淳和天皇

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淳和天皇
第53代天皇
元号 天長
先代 嵯峨天皇
次代 仁明天皇

誕生 786年
崩御 840年6月11日
陵所 大原野西嶺上陵
御名 大伴
異称 西院帝
日本根子天高譲弥遠尊
父親 桓武天皇
母親 藤原旅子
皇后 正子内親王
子女 恒貞親王
基貞親王
恒統親王
恒世親王
氏子内親王
貞子内親王
明子内親王
良貞親王
皇居 平安宮
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淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日840年6月11日)、在位:弘仁14年4月27日823年6月9日) - 天長10年2月28日833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇西院帝ともいう。大伴(おおとも)。

系図[編集]

 
(50)桓武天皇
 
(51)平城天皇
 
高岳親王
 
 
(在原)行平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊予親王
 
 
阿保親王
 
 
(在原)業平
 
 
 
 
 
万多親王
 
 
(54)仁明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(52)嵯峨天皇
 
 
有智子内親王
 
 
 
 
 
 
 
(源)信
嵯峨源氏へ〕
 
 
 
 
 
(源)融
嵯峨源氏へ〕
 
 
 
 
 
(源)潔姫
(藤原良房妻)
 
 
 
(53)淳和天皇
 
恒貞親王
 
 
 
 
葛原親王
 
(平)高棟
 
 
 
 
 
 
 
高見王
 
(平)高望桓武平氏へ〕
 
 
 
 
(良岑)安世
 
遍昭
 
素性
 
 
 


系譜[編集]

桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子皇后正子内親王との間に恒貞(つねさだ)親王を儲けた。他に贈皇后高志内親王などの妃がおり、子も多数いた。

平城天皇嵯峨天皇は異母兄。

略歴[編集]

2歳にして生母を失ったために、これを哀れんだ桓武天皇は有能な女官であった文室与伎の妻・平田孫王に親王の母代わりとして育成させたという。

弘仁元年9月13日810年10月14日)、薬子の変後に廃太子された高岳親王平城天皇の子)に代わって立太子した。

弘仁14年4月27日(823年6月9日)、即位。これに伴い、大伴氏伴氏と改姓している。天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだといわれている。

天長10年2月28日(833年3月22日)、仁明天皇譲位し退位。

清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。表面的には比較的平穏な時代であった。

だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなかったとされている。『日本後紀』によれば、大同元年5月1日806年5月22日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている。天皇は桓武天皇の皇后(藤原乙牟漏)所生ではなかったが、生母が皇后と同じ藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后所生の高志内親王を后として恒世親王を儲けていた。平城・嵯峨両天皇を除けば恒世親王が桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇の高岳親王や嵯峨天皇の正良親王(仁明天皇)よりも近い)であったが、父親である大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かなかった。そのため、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇の内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王が他戸親王早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、桓武天皇嫡系に准じた恒世親王の皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。

だが、淳和天皇は即位後恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子であるとして正良親王を皇太子に擁立した(高岳親王は薬子の変で廃太子)。在位中に恒世親王が病死したため皇位は正良親王(仁明天皇)に継承されたが、仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に擁立した。淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託して崩御するが、その不安は承和の変として現実のものとなった。

承和7年5月8日(840年6月11日)、崩御。死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。

后妃・皇子女[編集]

和風諡号・異名[編集]

和風諡号は日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)。譲位後の在所であった淳和院(現在の京都市右京区西院)の別名からつけられた西院帝(さいいんのみかど)の異称がある。

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、京都府京都市西京区大原野南春日町にある大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

淳和上皇自身の意向により火葬され、その遺骨は近臣藤原吉野の手によって大原野の西山(京都市西京区大原野南春日町の小塩山)山頂付近で散骨されたと言われている。山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓が記されておらず、当地には長らく小石で築かれた円塚のみであったが、幕末の陵墓修復の際、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵と称する陵が築かれた。

なお、小塩山は長岡京が都であった時代に天皇陵の築造予定地とみなされていた長岡京の北郊地域の範囲に含まれるとされ、生母・藤原旅子や祖母・高野新笠の陵墓とも離れていないことが指摘されており、散骨地の選定に影響を与えた可能性がある[1]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注[編集]

  1. ^ 山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」 所収:角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』(思文閣出版、2011年)

参考文献[編集]

  • 安田政彦「大同元年の大伴親王上表をめぐって」(初出:『続日本紀研究』第268号(1993年6月)・所収:「大伴親王の賜姓上表」(改題)『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年) ISBN 978-4-642-02330-6

関連項目[編集]