高麗

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高麗
 고려국 (高麗國)
고려왕조 (高麗王朝)
後高句麗
後百済
新羅
918年 - 1392年 李氏朝鮮
高麗の位置
高麗(1374年)
公用語 高麗語
首都 開城
高麗王
918年 - 943年 王建(太祖)
変遷
建国 918年
滅亡 1392年
高麗
各種表記
ハングル 고려/고려왕조
漢字 高麗/高麗王朝
発音 コリョ/コリョワンチョ
日本語読み: こうらい/こうらいおうちょう
2000年式
MR式
英語:
Goryeo/Goryeo wangjo
Koryŏ/Koryŏ wangcho
Goryeo/Goryeo Dynasty
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高麗(こうらい)は、918年王建(太祖)が建て、1392年まで続いた朝鮮半島の国。都は開城

元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。

西洋語において朝鮮を表すKoreaCoreeなどの語源となった。

歴史[編集]

建国[編集]

新羅は朝鮮半島を統一したが、しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年、半島西南部で甄萱(けんけん、朝鮮語: 견훤(キョンフォン))が後百済を建国し、901年には弓裔(きゅうえい、朝鮮語: 궁예(クンイェ))が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。

高麗史』によると、王建の先祖は北方から白頭山を越えて移住して来た高句麗の大族の末裔とされているが、2007年に中国の研究者から朝鮮に移住した漢人の末裔という新説が出されている[1]。王建は将軍として後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われたこともある。弓裔は、宮殿の造営で国力を消耗するなど失政を重ね、民衆の不満は高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて神秘的な超能力で人の心を見抜くことができると言い、反対派を粛清した。王建はついに反乱を起こし、弓裔を殺して自ら王位についた。これが高麗の建国である。その後、朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が一進一退の状況が続き、935年、後百済の王の甄萱が四男金剛に王位を継がせようしたことに長男の神剣が不満を持ち、ついに反乱を起こして父を廃位し、みずから後百済の王となった。神劍は甄萱を寺院に監禁したが、甄萱は935年6月、高麗に亡命した。王建は甄萱を父と呼んで優遇した。同年11月には、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順し、新羅は高麗に吸収合併されることになった。政変の混乱で後百済は急速に弱体化し、936年には高麗の攻撃でついに滅亡した。こうして朝鮮半島は高麗によって統一された。

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北進政策と契丹侵入[編集]

926年北方民族契丹916年成立)が渤海を滅ぼし高麗と北方で国境を接した。一方、中国大陸の戦乱(五代十国)が960年建国)によって統一されると、高麗は宋の朝貢国となり、歴代の王は宋から派遣される冊封使の承認に依って冊封された後、国王に就く様になった。

宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに993年から大規模な侵入を行った。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、994年から連年朝貢した。1009年に高麗で王が弑逆される政変が起きると、1010年契丹は不義を正す為に介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫った。高麗朝廷は将軍・姜邯賛の策により開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、契丹軍が1011年1月に開城を攻略すると和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退した。高麗が再び盟約に違反した為、契丹は1013年から1015年まで継続して侵入し、高麗軍は度々破れ大きな損失を被っている。契丹はその年のうちに再再度侵攻した。1016年高麗が再び宋の藩属国に戻って契丹に背くと、1018年蕭排押率いる10万の契丹軍が高麗へ攻め込むが、姜邯賛率いる高麗軍20万は契丹軍の分隊を鴨緑江支流河岸にある亀城で迎え撃ち撃退した。侵攻は1019年まで続き、高麗は最終的にこれを撃退した。契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって女真族の土地である江東6州の権利を下賜されていながら度々背いた故である。遼の聖宗は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの藩属国となり毎年朝貢を怠らない旨の謝罪を受け容れ、1020年降伏による和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。

その後、北東地域では女真との戦いが続いた。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年から1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。1037年に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。

この後の女真の台頭は著しく、1104年の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けている。女真は1115年を建て、1125年に高麗の宗主国である遼を滅ぼした。その為高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮半島史書『三国史記』が完成した。

武臣政権とモンゴルの侵攻[編集]

12世紀中頃から、王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)である鄭仲夫がクーデターを起こして国王を廃位し、武臣政権時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、1179年に暗殺される。その後、慶大升・李義が政権を握るが、崔忠献により暗殺され、その後、武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。

崔氏武臣政権下、北方ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国(蒙古、後の)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。高宗5年(1218年)にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討ちさせており高麗側も兵力を出してこの討伐行を助勢した。これにより高麗はモンゴル側との接触して朝貢国となっていたが、1224年に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で殺害される事件が起こり、国交は断絶した。1231年からモンゴル側から先年の使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書が来牒し[2]、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族が元皇帝(カアン)の侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、元の行中書省征東等処行中書省に組み込まれる。

一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである。また、元宗のクビライ政権に降伏して接近する政策に反発した林衍らがクーデターを起こした。これを討伐するためモンゴル軍が派遣され、林衍派は三別抄らを動員して抵抗したものの敗退し、南方の珍島や耽羅(済州島)に落ち延びた。耽羅島の三別抄政権は鎌倉幕府に救援を求めて共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前に日本派遣軍の司令官となる忻都、洪茶丘などが率いる派遣軍に鎮圧されている。

元の統治・元寇への参加・高麗王のモンゴル貴族化[編集]

モンゴルと高麗の戦いを描いた油絵(想像図)

モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に反抗する人々が三別抄の反乱を起こした。反乱者は属国だった済州島の政権を滅ぼして徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライ日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため旧高麗領の多くが、前線基地として兵站の補給と軍艦の建造を命令され、供出と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。一方、『高麗史』には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。

忠烈王(在位1274年 - 1308年)はクビライに公主の降嫁を懇願して許され、クビライの娘忽都魯掲里迷失中国語版韓国語版(クトゥルク=ケルミシュ)[3]と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官、第三次では無官)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた。

1297年11月、元は忠烈王を逸寿王に封じ世子の謜を高麗王に就けたが、忠宣王は元の官制を高麗風の官制へ改めたため征東行省の役人から不満を買って、1299年には廃位され平章政事の職も解かれた。忠烈王が高麗王に復位し、平章政事には闊里吉思英語版が就き高麗行省の政務を執った。また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせた。その中で忠烈王とモンゴル皇帝の公主との間に生まれた忠宣王(1308年 - 1318年)以降の高麗世子は禿魯花(トゥルカク、turqaq)として元の宮廷で育てられ、モンゴル女性の婿となって、高麗王就任以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、元の宮廷で生活しほとんどモンゴル貴族となり、父の死後、高麗王に任命されるのが慣例となる。忠烈王以降の高麗王の母は、みなモンゴル人となった。

また、胡服辮髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布は元朝の権限とされた。以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、元風の名も持っていた[4]このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した。

忠烈王以降の何人かの高麗王は、元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗国王」の地位を得た[5]。また、多くの高麗王族がモンゴル皇帝の侍衛組織であるケシクに出されることが恒例となり、ケシクとして皇帝に側近くに仕えた世子が次期高麗王となる慣例が出来た。皇帝に近侍することで宮廷儀礼に慣れ親しむ契機を得、モンゴル宮廷内での高麗王家の地位は向上した。同時にテムル以降の元朝宮廷の内紛の影響を直接受けるようになり、忠宣王のようにケシクとしてのモンゴル宮廷出仕を繰り返し、英宗シデバラの治世にチベットへ配流される例もあった[6]

滅亡への道[編集]

14世紀に大陸で紅巾の乱が起こり元が衰え始める時期には征東行省による支配も形骸化、恭愍王1351年 - 1374年)は1356年に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。また、1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。1356年から1362年までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、崔瑩鄭世雲李芳實李成桂らが率いる高麗軍は10万人にも及ぶ紅巾軍を撃退し開京の奪回に成功する。1359年には、李承慶・李芳實が西京(平壌)で、1361年には李成桂・鄭世雲が黄州で、紅巾軍に大勝した。倭寇についても、崔瑩・李成桂・羅世鄭地朴葳らの有力武将は、次第に倭寇に打撃を与えて行き、1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣・羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で大勝利を収め、1389年には朴葳が対馬攻撃を行った。1368年が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂女真族ともいわれる[7])は、1388年クーデター威化島回軍)を起こして政権を掌握し、1389年恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、李氏朝鮮王朝を興す。ここに高麗は474年で滅びた。

社会・経済・国際関係[編集]

高麗青磁(香炉)

帰化人[編集]

高麗時代前時期にかけて異民族が帰化し、23万8000人に達するという説もある[8]。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて多くは官僚となった。帰化した渤海人契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身帰化人である[8]。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい[8]

女性の社会的地位[編集]

高麗の社会は朝鮮の歴史の中では、新羅に続き女性の社会的地位が高い時代だった。政治や生活全般には男性が優先されたが、財産の分配は、息子と嫁いだ娘とで同等に分配された。また夫に殴られた妻が官憲に告発し、逮捕された夫がむち打ちの刑を受けた事もあった。忠烈王の時、朴楡は王に貴族の蓄妾を法律で制度化することを建議した。その後、朴楡は街頭で女性たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われたという。離婚再婚が自由だったとされるが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問した後に書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。息子がいなくても、祭祀は娘と婿が行なった。婿取婚の比率も高く、女性は影響力が強かった。

しかし、女性の地位が高いとはいっても、国王や官僚、軍人はほぼ全員男性であり、やはり公的な領域では歴然たる男性優位の社会であった。

国際貿易[編集]

高麗では貿易が栄え、特に開京から近い礼成江河口にある港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。詳細は下記を参照。

[編集]

高麗は宋に入朝し、親宋を標榜した。宋は高麗の最大の貿易国だった。高麗は宋に金・銅器・木材・棉織物・毛織物・花茣蓙・諸種の薬材・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・陶磁器・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。1976年には、韓国の全羅南道新安の沖で高麗と宋の難破船が発見され、宋と高麗の遺物18000点が引き揚げられた。

アラビア[編集]

高麗の首都の開京(現在の北朝鮮の開城市)の礼成江河口の国際貿易港だった碧瀾渡でアラビア商人が賑やかだった。『高麗史』の記録には1024年顕宗15年)と1025年顕宗16年)、1040年靖宗6年)に大食国(アッバース朝)の商人らが高麗に入朝し、産物を献上したと記されている。高麗はアラビアから水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚を輸入した。この時代に高麗の名称がヨーロッパに知られ、アラビアの商人が高麗(コリョ)を「コリア」と呼び始め、今の朝鮮を指す英語表記「Korea」になった。

契丹[編集]

高麗は建国初期に太祖が契丹との貿易を禁止した。を建国した契丹の国土が宋と高麗の間にかけて存在したので、高麗は海上貿易を通じて宋と交易した。3回目の遼の高麗侵攻が失敗に終わってから、高麗と遼は国交を回復し、高麗は遼に食料・銅・鉄・朝鮮人参を輸出した。高麗は遼から銀銭・羊・毛皮を輸入した。

女真[編集]

女真は宋と高麗両国に朝貢してきたが、12世紀に入ると満州で成長し、を建国した。高麗は女真から毛皮や馬を輸入し、書籍や農機具を輸出した。

思想・文化[編集]

仏教[編集]

高麗初期から仏教は王族の支援を受けながら発展した。太祖開京に多くの寺院を建築し、『訓要十條』で仏教を崇尚して燃燈会八関会など仏教の行事を開催することで仏教に対する国家の指針を提示した。貴族も仏教に関心を見せたが、これらは政治的理念にした儒教と相反するものではなかった。民衆も起伏信仰として仏教を信奉した。光宗の治世からは、王が僧科を実施して、試験に合格した者には僧侶の地位を与え、国師を置き、王の顧問役を務めさせた。また、寺院には土地を支給して僧侶に各種の恩恵を与えた。

高麗時代には仏教思想の体系が整備され、仏教と係わる書籍を集めて体系化した『大蔵経』が編纂された。『大蔵経』の内容は仏教の経典の集大成であり、釈迦の説教を記録した「経蔵」、すべての戒律を記録した「律蔵」、仏者の論説を記録した「論蔵」の3点で構成されている。高麗は外勢の侵入を受ける度に仏陀の力を借りて勝利しようとし『大蔵経』を刊行した。の侵攻開始時には『八萬大蔵経』を刊行している。38年にわたって完成した『八萬大蔵経』はその膨大な経典が収録されているにもかかわらず、校訂の精緻さと字体の美しさがそのすみずみにまで及んでおり、その点がひとつの特長として評価され、世界遺産に登録されている。『八萬大蔵経』は現在、海印寺にて保管されている。

道教[編集]

高麗においては道教も盛んだった。不老長生と現世での豊かさを追い求めることを特徴にする道教を信仰する人々は、幾多の神々に仕え、災いから脱して救援を望み、国の平安と王室の繁栄を祈った。このため道教的行事がよく開催され、宮廷では天に祭祀を執り行なう醮祭が開催された。新羅後期に流行った風水地理説は未来を予言する図讖思想が追加され、高麗時代に大きく流行した。高麗時代には開京と西京(平壌)が明堂であるという説が確立し、西京遷都と北進政策推進の理論的根拠となった。しかしこのような明堂説は開京勢力と西京勢力の政治的闘いに利用された(仏教層妙清の「西京遷都運動」、および妙清の乱)。文宗の治世以後にはソウルが明堂であるという噂が流布し、こちらを南京と改称して王宮を建て、王がしばらく留まった。

学校[編集]

高麗は役人を養成するために、全国に多くの学校を建てて民衆への教育を奨励した。開京には今の国立大学校にあたる国子監があった。国子監には国子学太学四門学のような儒学部と律学書学算学などの技術学部があった。儒学部には名望高い高位級貴族の子弟が入学し、技術学部には下級貴族の子弟と庶民の子弟が入学した。そして地方には地方貴族と庶民の教育を担当する郷校があった。

文学[編集]

高麗は光宗による科挙の実施下で、漢文学が大きく発展した。成宗の治世以後は文治主義が盛んになったことにより、漢文学は貴族の必須教養となり、朴寅亮鄭知常など優秀な詩人が登場した。民衆社会では作曲家と作詞者の名前が不明である俗謡という歌謡が流行った。

高麗の文学は初期の詩と中期・後期の小説で区分できる。高麗仁宗時代の詩人鄭知常の漢詩『送人』は「雨歇長堤草色多(雨が上がり長い堤は草色が濃い)」で始まる七言絶句で、現在まで愛されている。その他に文学の形式の高麗歌謡が流行り、恋人との別れを悲しむ『西京別曲』、『カシリ(行ってしまいますよね)』がある。また俗世を脱して自分の寂しさや悲哀を歌った『青山別曲』は『西京別曲』・『カシリ』と共に現存する高麗歌謡として高く評価されている。中期と後期には執権者や社会の矛盾を風刺した小説が書かれた。特に物事を擬人化して創作した仮伝体小説が流行った。酒を擬人化した林椿の『麹醇伝』や李奎報の『麹先生伝』が特に有名である。

工芸・絵画[編集]

贅沢に生きた高麗の貴族は自らの欲望を満たすために多様な芸術作品を作って鑑賞した。その中でも一番脚光を浴びた分野は工芸だった。工芸は貴族の生活道具や、仏教儀式に使われる道具などを中心に発展した。高麗の磁器は新羅と渤海の伝統と技術を土台にし、宋の磁器技術を受け入れ、貴族の全盛期であった11世紀に独自の境地を成した。特に翡翠色が出る青磁が発展した。

絵画の場合、王族と貴族の依頼によって仏画が描かれた。特に高麗の画家は極楽往生を祈る阿彌陀仏図と地蔵菩薩図、観世音菩薩図を描いた。現存する高麗仏画160点のうち130点が日本にある。また、仏教の経典を筆写する時、その経典の内容を絵で説明した写経画も流行った。高麗後期には四君子を主題にした文人画が流行った。

建築[編集]

高麗時代には主に王宮と寺刹が建てられたが、現在まで現存している建築物はほとんどない。 この時代の木造建築は、朝鮮太祖よる崇儒廃仏政策を逃れた仏教寺院などが残されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 生い立ちについては「太祖」の記事に詳しい
  2. ^ 『元史』、『高麗史』巻23・世家第23 高宗18年12月壬子(1231年12月25日)および甲戌(1232年1月16日)条にこの時にモンゴルの使者がもたらした牒状の写しが載せられている。
  3. ^ 國大長公主忽都魯掲里迷失(『元史』巻109・諸公主表では「忽都魯堅迷失」)。皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。後の荘穆王后。舊妃は始安公娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には忠烈王は舊妃に近寄らなくなったという(高麗史)。忠烈王の項目も参照。
  4. ^ 多くのWEB情報では、高麗が元の属国なので改名したとあるが、育ちが元の宮廷でなので改名ではなく2つの名前を持っているのが正しい。
  5. ^ 『元史』巻108・表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗国王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)。
  6. ^ 森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史学雑誌』110-1、2001年2月。69-70頁。
  7. ^
  8. ^ a b c 初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない『京郷新聞』2007年8月21日

関連項目[編集]