉葉
10月25日 義経を討つべく軍を発する 吾妻鏡
11月3日 義経と行家を京より追う 玉葉
11月11日 義経と行家を捕えよとの院宣が下る 玉葉
11月28日 文治の勅許 吾妻鏡、玉葉
12月 諸国への地頭の設置が認められる 吾妻鏡
文治5年 1189年 1月5日 正二位に昇叙(43歳) 公卿補任
閏4月30日 衣川で義経が藤原泰衡に討たれる 吾妻鏡
7月~9月 奥州合戦奥州藤原氏滅亡 吾妻鏡
建久元年 1190年 11月7日 上洛 吾妻鏡
11月9日 権大納言 吾妻鏡
11月24日 右近衛大将 吾妻鏡
12月3日 両官辞任 吾妻鏡
12月29日 鎌倉へ帰還 吾妻鏡
建久3年 1192年 3月13日 後白河法皇崩御(46歳) 玉葉
7月12日 征夷大将軍 公卿補任
8月9日 次男・源実朝誕生 吾妻鏡
建久4年 1193年 5月28日 富士の巻狩りの際に曾我兄弟の仇討ちが起こる(47歳) 吾妻鏡
8月17日 弟・範頼を伊豆へ配流 吾妻鏡
建久6年 1195年 3月12日 東大寺供養(49歳) 吾妻鏡
建久9年 1198年 12月27日 相模川橋供養(52歳) 承久記
建久10年 1199年 1月11日 出家 公卿補任
1月13日 薨去(享年53 /満51歳没) 承久記

人物[編集]

容姿[編集]

平治物語』は「年齢より大人びている」、『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記『玉葉』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。

肖像は知名度の割には少なく、大半が近世になってからのものである[注釈 30]。『吾妻鏡』には、宝治合戦の際に三浦泰村が北山の法華堂に立て篭もり、「絵像御影御前」で往時を談じたという記述があるが、この画像やこれを祖形とする作品は現存しない。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表すると、像主について議論が続いている(→詳細は神護寺三像を参照のこと)。鶴岡八幡宮の白山明神に伝わっていた狩衣姿の木像は、江戸時代には頼朝像とされ、明治初期に流出し原三溪の手を経て、現在は東京国立博物館が蔵し重要文化財に指定されている(e国宝に画像と解説あり)。甲斐善光寺蔵の木造源頼朝座像は、戦国期武田信玄によって信濃善光寺から移されたものであるが、胎内銘から文保3年(1319年)に彫られた最古の頼朝像であると考えられている。

歴史学者の黒田日出男は、源頼朝を表したとされる肖像を整理・検討後、次のように結論づけている。東博蔵・伝源頼朝像は、建長寺にある北条時頼像(建長寺公式サイトの画像と解説)と比較。やや技巧が硬い部分があるが、面貌表現や大きさに到るまで瓜二つであり、また後に狩衣には本来ない平緒石帯を取り付け、将軍の正装である束帯姿に改造された形跡があることから、本来は建長寺の像を元に北条時頼像として14世紀の鎌倉末期に作られたが、後に失われた源頼朝像の代わりとして束帯姿に改造された上で、白山明神に置かれたとしている。一方、甲斐善光寺の源頼朝像を、胎内の銘文を造像銘ではなく修理銘として読み解き、13世紀第1四半期に北条政子の発願で作られた史料上明らかな唯一の源頼朝像であり、二度の火災で頭部だけが当時の姿で残り、体は鎌倉末期の修理の際に補作されたという論考を発表している[14]

逸話[編集]

  • 頼朝配下の東国武士団は独立心が強く、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らず、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体であったものを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げた。
    • 文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。
    • ある合戦の報告を聞いて「◎は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい。◎が遁走、△が討ち死にの間違いだろう」と指摘し、調べてみるとその通りであったというエピソードが『吾妻鏡』に多くある。
    • 側近の一人で公事奉行人の藤原俊兼が贅沢な衣服をまとっているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平などは善悪も判断できぬ程度の武士だが、衣服などは粗悪な品を用いて贅沢を好まない。だからその家は裕福で多くの家人・郎党を養い勲功をあげようとしている。それなのにお前は財産の使い方も知らず、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えた。このように側近官僚と東国御家人の双方ともによく知りぬき、適材適所を使いこなしていたのである。
  • 自分の妻子には甘く、富士の巻狩りで12歳の息子頼家が鹿を仕止めた時は喜んで妻の北条政子に報告の使いを送り、政子に武士の子なら当たり前の事であるとたしなめられている。
  • 生涯において前線で戦うことは少なかったが、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。
  • 慈円と親交があって和歌を詠み、贈答歌の「陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ 壺の石ぶみ」は新古今和歌集に入撰している。

評価[編集]

頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡って続くこととなる。頼朝在世中はまだ朝廷との二重政府的な要素も強いが、守護地頭制度によって東国のみならず全国支配の布石を打っている。また、武家政権を代表する地位が征夷大将軍であるという慣習、また源氏がその地位に就かねばならないという観念、将軍のみが隔絶して高貴な身分として幕臣に君臨する(後年に到るまで、将軍の従一位~正二位に対して次位の執権、管領、大老は殆ど従四位~従五位)という習慣も頼朝に端を発している。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人義務教育で頼朝の名を学んでいる。

その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない。ただし、各現場を代理指揮官と軍監に委ねる軍制は世界史的な先駆である点は、後述の永井路子が指摘している)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。作家の永井路子は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績をすべて彼個人の能力に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治力、人材掌握力は高く評価し、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした徳川家康よりいっそう巧緻であると評している(「源頼朝の世界」)。

以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。

北条政子御家人
頼朝の死後に起きた承久の乱朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし」と述べた。これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。
保暦間記
頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。
豊臣秀吉
武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり」と述べ、頼朝の業績を自分の業績と共に称えながらも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると冗談を交えながら評している。
徳川家康
頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれる。
新井白石
読史余論の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであると、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽閉した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いと、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。

この他に「成敗分明(『玉葉九条兼実)」、「ぬけたる器量の人(『愚管抄慈円)」、「頼朝勲功まことにためしなかりければ(『神皇正統記北畠親房)」、等がある。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤王家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によっても評価が揺らぐのも特徴と言える。

研究[編集]

頼朝の花押

清盛の遺言[編集]

「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は『平家物語』に記された文言であり、物語ゆえその真偽を疑う声もある。ただし『玉葉』治承5年(1181年)8月1日条では宗盛が「我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし」という清盛の遺言を盾に法皇の和平案を拒絶しており、頼朝への激しい憎悪は事実と思われる。

義経との対立[編集]

末弟・源義経を逐うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。

吾妻鏡』では、まず養和元年(1181年)7月に頼朝が義経に対して鶴岡八幡宮の大工への褒美である馬を授ける引馬役を命じたところ、義経が不満を示したために頼朝が激怒したという(養和元年7月20日条)。続いて元暦元年(1184年)8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平氏追討軍から除いたことになっている(元暦元年8月17日条)。しかし、頼朝は8月3日に義経に伊勢平信兼追討を命じ(8月3日条)、26日に義経は追討使の官符を賜っている(文治5年閏4月30日条)など、この記述は『吾妻鏡』の他の記事と齟齬がある。任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられ、頼朝が義経に対して何の処罰も下していないことから、この時点での頼朝と義経の対立を疑問視する見解もある。一方で、無断任官を知った8月17日以前に頼朝が何らかの命を義経に下しているのは当然であり、追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平氏追討の官符を下しても、不思議は無いとも考えられる。

義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平氏追討で連戦連勝を遂げたので、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が藤原泰衡に討たれた直後に、奥州合戦を始めた事は、この説を裏付けるものとして用いられる。

平氏滅亡後の鎌倉政権は、きわめて重大な時期に来ていた。内乱が収まると平氏追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来なくなる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保出来、補強しなければならない困難な状況に直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分に反抗する者は許しておくことは出来ない。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったのである[15]

都落ちした義経を匿った事で鎌倉へ召還された興福寺の僧・聖弘は、義経を庇護した事を詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じた事から、義経を憎みきっていた訳ではない事が伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった。その相違が、平氏滅亡後に露呈する事になったのである[16]

もっとも、義経に限らず、範頼をはじめとする源氏一族(「門葉」)に対して、頼朝は清和源氏の棟梁としての優位性を示す一方で、彼らを将軍家の藩屏として優遇する方針[注釈 31]を取り続けており、結果的にその方針が失敗したとしてもそれをもって義経ら一族を冷遇した、重用しなかったとするのは一方的な見方であるとする批判もある[17]

義経が鎌倉入りを止められ血涙をもって綴った腰越状が届けられた時、自害ののちにその首が届けられた時、頼朝がどのような反応を示したかは、『吾妻鏡』は何も伝えていない。

死因[編集]

各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない。

落馬説
建久9年(1198年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から13年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。
なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる[18]。落馬から死去まで17日ある事から、脳卒中後の誤嚥性沈下性肺炎の可能性がある。
尿崩症説
落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高い[18]
糖尿病説
猪隈関白記の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとするが、そのような症状があったという記録はなく、可能性は低い[18]
溺死説
史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れた事が死に繋がったのではと見る。また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至った事に由来するとも伝わる。溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎた事を意味すると見る。
亡霊説
保暦間記に記されている。当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。意識障害があったと捉えることもできる。
暗殺説
頼朝は子の源頼家実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく吾妻鏡への記載を避けたとする。或いは北条氏に水銀を飲まされて死んだとも言う[注釈 32]
誤認殺傷説
愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする[要出典]

系譜[編集]

頼朝は清和源氏の庶流だが、武家源氏の主流だった源頼信を祖とする河内源氏の七代目に当たる。

  • 子女
    • 長男:千鶴丸 - 伊東祐親に殺される。享年3。一部では生存していて甲斐源氏逸見氏に預けられ、島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったという伝承があるが傍証は無く、現在では否定されている。
    • 長女:大姫 - 源義高婚約者。享年20
    • 次男:源頼家 - 二代将軍。伊豆修善寺に流され殺される。享年23
    • 三男:貞暁 - 妾・大進局の子、仁和寺で仏門に入る。享年46
    • 次女:三幡(乙姫) - 頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14
    • 四男:源実朝 - 三代将軍。頼家の次男・公暁に殺される。享年28

家人[編集]

頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である源頼信源頼義源義家から恩を受けており、頼朝の父・源義朝に従っていた者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げた。また挙兵後には、平氏政権下で苦しんでいた同族兄弟が、多く集まり従っている。関東平定後は、京都から公家を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。以下に主な家人を列記する。

兄弟(いずれも異母弟)

源氏


信仰[編集]

1180年(治承4)、平重衡による南都焼討により、甚大な被害を受けた東大寺を、後白河天皇に続き源頼朝が外護者となり、東大寺再興を支えた。

1063年(康平6)、源頼義(みなもとのよりよし)が由比郷に石清水八幡宮を勧請し、1180年(治承4)、源頼朝は小林郷北山に鶴岡八幡宮を奉遷した。

1185年(文治元)、父義朝(よしとも)の菩提を弔うための寺院である勝長寿院(しょうちょうじゅいん)を建立。 1192年(建久3)、戦没者の鎮魂のため永福寺(ようふくじ)を建立。

また、地元では伊豆山神社と箱根神社に対する崇敬が厚く、両社を盛んに参詣している。

法華経信仰[編集]

源頼朝は、法華経の写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などを行い、「法華八幡の持者」と称された。

  • 1185年(文治元)1月1日、源頼朝、鶴岡宮に詣で、神馬2疋を奉納す、次いで法華経供養を行う、尊暁導師を勤む、(吾妻鏡)
  • 1188年(文治4)4月23日、源頼朝、持仏堂に於て法華経講讃を始行す。宝蔵坊義慶唱導師を勤む、(吾妻鏡)
  • 1190年(建久元)8月15日、鶴岡宮放生会、次いで法華経供養を行う。源頼朝参詣す、舞楽あり、(吾妻鏡)
  • 1191年(建久2)8月15日、鶴岡宮放生会、源頼朝参詣す、次いで法華経供養を行う、導師安楽坊重慶、童舞は筥根の児童これに奉仕す、(吾妻鏡)
  • 1195年(建久6)2月11日、神楽あり、将軍頼朝参詣す、次いで宝前に於て法華経を供養す、永巌坊定豪導師を勤む、(吾妻鏡)

墓所・霊廟・神社[編集]

白旗神社内 源頼朝墓所
鶴岡八幡宮境内の白旗神社
  • 死後、頼朝の亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には、薩摩藩主・島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国の史跡に指定されている。
  • 鶴岡八幡宮境内にも白旗神社があり、社伝によると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り正治2年(1200年)に創建したとされる。源頼家の創建とも伝わる。明治21年(1888年)に現在地に遷座した。
  • 明治以降は日光東照宮の相殿にも祀られている。現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われている。鹿児島の島津家の代表も参列している。また日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復する。
  • 兵庫県川西市にある多田神社源氏まつりでは、頼朝に扮した騎馬武者を見ることができる。
  • 岩手県一関市東山町にある矢ノ森八景には、中世に土着した清和源氏の末裔が頼朝を慕って建立したと伝わる頼朝の墓がある。現在の岩手県まで家臣とともに逃げた頼朝を、和田義盛が追っ手として討ち取ったとされる。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。
  2. ^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国野間長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
  3. ^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている。なお、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もある(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、その子供達の処分が軽度であったのも当然とする見解も示されている(野口実『源氏と坂東武士』)。
  4. ^ 摂津源氏源仲綱が伊豆守だったとの説もある。
  5. ^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする説もある。(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年)
  6. ^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。この時に義時は4歳ほど。
  7. ^ 政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる。
  8. ^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせや京より下った三浦義澄千葉胤頼らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。
  9. ^ なお、平氏側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で、頼朝が狙われていたというのは誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場となった頼政の家人で在庁官人の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている(永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館))。
  10. ^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平氏打倒の兵を挙げた。
  11. ^ 『吾妻鏡』には次のようなエピソードがある。平氏方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
  12. ^ 『吾妻鏡』によると9月8日に北条時政を甲斐源氏武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』によると時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後直接甲斐国に向かっている。
  13. ^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平氏に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。しかし、この広常の日和見に関しては現在疑問を抱く学説が提示されている(野口実『源氏と坂東武士』など)。また、頼朝の房総での動向については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などには細部にわたる異説があり、定説はない。
  14. ^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説もある(川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。
  15. ^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残らば骸を頼朝の前にさらすべし」であったという(『玉葉』養和元年8月1日条)。清盛の死去に対して頼朝は「天罰をかうむり了はんぬ、仏神の加被ひとへに我が身に在り、士卒の心いよいよ相励むべし」と豪語し、東国の結束は一層強まったという(『玉葉』4月21日条)。
  16. ^ 政子の安産祈願のために、鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築き、また、伊豆山権現土肥遠平筥根権現佐野基綱相模一宮に梶原景高、三浦十二天佐原義連武蔵六所宮に葛西清重、常陸鹿島神宮に小栗重成、上総一宮に上総良常、下総香取神宮に千葉成胤、安房東條庤明神三浦義村、同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため奉幣使として遣わした。なお、政子の妊娠中に亀の前と密通、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている(『吾妻鏡』)。
  17. ^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返す。行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
  18. ^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平氏都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている(『吾妻鏡』)。
  19. ^ なおこのとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることができなかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)、一ノ谷の戦いの直後伊勢・伊賀で平氏の残党勢力が反乱を起こしたために出撃できなかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されている。
  20. ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
  21. ^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたという(『吾妻鏡』)。
  22. ^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信師岡重経渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景梶原景貞梶原景高中村時経海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長平山季重梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊八田知家小山朝政ら24名。
  23. ^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)・「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)・「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている(『吾妻鏡』))という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である(上杉和彦「鎌倉幕府と官職制度」『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996年(原論文は『史学雑誌』99巻11号、1990年))。
  24. ^ 延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面、慰安されたのち鎌倉の外れで待機したという。
  25. ^ その頃鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
  26. ^ 法皇が高階泰経を通じて出した弁明の使者は11月15日に鎌倉に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それは「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げで、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
  27. ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
  28. ^ 頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の記述などから長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条及び『玉葉』寿永3年2月20日及び3月28日条から、源義仲滅亡時に後白河法皇から戦功として征夷将軍の任命の打診が行われて頼朝がこれを辞退したとする見解が出されており、頼朝の征夷大将軍補任の経緯及び当時の征夷大将軍と官職に実質的権限が存在したのか(征夷大将軍の権限とされるものは実際には頼朝個人に対して与えられた警察的・軍事的特権である可能性の指摘)について疑問視する説が出されている(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)。
  29. ^ 近年、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷は消去法で「征夷大将軍」を選んだに過ぎないことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年)。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10、11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己の存在意義としていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の部門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている(西田友広「本巻の政治情勢」 五味文彦本郷和人・編『現代語訳 吾妻鏡5 征夷大将軍』吉川弘文館、2009年 所収。川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。
  30. ^ 頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録(神奈川県立歴史博物館編集・発行、1999年)に、不出品作も参考図を付け、網羅的に掲載・解説がされている。
  31. ^ 例えば、元暦元年(1184年)6月に受領に任じられた三河守源範頼ら3名(『吾妻鏡』元暦元年6月20日条)、同じく文治元年(1185年)8月に受領に任じられた伊予守源義経ら6名(『吾妻鏡』文治元年8月29日条)は、いずれも頼朝の戦功と引き換えに、その推挙によって任じられた清和源氏の一族であった(菱沼一憲「源頼朝〈御権威〉の成立と新秩序」『中世地域社会と将軍権力』、汲古書院、2011年、P187-192)。
  32. ^ 伊豆では水銀が産出されている

出典[編集]

  1. ^ 張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
  2. ^ 尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。
  3. ^ 尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
  4. ^ 系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。
  5. ^ 「鬼武丸」は『続群書類従』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『系図纂要』による。
  6. ^ この時点での清和源氏、河内源氏全体を統括する嫡流の棟梁というものは存在せず義朝以外の各源氏の武士たちは義朝の意思とは関係ない独立した立場の武士として活動していた(細川重男『頼朝の武士団』洋泉社)
  7. ^ 『山槐記』平治元年2月19日条
  8. ^ a b 清檞眼抄
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 吾妻鏡
  10. ^ a b c d e f g 玉葉
  11. ^ 吉記
  12. ^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は金砂城の戦い参照
  13. ^ 白根靖大「王朝社会秩序の中の武家の棟梁」(初出:『歴史』91号(東北大学東北史学会、1998年)、所収:白根『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02787-8 P180-207)
  14. ^ 黒田日出男 『源頼朝の真像』 角川学芸出版、2011年、ISBN 978-4-04-703490-7
  15. ^ 安田元久著『源義経』
  16. ^ 渡辺保著『源義経』
  17. ^ 菱沼一憲著『中世地域社会と将軍権力』
  18. ^ a b c 小長谷、2004年、P.74

参考文献[編集]

関連項目[編集]

史料
物語
研究書
史跡
祭事
大衆文化
その他
歌謡曲

外部リンク[編集]