遣唐使

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遣唐使(けんとうし)とは、日本に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年が滅びが建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。

上海万博に際し復元された遣唐使船

遣唐使の目的[編集]

海外情勢や中国の先進的な技術や仏教経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。

第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。

  • 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
  • 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)

なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本が新羅より席次が下とされる事件があった。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。

その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であったの文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。

回数[編集]

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。

  • 12回説:藤家禮之助
  • 20回説:東野治之、王勇

他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数 出発 帰国 使節 その他の派遣者 船数 備考
1 舒明2年
630年
舒明4年
632年
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日     唐使高表仁来日、僧帰国
2 白雉4年
653年
白雉5年
654年
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) 道昭定恵 2 第2船が往途で遭難
3 白雉5年
654年
斉明元年
655年
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使)   2 高向玄理は帰国せず唐で没
4 斉明5年
659年
斉明7年
661年
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳 2 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
5 天智4年
665年
天智6年
667年
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間   唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日
(6) 天智6年
667年
天智7年
668年
(送唐客使)伊吉博徳   唐使法聡を送る。唐には行かず?
7 天智8年
669年
不明 河内鯨(大使)     第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
8 大宝2年
702年
慶雲元年
704年
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良道慈 4  
9 養老元年
717年
養老2年
718年
多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使) 阿倍仲麻呂吉備真備玄昉井真成 4  
10 天平5年
733年
天平6年
734年
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成大伴古麻呂 4 帰路、第1船の多治比広成は種子島に帰着(吉備真備・玄昉)。第2船の名代は唐に戻され、翌天平7年(735年)に帰国。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
(11) 天平18年
746年
- 石上乙麻呂(大使)   - 停止
12 天平勝宝4年
752年
天平勝宝6年
754年
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)   4 鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
13 天平宝字3年
759年
天平宝字5年
761年
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成 1 渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国
(14) 天平宝字5年
761年
- 仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)     船破損のため停止
(15) 天平宝字6年
762年
- (送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山   唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止
16 宝亀8年
777年
宝亀9年
778年
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)
  4 大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡
17 宝亀10年
779年
天応元年
781年
(送唐客使)布施清直 多治比広成 2 唐使孫興進を送る
18 延暦23年
804年
大同元年
806年)10月
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使) 最澄空海橘逸勢霊仙 4 石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
19 承和5年
838年
承和6年
839年
藤原常嗣(大使)
小野篁(副使)
円仁藤原貞敏長岑高名 4 承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
(20) 寛平6年
894年
- 菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)     停止。ただし大使の任は解かれず。
  • 次数は20回説を採用。
  • ()は入唐しなかった遣唐使。
  • 送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
  • 『日本三代実録』貞観16年6月17日(874年8月2日)条にある朝廷が香薬調達のために大神己井・多治安江らを唐に派遣した一件も遣唐使に加えるべきとする説もある[1]

歴史[編集]

日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)のの滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御・薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる[1][2]

その後、白雉4年(653年)から天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる[3]

遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された遣唐使である。日本側の遣使の意図は不明(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となったことから成立困難となっている)だが、当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。日本国号変更(「」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)が通告されたのもこの時と推定されているが、記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている[2][3]

8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。この時代には唐側は日本の遣唐使を朝貢使とみなして「20年1貢」を原則とした[4]が、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)[1]。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた[5]

9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)[1]。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、承和5年(835年)の遣唐使の時には唐側より遠回しに早急の帰国を促され留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた[6]

一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して配流され、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名と対立するなど諸問題が一気に露呈した[6]

更に留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、承和の留学生であった円載の時には官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている[7]

唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える[6]

航路と遣唐使船[編集]

遣唐使の航路

遣唐使船は、大阪住吉住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡県福岡市)に至る。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。

  1. 北路
    • 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。
    • 630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化[8]により使用しなくなった。
  2. 南路
    • 五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
    • 702年から838年までの航路。
  3. 南島路
    • 薩摩坊津鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
    • 杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ[9]、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある[10]

663年白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年唐・新羅戦争新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

遣唐使船はジャンク船に似た構造で帆を用いていた。耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

遣唐使の行程[編集]

羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能[1]であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)[11]

長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物国書があればともに)を奉呈する儀式の要素が強い「礼見」と内々の会見の要素が強い「対見」、帰国の途に就く際に行われた「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した[5][11]。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった[1]

最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺官人送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため判官孫興進が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)[11]

派遣者一覧[編集]

遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による) 大使副使判官録事知乗船事訳語生請益生主神・医師・陰陽師絵師史生射手船師音声長 新羅、奄美訳語生卜部留学生学問僧傔従雑使音声生玉生鍛生鋳生細工生船匠柂師傔人 挟杪水手長水手など

遣唐使の廃止[編集]

では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣洛陽長安を陥落させ、(880–84年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

このため遣唐使は、寛平6年(894年)の派遣が遣唐大使菅原道真の建議(①中国では内乱が続いており、唐と日本が親しく交流できるかどうか疑問である②遣唐使の多くは遭難するなどしており、国家有為の人材を失う可能性が高すぎること③遣唐使は唐の優れた技術や文物を吸収することであったが、日本と唐の文化は同等であり、もはや学ぶべきものはない④遣唐使とはもともと日中交流のために開始したのに、いつの間にか朝貢使のように扱われており、国辱である)により停止された。この停止は直ちに中止を意味するものではなく、道真ら遣唐使予定者も引き続き遣唐使の職位を帯びていた。だが、昌泰の変によって道真が左遷されて大使を失い、ついで延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした[12]

遣唐使の停止後の日本の外交・貿易[編集]

遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じることを禁じる「渡海制」と唐やなどの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける[13][14])を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定[15]の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える[16]

だが、遣唐使の停止以後も、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかった[17]ため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った[18]。とは言え、摂関期院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる[16][14]

また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている[19]。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国から輸入した色糸が必要不可欠であった。

関連作品[編集]

関連項目[編集]

主な文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c d e f 榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:2005年))
  2. ^ a b 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」(初出:『国史学』189号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  3. ^ a b 森公章「大宝度の遣唐使とその意義」(初出:『続日本紀研究』355号(2005年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  4. ^ 東野治之「遣唐使の朝貢年期」(『遣唐使と正倉院』岩波書店、1992年(初出:1990年))
  5. ^ a b 榎本淳一「遣唐使による漢籍将来」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年))
  6. ^ a b c 森公章「漂流・遭難、唐の国情変化と遣唐使事業の行方」『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  7. ^ 森公章「遣唐使と唐文化の移入」『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  8. ^ 東野治之『遣唐使』p.64
  9. ^ 東野治之『遣唐使』p.64,p.65
  10. ^ 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年)p.54,p.55(原論文:2006年)
  11. ^ a b c 森公章「遣唐使が見た唐の賓礼」(初出:『続日本紀研究』343号(2003年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  12. ^ 森公章「菅原道真と寛平度の遣唐使計画」(初出:『続日本紀研究』362号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  13. ^ 渡邊誠「年紀制と中国海商」(『平安時代貿易管理制度史の研究』、思文閣出版、2012年(原論文:『歴史学研究』856号、2006年))
  14. ^ a b 渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」(『平安時代貿易管理制度史の研究』、思文閣出版、2012年(原論文:『ヒストリア』217号、2006年))
  15. ^ ただし、その根拠としては衛禁律に求める説と賊盗律謀叛に相当するとみる説がある。
  16. ^ a b 榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:1991年))
  17. ^ 「年紀制」違反による処分は、滞在中の供給(滞在費用)支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」)。
  18. ^ 唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた。
  19. ^ 「〈国風文化〉の成立」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:1997年))

外部リンク[編集]