菅原善主

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菅原 善主
時代 平安時代初期
生誕 延暦22年(803年
死没 仁寿2年11月7日852年12月21日
官位 従五位下勘解由次官
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 菅原氏
父母 父:菅原清公
兄弟 興善、忠臣、善主是善、是算、康子、秋篠清成
宗岳
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菅原 善主(すがわら の よしぬし)は、平安時代初期の貴族左京大夫菅原清公の三男。官位従五位下勘解由次官

経歴[編集]

天長2年(825年)に23歳にして文章生に補せられる。

承和年間の初頭に弾正少忠に任ぜられた後、承和3年(836年遣唐使判官に任ぜられ、播磨権大掾を兼ねる。7月に使節団は4隻の遣唐使船に分乗して(善主は第3船に乗船)九州から出航するが[1]、まもなく4隻とも漂流して肥前国へ引き返す[2]。承和4年(837年)の二度目の渡航も失敗し、承和5年(838年)三度目の渡航でようやく渡に成功し長安へ入京する[3]。翌承和6年(839年)8月に肥前に帰着し、9月に使節に対する叙位が行われて善主は従五位下に叙爵された。

承和7年(840年)6月に兵部少輔に任ぜられるが、同年8月に伊勢権介に転じたのちは、一時主税頭を挟むも、伊勢介・越前介仁明朝の後半は主に地方官を歴任した。

文徳朝の仁寿2年(852年)6月に勘解由次官として京官に復帰するが、病により同年11月7日卒去。享年50。最終官位は勘解由次官従五位下。

人物[編集]

若い頃より聡くて賢い一方、容儀が美しく、非常に弁も立った[4]

官歴[編集]

六国史』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本後紀』承和3年7月2日条
  2. ^ 『続日本後紀』承和3年7月17日,7月25日,8月20日条
  3. ^ 『入唐求法巡礼行記』開成3年10月4日条
  4. ^ a b 日本文徳天皇実録』仁寿2年11月7日条
  5. ^ 『尊卑分脈』