寝殿造

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典型的な寝殿造である東三条殿復元模型(京都文化博物館
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
寝殿構 関根正直『宮殿調度図解』(1905年)
えさし藤原の郷」に復元された伽羅御所(寝殿造の様式を再現した[要出典]日本唯一の建造物)

寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の高位貴族住宅の様式。

寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、庭には太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿(つりどの)を設けた。

代表的な東三条殿は、藤原良房邸とされ、ここに藤原兼家が邸宅を新築し、里内裏としても用いられた。左京の三条にあったことから、東三条殿との名がある。のちに兼家自身が「東三条殿」と称されるようになる。また、次女の詮子は「東三条院」の院号を授かった。

概要[編集]

作庭記』などによれば、典型的な形態は平安京三位以上高位貴族の邸宅にみられたとされる。

敷地は平安京の条坊保町の制により方一町(約120m四方)を標準とし、敷地の周りに築地(ついじ)がめぐらされ、通常は南以外に門がある。中国()の邸宅様式の影響も指摘されるが、南門のなかった点に関しては唐の形式と異なる点である。正門は東西どちらかで、そのありかたにより「礼門」「晴門」と呼ばれる。

寝殿は、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で木造の高床式家屋である。蔀戸(しとみど)の上げ下ろしで屋内と屋外を隔てる。また、室内は移動家具である几帳屏風衝立などを使って仕切る(奥に壁で仕切られた塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる部屋を持つ場合もある)。

寝殿の南にはがあり、そこは白砂が敷かれ、太鼓橋の架かった池がある。この南庭は年中行事の場となった。寝殿の東、西にある建物は対屋と呼ばれ、「渡殿」というによって寝殿と連結され、庭の三方を囲む。建物の外周には壁が少なく、蔀戸を跳ね上げればまったく開放されて屋内外は一体となり、庭全体を見渡すことができた。東西の対屋からは南へ廊が伸び、その長い廊の途中には「中門」が設けられており、正門から中門を通って庭へと通行できるようになっている。寝殿の北にも対屋があり、やはり「渡殿」というによって寝殿と連結された。寝殿と対屋の間には坪庭があって珍しい植物を特別に植えたりした。

なお、平安時代当時の建築遺構は今日に残っていない。そのため、後世に描かれた絵巻(『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』など)や「玉葉」など平安時代のことを記した記録、江戸時代に有職故実に基づいて再興された京都御所紫宸殿清涼殿)の造りなどから考察されているものである。現在広く知られている寝殿造の模型や復元図は、江戸時代末期1842年天保13年)刊行の国学者沢田名垂著『家屋雑考』にある寝殿造の絵を明治時代に教科書に使ったのがその始めだとする意見がある。

寝殿造風建築[編集]

今日の観光景観として、「渡殿」でいくつかの建物をつないだ江戸時代以前の建築物を、寝殿造として見ることがある。方角や対屋の配置や時代や用途が必ずしも上記の「平安時代の平安京の高位貴族の住居」と完全に一致してあるものではないため、ここでは便宜的に寝殿造建築とするにとどめる。

現在の京都御所は、江戸時代安政2年、1855年)に有職故実に従い、建てられたものである。『大内裏図考証』[1]を基に平安時代後期の様式を用いており[2]、寝殿造の様子をうかがい知ることができる。内裏紫宸殿は南向きで南に白砂の庭を持ち(「南庭」)、東と西には役所の建物があって庭を三方から建物が囲んでおり、北には後宮がある。紫宸殿の北にある後宮はいくつかの建物を渡殿で繋いでいる。後宮の殿舎のうち清涼殿は東向きで公的行事にも使われたとされる庭を持つ。

また、京都の大覚寺(嵯峨御所)、仁和寺(御室御所)は室町時代の御所の建物を移築したものであり、これらも寝殿造風の面影を留めていると紹介されることが多い。

住居ではないが、厳島神社平清盛が造営した形式を踏襲しており、平安時代末期の建築様式を残すとされる。広く長い廊で、三方に配置したいくつもの建物をつないでいる。

足利義満が建てた鹿苑寺金閣(昭和時代に火災にあい、その後再建)の初層も、寝殿造風とされている。

平安時代の高位貴族である摂関藤原氏の別業(別宅と解釈することもある)平等院鳳凰堂は前面に池をもち、廊でつながれた三方の建屋を持つ。しかし、南に面していないことや、廊は飾りであって人が通る構造でないことなどから、平等院はこれを寝殿造としない見解を示している[3]

なお、鎌倉時代武家住宅の様式を「武家造」と呼ぶことがあるが、寝殿造を簡略化したもので独自の様式ではないとするのが建築史の通説である。

寝殿造庭園[編集]

上述のように、平安時代当時の建築遺構は残っていないが、藤原実資の日記『小右記』などの記録には東三条殿高陽院堀河院などに殿舎や趣向を凝らした庭園のあった様子が記されている。

寝殿造からの庭の眺めは生得の山水や国々の名所を縮景したもので構成される。池には大きさによっていくつかの中島が設けられ、北岸に近い中央前面からみて斜に朱塗りの高欄をもつ反り橋、次の中島や対岸にむけて平橋がかけられる。中門の廊の先端に池に乗り出してくつくられる庭園建築である釣殿(つりどの)が設けられ、舟遊の際の乗降場にあてられたり、納涼や月見、雪見の場所として用いられる。中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもあった。池への給水は京都の地形から敷地の北東部からの流れが導かれることが多く、水路は寝殿と東対屋の間をとおし南に流れて池に注ぐ。これは当時の陰陽五行思想によって順流とされるもので、遣水(やりみず)とよばれ、浅いせせらぎとなるよう工夫が凝らされる。これを建物近くに流して滝・遣水とする。寝殿と対屋の間などの坪庭には嵯峨野や紫野などの野の趣を移し、野筋といわれるゆるやかな起伏を作り、野草を植えて虫を放ち前栽とする。

遣水の流路とその護岸としての石立は、流れに変化をつけるもので、水が石につきあたって白く波だつ面白さや水音にもこまかく気が配られた。敷地内に豊富な湧泉があればそれが水源とされることもあったが、これらが暑い夏に涼感を醸し出す重要な要素でもあった。こんこんと湧き出る泉はたとえば藤原代々の氏の長者屋敷であった東三条殿は寝殿造の代表的なもので「千貫泉」と呼ばれる泉があり、周囲に立石が施され、泉の南北の廊は板敷となって泉廊と呼ばれていたことがわかっている。

近年の発掘調査で庭園における池の配置には寝殿の側面や後方に配置される事例があることが指摘されている。高陽院には寝殿の4方向すべてに池があったが池がなく遣水だけのものや三条院のようにわざとそれらを造らず、昔からある木立を生かした庭もあった。池の配置は自然地形に大きく左右され、池をもたない事例も指摘されている。池がつくられないような狭い敷地の場合でも遣水だけはつくられたものもある。

儀式[編集]

南庭は自然の美しさを存分にとりいれて造られたが、鑑賞のためだけの庭ではなく、儀式のための空間でもあった。主要人の邸宅では当時様々な重要行事が執り行われていたことが上記絵巻や日記などに記録されている。まず客人は南庭に立ちあるいは整列してあいさつをかわし、主人の勧めか主人が庭に降りて誘うことによって南から寝殿に昇る。この庭には舞台が構えられ舞樂が演じられる。これらは当時はまつりごと、すなわち政治の一部であった。なお儀式の内容により庭園に設けられる施設は異なってくるため、演出はさまざまになるとされる。

脚注[編集]

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  1. ^ 裏松固禅著『大内裏図考証』
  2. ^ 太田博太郎監修『【カラー版】日本建築様式史』美術出版 1999年
  3. ^ http://www.byodoin.or.jp/faq.html#q5

関連項目[編集]