高麗

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高麗
各種表記
ハングル 고려/고려왕조
漢字 高麗/高麗王朝
平仮名
(日本語読み仮名)
こうらい/こうらいおうちょう
片仮名
(現地語読み仮名)
コリョ/コリョワンチョウ
2000年式ローマ字:
英語:
Goryeo/Goryeo Wangjo
Goryeo/Goryeo Dynasty
  

高麗(こうらい)は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)。都は開城

朝鮮をさすKoreaコリア)の語は、10世紀から12世紀まで高麗とアラビア間の貿易が盛行した時、高麗の首都だった開京の碧瀾渡でアラビアの商人たちが「高麗(コリョ)」を「コウリオ」と呼び始めたのが「コリア」になり、今の朝鮮を指す英語表記の「コリア」になった。[要出典]高麗(韓国語の発音はGoryeo)の日本語音写(Korai)が16~17世紀、オランダなどによって欧州に広まったとする説も存在する。 では朝鮮をさすKorea(コリア)の語は高麗の日本語音写が16〜17世紀、オランダ人などによって欧州に伝わったものである。日本や中国では高句麗を「高麗」と記し、六国史などでは渤海を「高麗」と記すため、区別上「王氏高麗」ということもある。 ... [1]

元来は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。

目次

[編集] 歴史

朝鮮の歴史
朝鮮の歴史
先史時代
辰国 檀君朝鮮
箕子朝鮮
衛氏朝鮮
古朝鮮
高句麗 扶余 沃沮 三韓 原三国
高句麗 伽耶 新羅 百済 三国
渤海 統一新羅 南北国
渤海 後高句麗 新羅 後百済 後三国
高麗
李氏朝鮮
大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
朝鮮民主主義人民共和国 大韓民国

[編集] 建国

新羅は朝鮮半島を統一し、仏教文化を成立させただけでなく、民衆の生活も豊かにした。しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起きた他、地方でも農民の反乱が起き、新羅の政府の命令は中央から遠い地方では無視されるようになった。この乱れてしまった政局は真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年、半島西南部で甄萱後百済を建国し、901年には弓裔後高句麗を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。

王建は後高句麗の将軍であった。王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、動員された民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こし、918年に高麗を興した。朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が続き、分裂したままかと思われたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとして長男の神劍(後百済の第2代王)に反乱を起こされた。神劍は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。結局、甄萱は935年6月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同年11月、新羅 敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

[編集] 北進政策と契丹侵入

詳細は「契丹の高麗侵攻」を参照

その間、926年に北方民族契丹916年成立)が渤海を滅ぼすと、高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。これにより現在の大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。

宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ。さらに993年から朝貢を求めて大規模な侵入を行う。高麗はこれを撃退したのち、江東6州の獲得と引換えに翌994年に朝貢した。1009年に高麗で政変が起きると、契丹はこの隙を突いて1010年に再度侵入し、首都開城に攻め込む。しかし高麗の将軍・姜邯賛の策により、開城には高麗軍も物資もなく、補給に難が生じた契丹軍は開城から後退。この間高麗王は羅州に避難した。姜邯賛は西京以北の要所要所に伏兵を配置し、後退する契丹軍に反撃を加えて勝利した。こののちも契丹は1013年から1015年まで継続して侵入するが高麗は1015年にこれを撃退する。しかし契丹はその年のうちに再再度侵攻した。高麗は1016年に宋の年号を用いた。1018年蘇排押率いる10万の契丹軍が高麗に攻め込むが姜邯賛率いる高麗軍14万が鴨緑江と亀城にて、これを迎え撃ち大勝利を収めた。この戦いで生き残った契丹兵は、僅か数千に過ぎなかった。(亀州大捷)。侵攻は1019年まで続き、高麗は何度もこれを撃退するが、1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。

その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。

この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年を建て、1125年に遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。

[編集] 武臣政権と蒙古侵入

12世紀中頃から、王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)である鄭仲夫がクーデターを起こして国王を廃位し、武臣政権時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、1179年に暗殺される。その後、李義ミンが政権を握るが、崔忠献により暗殺され、その後、武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。

崔氏武臣政権下、北方ではチンギス・カン率いるモンゴル帝国(蒙古、後の)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。高宗5年(1218年)にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討ちさせており高麗側も兵力を出してこの討伐行を助勢した。これにより高麗はモンゴル側との接触を得てしばらく平和裏に交渉が行われていたが、1224年に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で遭難する事件が起こり、国交は断絶した。1231年からモンゴル側から先年の使者の遭難を詰問し降伏・臣従を促す国書が来牒し[2]、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に服属し、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴル皇帝(カアン)の侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。

一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。また、元宗のクビライ政権に降伏して接近する政策に反発した林衍らがクーデターを起こした。これを討伐するためモンゴル軍が派遣され、林衍派は三別抄らを動員して抵抗したものの敗退し、南方の珍島や耽羅(済州島)に落延びた。耽羅島の三別抄政権は鎌倉幕府に救援を求めて共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前に日本派遣軍の司令官となる忻都、洪茶丘などが率いる派遣軍に鎮圧されている。

[編集] 蒙古への服属・元寇への参加

蒙古はこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた。国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた(1290年返還)。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、蒙古支配に納得しない人々が反乱し、三別抄の乱となった。反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライ日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため高麗は前線基地として、兵站の補給と軍艦の建造を命令され、これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。一方、高麗史には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。

親政を回復した忠烈王(在位1274年1308年)はクビライに公主の降嫁を申請してこれが許され、クビライの娘忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)[3]と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)の待遇を受けるようになるが、同時に日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、高麗は元の強い影響下に入ることとなった。また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれた。そのような中で忠烈王とモンゴル皇帝の公主との間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降の高麗世子は禿魯花(トゥルカク turqaq )として元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなる。

具体的には、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、元風の名も持っていた。[1]

忠烈王以降の高麗王室は、元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗国王」の地位を得て[4]、多くの高麗王族がモンゴル皇帝の侍衛組織であるケシクに出されることが恒例となり、ケシクとして皇帝に側近くに仕えた世子が次期高麗国王となる習慣が出来た。皇帝に近侍することで宮廷儀礼に慣れ親しむ契機を得、高麗王家はクビライ皇帝家に参与する諸侯のひとつとしての地位を固めて行った。これにより、モンゴル宮廷での高麗王家の地位は破格に向上したが、同時にテムル以降の元朝宮廷の内紛の影響を直接受けるようにもなり、忠宣王のように高麗国王位とケシクとしてモンゴル宮廷への出仕を繰り返し、英宗シデバラの治世にチベットへ配流される例もあった[5]

[編集] 滅亡への道

14世紀に大陸で紅巾の乱が起こって元が衰え始めると、恭愍王1351年 - 1374年)は1356年に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。また、1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。1356年から1362年までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、崔瑩鄭世雲李芳實李成桂らが率いる高麗軍は10万人にも及ぶ紅巾軍を撃退し開京の奪回に成功する。1359年には、李承慶・李芳實が西京(平壌)で、1361年には李成桂・鄭世雲が黄州で、紅巾軍に大勝した。倭寇についても、崔瑩・李成桂・羅世鄭地朴ウィらの有力武将は、次第に倭寇に打撃を与えて行き、1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣・羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、大勝利を収め、1389年の朴ウィによる対馬攻撃を境に、倭寇の回数は激減する。1368年が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂は、1388年クーデターを起こして政権を掌握し、1389年恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、李氏朝鮮王朝を興す。ここに高麗は474年で滅びた。

[編集] 社会・経済・国際関係

[編集] 女性の社会的地位

高麗の社会は朝鮮の歴史にとって新羅に続き、女の社会的地位が高いという時代だった。もちろん、政治や生活全般には男が優先されたが、財産の分配は息子と嫁いだ娘を同等に待遇した。また夫に殴られた妻が官庁に告発し、官庁に引っぱられた夫がむち打ちの刑をうけた事もあった。忠烈王の時、朴楡は王に貴族の畜妾(ちくしょう)制度を法律で定めることを建議した。後に朴楡は町で老婆と女たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われた。離婚再婚が自由だったというが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問してから書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。息子がいなくても祭祀は娘と婿が行なった。婿取婚の比率も高い、女は影響力が強かった。

[編集] 国際貿易

高麗では貿易が栄え、特に開京から近い礼成江河口にある港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。詳らかなことは下を参照。

[編集]

高麗は宋に入朝し、親宋を標榜した。宋は高麗の最大の貿易国だった。高麗は宋に金・銀・螺鈿漆器・花茣蓙・紙・銅・陶磁器(高麗青磁)・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。1976年に韓国の全羅南道新安の沖で高麗と宋の難破船が発見され、宋と高麗の遺物18000点が引き揚げた。

[編集] アラビア

高麗の首都の開京(現在の北朝鮮の開城市)の礼成江河口の国際貿易港だった碧瀾渡でアラビア商人が賑やかだった。『高麗史』の記録には1024年顕宗15年)と1025年顕宗16年)、1040年靖宗6年)にアラビアと大食国(ペルシア)の商人らが高麗に入朝し、産物を献上したと記されている。高麗はアラビアから水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚を輸入した。この時代に高麗の名称がヨーロッパに知られ、アラビアの商人たちが高麗(コリョ)を「コリア」と呼び始め、今の朝鮮を指す英語表記「Korea」になった。

[編集] 契丹

高麗は建国初期に契丹に対して「渤海を滅ぼした民族とは共存できない」と言い、太祖は契丹との貿易を禁止した。を建国した契丹の国土が宋と高麗の間にかけて存在したので、高麗は海上貿易を通じて宋と交易した。3回目の遼の高麗侵攻が失敗で終わってから、高麗と遼は国交を回復し、 高麗は遼に書籍・食糧・銅・鉄・朝鮮人参を輸出した。高麗は遼から銀と毛皮を輸入した。

[編集] 女真

女真は宋と高麗両国に朝貢してきたが、12世紀に入ると満州で成長し、を建国した。高麗は女真に毛皮や馬を輸入し、書籍・農機具を輸出した。

[編集] 文学

高麗の文学は初期の詩と中期・後期の小説で区分できる。高麗仁宗時代の詩人鄭知常の漢詩『送人』は“晴れ上った長い堤に草色が濃いのに…”で始まる詩で、現在まで愛されている。その他に文学の形式の高麗歌謡が流行り、恋人との別れを悲しむ『西京別曲』、『カシリ(行ってしまいますよね)』がある。また俗世を脱して自分の寂しさや悲哀を歌った『青山別曲』は『西京別曲』・『カシリ』と共に現存する高麗歌謡として高く評価されている。中期と後期には執権者や社会の矛盾を風刺した小説が書かれた。特に物事を擬人化して創作した假伝体小説が流行った。酒を擬人化した林椿の『麹醇伝』や李奎報の『麹先生伝』が有名である。

[編集] 思想・文化

高麗初期から仏教は王族たちの支援をもらいながら発展した。太祖開京に多い寺院を建築し、訓要十條で仏教を崇尚して燃燈会八関会など仏教の行事を開催することで仏教に対する国家の指針を提示した。貴族たちも仏教に関心を見せたが、これらは政治的理念にした儒教と信仰にした仏教をお互いに代置されることと思わなかった。民たちも起伏信仰として仏教を信奉した。光宗の治世からは王が僧科を実施して、試験に合格した者には僧侶の地位を与え、国師を置いてこれらにとって王の顧問役目を引き受けるようにした。また、寺院には土地を支給して僧侶たちに各種恩恵を与えた。

高麗時代には仏教思想に対する体系が整備されながら仏教と係わる書籍を皆集めて体系化する大蔵経が編纂された。大蔵経の内容は仏教の経典たちを集大成したこととして釈迦の説教を記録した経蔵、すべての戒律を記録した律蔵、仏者たちの論説を記録した論蔵で構成なっている。高麗は外勢の侵入を受ける度に仏陀の力を借りて勝利しようと大蔵経を刊行した。の侵攻が開始された時には八萬大蔵経を刊行した。38年にわたって完成した八萬大蔵経は膨大な内容を記したけれども誤った字や抜けた字がほとんどない精緻さと字体の美しさのため世界遺産に指定されたりした。現在海印寺で保管している。

高麗には道教も盛んだったが、不老長生と現世での豊かさを追い求めることを特徴にする道教は幾多の神々を仕えながら災いから脱して救援を望んで国の平安と王室の繁栄を祈った。これのために道教的行事がよく開催されたし、宮廷では天に祭祀を執り行なう醮祭を開催した。新羅後期に流行った風水地理説は未来を予言する図讖思想が追加されて高麗時代に大きく流行った。高麗時代には開京と西京(平壌)が明堂といううわさが流布して西京遷都と北進政策推進の理論的根拠になった。しかしこのような明堂説は開京勢力と西京勢力の政治的闘いに利用された。文宗の治世以後ではソウルが明堂といううわさが流布してこちらを南京で改称して王宮を建てて王がしばらくとどまった。

高麗は役人たちを養成するために全国に多い学校を建てて民たちに教育を奨励した。開京には今の国立大学校にあたる国子監があった。国子監には国子学太学四門学のような儒学部と律学書学算学などの技術学部があった。儒学部には名望高い高位級貴族たちの子弟が入学したし、技術学部には下級貴族たちの子弟と庶民たちの子弟が入学した。そして地方ちほうには地方貴族たちと庶民たちの教育を担当する郷校があった。

高麗は光宗が科挙を実施しながら漢文学が大きく発展した。成宗の治世以後文治主義が盛んさによって漢文学は貴族たちの必須な教養になったし、朴寅亮鄭知常など優秀な詩人たちが登場した。民衆社会では作曲家と作詞者の名前が不明である俗謡という歌謡が流行った。

ぜいたくに生きた高麗の貴族たちは自分たちの欲望を満たすために多様な芸術作品を作って鑑賞した。その中でも一番脚光を浴びた分野は工芸だった。工芸は貴族たちの生活道具と仏教儀式に使われる道具などを中心に発展し。高麗の磁器は新羅と渤海伝統と技術を土台で宋の磁器技術を受け入れて貴族たちの全盛期の11世紀に独自の境地を成した。翡翠色が出る青磁発展した。

高麗時代には主に王宮と寺刹を建築したが現在まで保存している建物はほとんどない。

絵画の場合、王族たちと貴族たちの依頼を受け入れて仏画が描かれた。特に高麗の画家たちは極楽往生を祈る阿彌陀仏図と地蔵菩薩図、観世音菩薩図を描いた。また、仏教の経典を筆写する時、その経典の内容を絵で説明した写経画も流行った。高麗後期には四君子を主題にした文人画が流行った。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ a b 14世紀のヨーロッパ古文や多くの学会から認められる正説である。[要出典]
  2. ^ 『高麗史』巻23・世家第23 高宗18年12月壬子(1231年12月25日)および甲戌(1232年1月16日)条にこの時にモンゴルの使者がもたらした牒状の写しが載せられている。
  3. ^ 國大長公主忽都魯掲里迷失(『元史』巻109・諸公主表では「忽都魯堅迷失」)。皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。後の荘穆王后。舊妃は始安公娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は舊妃に近寄らなくなったという。(高麗史) 忠烈王の項目も参照。
  4. ^ 『元史』巻108・表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗国王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)。
  5. ^ 森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史学雑誌』110-1、2001年2月。69-70頁。
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後三国時代
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次代:
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