丹墀貞成

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丹墀貞成
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 正五位下木工頭
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 多治比真人→丹墀真人
丹墀峯成[1]多治貞岑 [1]
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丹墀 貞成(たじひ の さだなり)は、平安時代初期の貴族多治比真人のち丹墀真人。官位正五位下木工頭

経歴[編集]

嵯峨朝弘仁10年(819年従五位下叙爵淳和朝天長6年(829年)従五位上に叙せられる。

天長10年(833年)木工頭の官職にあったが、多治比真人姓から丹墀真人姓への改姓を奏請し許される。なお、「丹墀」というの呼称は天平5年(733年)に遣唐大使として渡唐した多治比広成において一時的に用いたものであった[2]。その後、正五位下に叙せられる。承和元年(834年)約30年ぶりに遣唐使を派遣することになり、遣唐使船を建造するために造舶使が任命され、貞成は責任者である長官に任命された。

なお、貞成の没後の貞観8年(866年)に貞成の子息と見られる貞岑によって、丹墀真人姓から多治真人姓への改姓が行われている[2]

官歴[編集]

六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『新編武蔵風土記』には武蔵国久伊豆神社の社伝として貞成の子に峯成と貞峯の兄弟あり、兄の峯成は私市党の祖となり、弟の貞峯は秩父の丹党の祖となったという。
  2. ^ a b 『日本三代実録』貞観8年2月21日条
  3. ^ 『続日本後紀』による。『日本三代実録』では天長9年4月25日とする。

参考文献[編集]