東三条殿

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東三条殿復元図

東三条殿(ひがしさんじょうどの)は、平安時代平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路西洞院大路東)[1]の南北2町に跨って建てられた邸宅。摂関家の当主の主要な居宅の一つであるとともに、後院里内裏としても用いられた。

概要[編集]

人臣最初の摂政である藤原良房によって建てられたと伝えられている。以後、基経忠平の所有となり、陽成上皇宇多上皇の後院としても用いられた。後に忠平の娘婿重明親王に譲られるが、その没後は忠平の孫である藤原兼家の所有となり、安和2年(969年)この屋敷を改築した兼家はここを自分の屋敷と定めた。当時の邸宅は中央に寝殿が置かれてその左右に東西の対が連なる本院と敷地の南側に別邸である南院を配置していたとされている。

天延4年(976年)、冷泉天皇女御であった兼家の娘藤原超子がここで居貞親王(後の三条天皇)を生んだ。続いて天元3年(980年)、円融天皇の女御であった兼家の娘藤原詮子がここで懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ。詮子と懐仁親王は南院に居住していたが、懐仁親王が皇太子となった永観2年(984年)に南院は火災で焼失した。また、『大鏡』によれば、詮子は源高明の娘明子を東三条殿の東対に住まわせて家司を分け与えて養女同然にしたと記されている。その後も母子は東三条殿で暮らしていたが、寛和2年(986年)に懐仁親王はここで一条天皇として即位して、兼家は摂政に就任すると、兼家はここを新帝の里内裏として新築して永延元年(987年)に再建され、本院に新帝が、南院には皇太子となった居貞親王が入った。この時、兼家がここの西対を内裏清涼殿に模して建てたために批判を浴びた。この年、詮子と一条天皇は内裏に戻っている。

正暦元年(990年)の兼家の死後、本院は詮子に、南院は父の後を継いで関白となった嫡男道隆に継承された。翌年、詮子は出家して日本最初の女院となり、この居宅の名より、「東三条院」と呼ばれた。なお、『大鏡』に伝えられている道隆の弟・道長と嫡男・伊周の勝負をしたとされているのが道隆時代の南院である。正暦4年(993年)に再度火災で焼失して翌年には再建されたが、わずか1年で道隆はここで病死する事になる。

道隆の死後、東三条院が全てを所有していたが、死にあたって自らが後見して政界の実力者に押し立てた弟の道長に譲渡した。幼少時をここで過ごした道長は建物を建て替え、敷地の西側にあったの水を庭園に活用するために西対を廃した。寛弘2年(1005年)に道長は土御門殿から東三条殿に移り住んだが、直後に内裏の火災のために避難してきた一条天皇の里内裏となり、以後も内裏の火災が続き、次の三条天皇の里内裏や冷泉上皇の後院にもなり、寛弘8年(1011年)に冷泉上皇はここで崩御した。このため、道長は以後再び土御門殿を居宅とした。長和2年(1013年)に火災で再度焼失すると、道長は嫡男・頼通に譲ったが、頼通は高陽院という居宅を有していたために再建には熱心ではなく、再建途中の長元4年(1031年)には再度焼失して完成したのは30年後の長久4年(1043年)であった。だが、頼通はここには入らず後朱雀天皇の里内裏となったが、寛徳2年(1045年)に天皇は東三条殿で崩御した。

その後、一時期頼通の娘・藤原寛子後冷泉天皇皇后)に譲られたものの、康平3年(1060年)頃より以後の摂関家の大饗藤氏長者就任の儀式、立太子立后元服など、摂関家及び皇室の重要行事はここで行われる慣例が形成され、所有者も藤原師通以後は代々藤氏長者(=摂関家当主)の所有と定められた。また、近衛天皇後白河天皇もここを里内裏としている。

久安6年(1150年)、藤原忠実源為義らを引き連れて嫡男である関白藤原忠通が居住する東三条殿に乗り込み、忠通に対して勘当と藤氏長者と東三条殿の没収を通告した。その後、忠実は没収した藤氏長者を寵愛する次男の頼長に与えて東三条殿を新たな居宅として与えたのである。ところが、保元元年(1156年7月8日、後白河天皇側の軍が東三条殿を接収(頼長は宇治に滞在中であった)して、3日後には天皇と藤原忠通以下、天皇側の文武百官がここに立て籠もった[2]。これをきっかけに後白河天皇側と崇徳上皇側による保元の乱が勃発した。この乱で勝利した天皇は忠通に東三条殿を返還した。翌年、天皇が里内裏として東三条殿を借りた際には、寝殿を紫宸殿、東対を清涼殿に充てて、遣水の上にある御車寄廊を常御所として用いたことが、『兵範記』に記録されている。その後、忠通の娘・藤原聖子(皇嘉門院)、続いて嫡男の近衛基実に譲られたが、仁安元年(1166年)12月に当時皇太子憲仁親王(後の高倉天皇)の御所であった東三条殿は火災で焼失、以後は再建されずに荒廃した。

脚注[編集]

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  1. ^ 現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。
  2. ^ ただし、『兵範記』によれば、文官で集まったのは藤原忠通・基実親子と信西のみで大半の公卿は合戦開始の報を聞いて慌てて参集したとしている。

関連項目[編集]