大安寺

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大安寺
Daianji Hondo01.jpg
本堂
所在地 奈良県奈良市大安寺2丁目18-1
位置 北緯34度40分4.8秒
東経135度48分45.8秒
座標: 北緯34度40分4.8秒 東経135度48分45.8秒
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音
創建年 伝・飛鳥時代
開基 伝・聖徳太子
札所等 大和十三仏霊場 第13番
神仏霊場巡拝の道 第17番
聖徳太子霊跡 第11番
文化財 十一面観音立像(重文)
馬頭観音立像(重文)
不空羂索観音立像(重文) ほか
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大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代平城京)から平安時代前半は東大寺興福寺と並ぶ大寺であった。

歴史[編集]

概要[編集]

奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末~近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。

前史~百済大寺[編集]

大安寺の歴史については、正史『日本書紀』『続日本紀』の記述のほか、天平19年(747年)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)が主なよりどころとなっている(「資材帳」の写本は奈良市・正暦寺旧蔵、国立歴史民俗博物館蔵)[1]。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)であり、これが移転して、「百済大寺」(くだらのおおてら、くだらだいじ)、「高市大寺」(たけちのおおてら、たけちだいじ)、「大官大寺」(だいかんだいじ)と、移転と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。

「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が建てた熊凝精舎であった。病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに建て始めたのが百済大寺であるという[2]。初めての国家寺院である。熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。石田茂作は「熊凝精舎 = 額田寺」説をとったが、福山敏男は、熊凝精舎を額田寺に当てる説は鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』に初めてみえることなどから、熊凝精舎の実在自体を疑問視し、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみる。平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから、額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている[3]

一方の百済大寺については、奈良県北葛城郡広陵町百済寺という寺が現存するものの、舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡の発見や古瓦の出土もない[4]。1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は、奈良県桜井市南西部(藤原宮跡の東方)にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。その後2002年まで継続された発掘調査の結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている[5]

吉備池廃寺については、中心伽藍跡の北部が溜池になっていることもあり、講堂の跡などは確認されていないが、金堂、塔、東・西・南の回廊などの跡が確認されている[6]。金堂跡には礎石は残っておらず、柱の配置は不明だが、基壇は東西が37メートル、南北が25メートルで、南側の張り出し部を含むと南北は28メートルとなる[7]。塔の基壇は一辺32メートルの大規模なもので、規模からみて九重塔が建っていたとみられる[8]。回廊の東西は外側柱間の距離で156.2メートルとなり、高麗尺の440尺に相当する[9]。出土した瓦は、軒丸瓦が重圏単弁八弁蓮華文、軒平瓦が忍冬唐草文型押で、軒丸瓦・軒平瓦ともに、わずかにデザインの異なる2種類がある。このうち、軒丸瓦は四天王寺海会寺で同笵瓦が使われているが、瓦面の傷などから判断して、四天王寺・海会寺よりも吉備池廃寺出土瓦の方が先行して製作されたとみられる。一方、軒平瓦は2種類のうちの1つは法隆寺の前身である若草伽藍で同笵瓦が使われているが、こちらは吉備池廃寺出土瓦よりも若草伽藍瓦の方が先行する。類似の瓦は山田寺でも使用されているが、山田寺出土瓦の方が様式的に後のものとみられる[10]。以上のことから、吉備池廃寺の建立は、法隆寺の前身の若草伽藍より後で、641年から建立の開始された山田寺よりは先行する、630年代から640年代初めに位置付けられる。これは前述の百済大寺の建立が開始された年代と符合する[11]。また、吉備池廃寺では建物の規模の大きさに比して瓦の出土量が少なく、金堂や塔の礎石は全く残っておらず、火災に遭った形跡もない。出土した瓦も前述の様式のもののみで、補修用の瓦などはみられない。以上のことは、この寺は創建からあまり時を隔てずに建物ごと別の場所に移転した可能性を示唆している[12]

高市大寺と大官大寺[編集]

『日本書紀』には、天武天皇2年(673年)12月17日に美濃王紀訶多麻呂が造高市大寺司に任命されたとある。「大安寺資材帳」には、その同じ日に御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、このときに寺を百済の地から高市の地に移したとある。673年は天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱に勝利した翌年であり、同天皇の父舒明天皇の三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌にあたることが指摘されている。資材帳にはさらに、天武天皇6年(677年)9月に高市大寺を改称して大官大寺としたと見える[13]。「資材帳」および『書紀』には、文武天皇(在位697 - 707年)の治世に至っても大官大寺の堂塔の造営が行われている状況が窺える[14]。天武朝の大官大寺(高市大寺)と文武朝の大官大寺の関係については、1965年に田村吉永が別寺説を唱えた。その後の発掘調査や研究の進展により、両者は別の場所に建っていた可能性が高いと考えられている[15]

大官大寺跡[編集]

大官大寺跡は奈良県明日香村小山に残り、国の史跡に指定されている。寺号の読みは『釈日本紀』に「だいくわんだいじ」とあり、「おほつかさのおほてら」という読みも付されている。文字通り、官立の大寺という意味である[16]。寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡が位置する。伽藍配置は中門、金堂、講堂が南北に一直線に並び、中門左右から出た回廊が金堂に達し、回廊で囲まれた方形の区画の東側(金堂の右手前)に塔が位置する一塔一金堂式であった。廻廊内の西側(金堂の左手前)には建物跡が検出されていない。東西の回廊はさらに北方に続き、講堂の背後で閉じていた。つまり、講堂の周囲は回廊で囲まれていた[17]。塔は方5間(初層平面の1辺に柱が6本立ち、柱間が5間あるという意味)の大規模なもので、伝承のとおり九重塔であったと推定される[18]

この地には堂跡と塔跡の土壇が残り、ここが大官大寺の跡であるという伝承は近世からあった。幕末から明治初期にかけて、岡本桃里という人物が寺跡を調査した際には、堂跡には45個の礎石、塔跡には心礎と34個の礎石が残っていたが、明治22年(1889年)から始まった橿原神宮の造営工事のために礎石はあらかた持ち出されてしまった。なお、堂跡の土壇については、付近の小字名を「コードー」と言ったことから、講堂跡と見なされていたが、後年の発掘調査の結果、正しくは金堂跡であることが判明している。明治37年(1904年)に本沢清三郎が調査した際には数個の礎石を残すのみであったが、礎石を抜き取った跡の穴は残っていた。本沢が作成した見取り図によると、堂は桁行9間、梁間4間、塔は方5間であった(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)[19]

昭和48年(1973年)から同57年(1982年)にかけて奈良国立文化財研究所の行った発掘調査によって、前述のような一塔一金堂式の伽藍配置であったことが確認され、金堂、塔、中門、回廊、講堂のほか、寺域を区切る掘立柱塀の存在も伽藍の東方・西方・北方で確認された[20]。金堂の平面規模は桁行9間(45メートル)、梁間4間(21メートル)、塔は方5間(15メートル)であった。飛鳥時代の他の大寺の金堂の平面が15×11メートル程度、塔が方6.5メートル程度であるのに比べると格段に大規模な伽藍である[21]。寺域は藤原京の条坊に合わせて計画され、東が東四坊大路、西が東三坊大路、南が十条大路、北が九条条間路で囲まれた地区に位置していた[22]。発掘に際し、寺域跡からは焼け土や焼けた瓦が検出された。屋根の垂木が焼け落ちて地面に突き刺さった痕跡を残している箇所もあり、中門、回廊などは、建設工事の足場跡の穴にも焼け跡がみられたことから、これらの建物は建設途上で火災に遭ったとみられる。以上のことから、この寺は、金堂などの主要建物がようやく完成し、中門、回廊などは工事中の段階で火災に遭ったことが判明した[23]。さらに出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍の建立は天武朝まではさかのぼらず、持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された[24]。以上のことから、前述の天武朝に建立された高市大寺とは年代が合わず、高市大寺と大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。高市大寺の所在については不明であるが、香久山の西北、藤原宮の東にあった木之本廃寺が有力候補とされている[25]

平城京への移転以後[編集]

飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。

平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔(七重塔)が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。

天平19年(747年)の「大安寺資材帳」によると、同年現在、大安寺には887名の僧が居住していた。奈良時代の大安寺には、インド僧・菩提僊那、に16年間滞在した留学僧・道慈など、帰化僧・留学僧を含む著名な僧が在籍していた。菩提僊那は東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られる。道慈は三論宗系の学僧であり、奈良時代に護国経典として重視された新訳『金光明最勝王経』を日本にもたらすなど、上代仏教史上重要な人物である。唐僧・鑑真を日本へ招請するため唐に派遣された普照栄叡空海最澄と交流のあった勤操、また最澄の師にあたる行表も大安寺の僧であり、大安寺が日本の上代仏教の発展に果たした役割は大きかったが、都が平安京へ移ると次第に衰退した。寛仁元年(1017年)の火災では本尊釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはなかった。慶長元年(1596年)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみであったという。

大安寺の旧本尊・乾漆造釈迦如来像は「資材帳」に天智天皇発願の像と記され、名作として知られていた。平安時代末期の保延6年(1140年)に南都の諸寺を巡った大江親通の『七大寺巡礼私記』は、薬師寺の本尊像(現存、国宝)についての記述のなかで、「薬師寺の本尊像は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことを述べている。平安時代末期に和様彫刻様式を完成させた仏師・定朝も大安寺の釈迦像を模作したことが知られている。この釈迦像も今は失われ、見ることができない。

なお大安寺自身により、学術論文集『南都大安寺論叢』(南都国際仏教文化研究所編、平成7年・1995年)と、『大安寺史・史料』(昭和59年・1984年)が刊行されている。

境内[編集]

境内(国の史跡)には本堂、嘶堂(いななきどう)などが建つがいずれも近代の建物である。

  • 本堂-本尊十一面観音立像(重文)を安置する。本尊は秘仏で、10-11月のみ公開される。
  • 嘶堂-馬頭観音立像(重文)を安置する。像は秘仏で、3月のみ公開される。
  • 讃仰殿-1963年に建てられた鉄筋コンクリート造の収蔵庫で、楊柳観音立像(重文)など7躯の木彫仏を安置する。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 木造十一面観音立像-当寺の本尊。頭部は後世のものに変わっている。
  • 木造馬頭観音立像-重文指定名称は「木造千手観音立像」
  • 木造不空羂索観音立像
  • 木造楊柳観音立像
  • 木造聖観音立像
  • 木造四天王立像

上記の6件9躯の木彫仏は奈良時代末期の制作と思われるが、いずれの像も破損が多く、各像の両腕などは大部分後補のものに変わっている。天平19年の「大安寺資材帳」にはこれらの像に該当するものが見出されないことから、それ以後の造立と思われる。これらの木彫仏は作風的に唐招提寺の旧講堂仏像群との類似が指摘されている。

史跡(国指定)[編集]

  • 大安寺旧境内 附:石橋瓦窯跡
史跡指定地には現・大安寺境内のほか、南側の東西両塔跡、北側の杉山古墳を含む[26]。附(つけたり)指定の石橋瓦窯跡は京都府綴喜郡井手町所在。

アクセス[編集]

近隣施設[編集]

参考文献[編集]

  • 大脇潔「王権・仏教・官寺創建 百済大寺跡発見とその意義」『朝日百科 日本の国宝 別冊 国宝と歴史の旅1 飛鳥のほとけ 天平のほとけ』、朝日新聞社、1999
  • 田辺征夫「都城の大寺 大官大寺と薬師寺」、狩野久編『古代を考える 古代寺院』所収、吉川弘文館、1999
  • 今城甚造『大安寺』、中央公論美術出版、1966
  • 木下正史『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』、角川書店、2005

脚注[編集]

  1. ^ (木下、2005)p.21
  2. ^ (木下、2005)p.22
  3. ^ (木下、2005)p.25, 237
  4. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  5. ^ (大脇、1999)
  6. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  7. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  8. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  9. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  10. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  11. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  12. ^ (木下、2005)pp.25, 237
  13. ^ (木下、2005)pp.33 - 34
  14. ^ (木下、2005)pp.38 - 39
  15. ^ (木下、2005)pp.53 - 54
  16. ^ (木下、2005)pp.126 - 127
  17. ^ (木下、2005)p.83
  18. ^ (木下、2005)pp.93 - 94
  19. ^ (木下、2005)pp.46 - 50
  20. ^ (木下、2005)pp.57 - 80
  21. ^ (木下、2005)p.152
  22. ^ (木下、2005)p.83
  23. ^ (木下、2005)pp.58 - 61
  24. ^ (木下、2005)pp.59, 113
  25. ^ (木下、2005)pp.217 - 227
  26. ^ 『図説日本の史跡 5 古代2』、同朋舎出版、1991、p.161

外部リンク[編集]

大安寺のホームページ