保元の乱

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保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年7月1156年7月)に地位をめぐる確執から後白河天皇と兄の崇徳上皇が対立し、双方の武力衝突に至った政変である。

目次

[編集] 経過

[編集] 乱の原因

永治元年(1141年)、鳥羽法皇待賢門院との子である崇徳天皇を退位させ、美福門院との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた(近衛天皇)。崇徳天皇が鳥羽法皇の祖父白河法皇の子だとする風説が流布されており、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたとされている。しかし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性を疑問視する学説もある。

一方、摂関家では摂政藤原忠通と弟の左大臣藤原頼長が当主の座を巡って争っていた。兄弟の父である元関白藤原忠実は、仁平6年(1150年)に忠通の義絶を宣言して、藤氏長者の地位とその象徴である東三条殿朱器台盤を忠通から奪って改めて頼長に与えた。忠実は鳥羽法皇に忠通の摂政解任を求めるが、法皇は翌年に忠通を関白、頼長を内覧に任命して両者の和解を求めたものの、成果は上がらなかった。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇は御子の重仁親王の即位を望むが、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す雅仁親王(崇徳上皇のもう一人の弟)を後白河天皇として即位させてしまう。崇徳上皇は深くこれを怨んだ。更に藤原忠通は関白に再任されるが、頼長は内覧を解任されたために憤慨して宇治に引き籠った。忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。

保元元年(1156年5月30日、病に倒れた鳥羽法皇は自らの最期を悟って極楽往生のための行(「御万歳の沙汰」)を開始した(『兵範記』)。翌6月1日には源義朝源義康(足利義康)、源光保平盛兼らに命じて内裏と院御所の警備を開始した。これは法皇の没後に崇徳上皇や藤原頼長が兵を起こすことを予期したという説があるが、近衛天皇の崩御時にも同様の体制が取られており、法皇崩御後の混乱一般の防止にあったとする見方もある。また、6月3日には崇徳上皇が見舞いに訪れたが、法皇は面会を拒絶している。これを鳥羽法皇が崇徳上皇を冷遇したと解する説があるが、後白河天皇は見舞いにも訪れておらず、鳥羽法皇が往生のために必要な「無我の証得」のために近親者との対面を避けたとする見方もある。12日には法皇の最期を覚悟した美福門院も出家している。

7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇は報を聞いて院御所に駆けつけたが、生前に鳥羽法皇は検非違使藤原惟方に崇徳上皇には死に顔を見せないように生前に指示し、葬儀も三条公教・信西ら少数の側近によって執り行われることとなった。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に籠ってしまった。

崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集める。7月5日、天皇方は突如上皇側に不穏な動きがあるとして京中の武士を召集を開始し、源義朝平清盛源頼政源義康(足利義康)らが味方する。一方、これに対して崇徳上皇は依然として鳥羽田中殿に籠もっており、軍事的な動きは表立っては見せていない。

7月6日宇治の警護にあたっていた平基盛(清盛の次男)が、宇治滞在中の頼長の命を受けて上皇との連絡にあたっていた大和源氏源親治(宇野親治)を捕える。天皇方はこれを上皇側の挙兵の陰謀の証拠であるとした。

7月8日に行われた鳥羽法皇の初七日に崇徳上皇は参列しなかった。ところが直後に後白河天皇は綸旨を出して、忠実・頼長親子が荘園から軍兵を集めているとして蔵人左衛門尉高階俊成や源義朝に命じて東三条殿を「没官」処分とするためにこれを占拠した。これは忠実・頼長に謀叛の容疑がかけられたことによるもので、背後には忠通・信西があったとみられている。

[編集] 合戦の経過

7月9日の夜中、東三条殿の占拠を知って危機感を抱いた崇徳上皇は突如田中殿を脱出して、統子内親王の御所に入り、更に白河北殿に移ってこれを占拠した。白河殿は治天の君が政務を執った御所であり、軍事拠点としては不適であった。鳥羽法皇の崩御と藤原頼長失脚の危機に対して、後白河天皇の実兄である崇徳が自ら治天を目指すことを表明する目的があったと見られている。

『愚管抄』には直ちに頼長が宇治から駆けつけたかのように記されているが、『兵範記』によれば、実際には翌7月10日の晩頭(夜7時頃)になって漸く白河北殿に入っている。白河北殿には左京大夫藤原教長の他、源為義源頼賢源為朝源頼憲(多田頼憲)、平忠正らが集まったが、既に京内の武士の多くは天皇側が把握していたために、集まったのは崇徳上皇及び藤原頼長の側近や関係が深い武士たちによる最低限の護衛の兵力のみであり、兵力的には天皇方が優勢であった(重仁親王の乳母子である平頼盛でさえ、兄・清盛に従っていた)。頼長は宇治出発前に大和の僧兵や武士たちに協力を求めていたが、事態の急展開にほとんど兵を集められなかったようである(『愚管抄』には頼長の発言として「当時まことに無勢げなり」と記す)。また、万が一全面衝突をすれば天皇側の人質になる危険性もあった重仁親王も白河北殿には入っておらず、崇徳上皇の計画は突発的なものであったらしい。更に、後白河天皇側もこの事態を知ったのは10日に入ってからで、京都に向かうであろう頼長を道中にて捕らえようとした平信兼は到着が遅れて失敗している。なお、頼長が白河北殿に入ったのと相前後して内裏のある高松殿に忠通・基実親子が家司平信範(『兵範記』著者、当時五位官人)らを率いて入っている。『愚管抄』・『保元物語』・『帝王編年記』には続いて、内大臣徳大寺実能公能親子ら公卿が次々と参内したと記されているが、『兵範記』には後述の東三条殿行幸の際に公卿が他にいなかったために基実が近衛中将に代わって剣璽を奉じ(「遷幸東三条殿、内侍持出剣璽、左衛門督殿取之令安腰輿給、他公卿并近衛不参之故也」)、到着後に漸く事態を知った実能が東三条殿に着いたと記しており、ほとんどの公卿が鳥羽法皇の葬儀が全て終わらないうちのこの事態に困惑をしていたようである。

7月10日、両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。上皇方では為朝が高松殿を夜討して天皇を奪うことを献策したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けた(『愚管抄』では為義が先手を打って内裏を占領するなど三策を献策したことになっている)。もっとも、これを頼長が軍事に疎いとか油断しているとしてのみ判断することは出来ない。当時、上皇方の準備が十分でなかった上に、官軍が上皇を直接攻撃した例は無く(薬子の変でも平城上皇の居所に向けた武力攻撃は行われていない)、そのようなことは起こりえないと判断していたこと、更に現在どちらにも参上していない公卿たちに東三条殿占拠などの天皇側の不法を訴えることで、彼らを白河北殿に集めることが出来れば、崇徳上皇は「治天の君」として認められたことになり、後白河天皇はその権威に屈するであろうという状況認識であったと見られている。ところが、天皇方の軍議では義朝が夜討を献策してこれが信西及び後白河天皇に容れられる。頼長同様に軍事行動に慎重な態度を採っていた忠通は、未だ参上していなかった徳大寺実能ら他の公卿の支援を受けられず、学識高い信西の主張と義朝・清盛の軍事力の前にはなすすべも無かったのである。

7月11日未明寅の刻(午前4時)、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿を奇襲を行い、同時に後白河天皇は忠通親子らを引き連れて東三条殿に行幸し、以後合戦終了までここで戦況を見守った。清盛が為朝の守る西門を攻めるが、為朝の強弓の前に打ち負かされる。代わって義朝が西門を攻めるも、これまた為朝の強弓に撃退される。天皇方は頼政、源重成平信兼らの軍兵を投入するが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続く。

義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が辰の刻(午前8時)頃に白河北殿に燃え移ったため、崇徳上皇や頼長は白河北殿の東門から脱出し、上皇方の兵も先を争って白河北殿から逃走、戦闘は終結する。東三条殿にいた後白河天皇は戦勝の報を聞くと巳の刻(午前10時)には高松殿に帰還した。また、藤原忠実は戦いの知らせを聞くと11日のうちに宇治から奈良に逃亡した。

ただし、ここで注意しなければならないのは、『保元物語』が描く華々しい戦闘場面とは対照的に、実際の死者はほとんどいなかったとみられることである。『保元物語』で確認できる名のある死者は義朝・清盛・為朝らの従者計5名で、同物語にも源平の主な将が戦死しなかったと記されている。負傷者も著名な人物では頼長が流れ矢に当たり(後日死去)、大庭景義が為朝の矢を受けて足を負傷した(『吾妻鏡』)のが知られている程度である。これは太上天皇である崇徳上皇が死傷する事態は避けて生け捕りにすることが基本方針であったために、大規模な総攻撃を避けたためであると考えられている。実際に白河北殿東門側での戦闘の記録は無く、崇徳上皇や武将達をこの門から一旦逃がす方針であったと考えられている。最終的に総攻撃が行われず、一進一退の激戦が継続されたのも、崇徳上皇の確保の必要から強攻策(総攻撃)が不可能であった事情による部分もあったと見られている。

このように実際には政治的な勝利を目指していた崇徳上皇と藤原頼長及びその護衛の将兵達を後白河天皇・信西らが本格的な軍隊の投入で一気に排除したものであったと見られている。

[編集] 戦後

崇徳上皇は覚性法親王(崇徳・後白河の実弟)を頼って仁和寺に奔り取り成しを依頼したが拒絶され、7月13日に拘束された。だが、後白河天皇は上皇の断罪を決定し、7月23日に仁和寺から配流先の讃岐に護送されて、京に帰れぬまま同地にて不遇の生涯を閉じた。

高松殿に戻った後白河天皇は忠実が奈良に逃れたことを知って頼長の共犯とみなして、直ちに忠通を藤氏長者に任ずる宣旨を下した(19日に受諾)。天皇が藤氏長者を定めた最初の例であった。一方、脱出の途中で頭に流れ矢を受けた頼長は桂川を経由して木津から奈良に入り、先に奈良に着いていた忠実に保護を求めたが、忠実はこれを拒絶、14日に死去した。だが、忠実が15日に忠通に弁明の書簡を送るまで謝罪も釈明もしなかったことから、信西らは忠実こそが陰謀の中心人物であるとみなした。17日に後白河天皇の綸旨が出され、忠実・頼長親子を謀反人として所領を没官すること、ただし、本来は忠通が継承すべき藤氏長者の所領は忠通のものとすることが決定され、翌日には忠実所領のうち摂関家そのものとゆかりが深い宇治殿・平等院などは忠通への譲渡を条件として没収を免れた。これによって忠実の所領は没収免除の替わりに忠通に譲られた。忠実は忠通の功労に配慮して知足院への幽閉となった。

重仁親王は寛暁の弟子として出家することを条件に不問とされた。藤原教長も14日に自首して翌日には上皇と頼長が謀叛を企んだとする供述を行った(ただし、『兵範記』には右大弁藤原朝隆によって「去十一日、於新院御在所、整儲軍兵、欲奉危国家子細、依実弁申者」と迫られるなど、強引な尋問が行われたとされる)。8月3日には頼長の4人の男子や藤原教長ら13名が配流された。

  • 7月27日、天皇方が上皇方の公卿・武士らの罪を定めた。
  • 7月28日、平清盛が六波羅で
    • 平忠正
    • 平長盛
    • 平忠綱
    • 平正綱
    • 忠正の郎等道行

を斬る。

  • 7月30日、源義康が大江山で
    • 平家弘
    • 平康弘
  • 平盛弘
    • 平光弘
    • 平頼弘
    • 平安弘

を斬る。

  • 同日源義朝が船岡で
    • 源為義
    • 源頼賢
    • 源頼仲
    • 源為成
    • 源為宗
    • 源為仲

を斬る。

子が親を斬り、甥が叔父を斬るというむごい仕打ちが行われた。そもそも死罪は薬子の変以来346年間行われていなかったが、信西が復活させたものである。『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断には反対するものはなかった。

また、為朝は逃れたが、後に捕まり、自慢の弓を射ることができないよう、左腕の筋を抜かれてから伊豆大島に流されたと言われている。

こうして後白河天皇は反対派の排除に成功した。しかし、宮廷の対立が戦闘によって解決したこと、とりわけ京都市街を戦場とし、数百年ぶりに死刑が執行されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与え、貴族から庶民まで武士の力を強く印象づけることとなった。鎌倉時代の歴史書『愚管抄』(藤原忠通の子・慈円が著者)は、この乱が「武者ノ世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。一方、藤原忠通のもとで摂関家は統一を回復したものの、父親が謀反人とされ、自身も親の所領を奪って幽閉した不孝者とされたこと、更に藤氏長者自身の特権とされた次期長者の選任権が天皇に奪われたことで、忠通の政治生命は絶たれ、2年後に起きた天皇の側近藤原信頼とのトラブルをきっかけとした後白河天皇による閉門処分によって事実上失脚して、家督を長男近衛基実に譲った。

この乱は、3年後の平治の乱の遠因ともなり、さらには日本最初の武士政権である平氏政権の成立、また関東武士団を基盤とする鎌倉幕府の成立をもたらすこととなる。

[編集] 参加者一覧

天皇方

上皇方

[編集] 文学作品

[編集] 物語

  • 保元物語』は保元の乱を題材にした軍記物文学。作者不明で全三巻。鎌倉時代に成立したと考えられている。
  • 雨月物語』に含まれる小説「白峰」は、保元の乱に敗れた崇徳上皇の亡霊を題材にした怪談。作者は上田秋成という人物。江戸時代に書かれた。

[編集] 俳句

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク