奄美大島
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| 奄美大島 | |
|---|---|
マネン崎 |
|
| 座標 | 北緯28度22分 東経129度29分 |
| 面積 | 712.39km² |
| 最高標高 | 694m |
| 最高峰 | 湯湾岳 |
| 最大都市 | 奄美市 |
| 所在海域 | 太平洋・東シナ海 |
| 所属諸島 | 奄美諸島 |
| 所属国・地域 | |
奄美大島(あまみおおしま)とは、九州南方海上にある奄美諸島の主要島。単に大島ともいう。面積712.39km2であり、本州など4島を除くと佐渡島に次ぎ面積5位の島[1]。(大きな方から順番に、択捉島-国後島-沖縄本島-佐渡島-奄美大島) 年間の日照時間が日本一短い。 大島海峡一帯には、リアス式海岸が湯湾岳付近の山地は、1974年(昭和49年)国定公園に指定されている。 1901年2月12日に降雪が、記録されている。しかし、降雪は殆ど見られない。湯湾岳(694m)や油井岳(484m)の山頂付近に、ごく稀に雪が積もっているのを確認されたことが、あるくらいである。 奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波があり、最近サーファー達に人気がある。
目次 |
[編集] 行政
鹿児島県に属し、以下の市町村からなる。
奄美市以外の町村は全て大島郡に属する。
[編集] 都市圏
金本良嗣・徳岡一幸によって提案された都市圏。細かい定義等は都市雇用圏に則する。一般的な都市圏の定義については都市圏を参照のこと。
| 自治体 ('80) |
1980年 | 1990年 | 1995年 | 2000年 | 自治体 (現在) |
|---|---|---|---|---|---|
| 住用村 | - | - | - | 名瀬都市圏 5万9676人 |
奄美市 |
| 笠利町 | - | - | - | ||
| 名瀬市 | 名瀬都市圏 4万9021人 |
名瀬都市圏 5万4524人 |
名瀬都市圏 5万2324人 |
||
| 龍郷町 | - | 龍郷町 | |||
| 大和村 | - | 大和村 | |||
| 宇検村 | - | - | - | - | 宇検村 |
| 瀬戸内町 | - | - | - | - | 瀬戸内町 |
- ※10%通勤圏に入っていない自治体は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。
[編集] 産業
- 奄美諸島(大島税務署の管轄区域)でしか認められていない黒糖焼酎の製造が行われている。
- 伝統工芸の大島紬は和服用の生地として極めて評価が高いが、和服を着る習慣の衰退のほか、島内業者による韓国での生産指導・奨励もあって、韓国産や中国産の輸入紬に押され気味であり、一時期は業界で300億円以上もあった売り上げが、いまでは1/10程度まで落ち込んでいる。
- 観光業
- 大島に本店を置く金融機関として、奄美大島信用金庫、奄美信用組合の二つがある。
[編集] 交通
[編集] 空路
- 奄美空港 - 奄美市
- 日本エアコミューター(JAC)
※かつては与論空港へも就航していたが現在は休止しており、沖永良部空港経由での利用で直行と同額の割引運賃が設定されている。
- 琉球エアーコミューター(RAC)
- - 那覇空港
[編集] 航路
- 名瀬港(名瀬新港・旧港) - 奄美市
- マリックスライン・マルエーフェリー(2社で毎日運航)
- マルエーフェリー
- 奄美海運(マルエーフェリー系列)
- 鹿児島港(本港) - 喜界島(湾港) - 奄美大島(名瀬新港) - 奄美大島(古仁屋港) - 徳之島(平土野港) - 沖永良部島(知名港)
- 十島村 - 「フェリーとしま」
- 古仁屋港 - 瀬戸内町
- 奄美海運(マルエーフェリー系列)
- 鹿児島港(本港) - 喜界島(湾港) - 奄美大島(名瀬新港) - 奄美大島(古仁屋港) - 徳之島(平土野港) - 沖永良部島(知名港)
- 瀬戸内町 - 「フェリーかけろま」
- 古仁屋港 - 加計呂麻島(瀬相・生間)
- 瀬戸内町 - 「せとなみ」
- 古仁屋港 - 請島(請阿室・池地) - 与路島
[編集] バス路線
[編集] 一般路線バス
[編集] 道路
[編集] 一般国道
[編集] 主要地方道
[編集] 植物相
びわ、タンカン、ポンカン、メロン、ガジュマル、アダン、ビロウ、ヘゴ、ソテツなどの樹木やバナナ、パパイヤ、マンゴー、パイナップルなどが、栽培されている。
奄美市住用町地区に、マングローブ(約71km²)がある。同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原原生林がある。
[編集] 文化
日本の歴史に登場するのは7世紀で、古代では遣隋使や遣唐使以前から交易の中継地点となった。近世ではまた西郷隆盛など薩摩藩の流刑場所でもあった。日本本土を中心とした大和文化圏に対して,沖縄県と同様に琉球文化圏も構成する部分がある。奄美方言は琉球方言の一部でもあり,基本的語彙や表現など共通点が多い。奄美独自の文化を基層に,時代時代により大和や中国大陸,東南アジア、ポルトガル、スペイン、琉球の影響を受けてきたと考えられる。島を代表する生産品である黒砂糖や大島紬は中国大陸から,焼酎(黒糖焼酎)やチヂン(奄美大島独自の太鼓),高倉は東南アジアから伝えられたともいわれる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家たちにより,重要無形民俗文化財の諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられたとする伝承が残る。1609年の薩摩藩による琉球王国への侵攻以降は、奄美諸島は琉球王国と分離され直接支配(直轄地)を受け、過酷な蔵入地政策により苦渋の生活を強いられた時期もあった。薩摩藩は奄美諸島を蔵入地としサトウキビを強制的に栽培させ、その生産した砂糖で莫大な利益を享受し、また当初からの目的であった琉球王国を窓口とした中国との貿易による利益と相まって、明治維新まで藩財政を支え続けた。
- 唄者出身の歌手である元ちとせ、中孝介、里アンナらの活躍で注目される奄美民謡は「シマ唄」と呼ばれる。なお,シマ唄の歌い手は「うたしゃ(唄者は当て字)」と呼ばれる。注意すべきなのは、奄美民謡でいう「シマ」とは文字通りの「島」以外に個々の集落や故郷など,いろいろな意味で使用される。すなわち,「島唄」とは,奄美諸島の民謡全体を指すだけでなく,個々の集落の民謡や故郷の民謡などを強調する場合にも使われ,相手との会話や関係の中で,「島」なのか「集落」なのか「故郷」なのか意味を判断する必要がある。
- 「島唄(シマ唄)」という語は本来、奄美民謡を指すものだが、この奄美の「島唄(シマ唄)」という表現に着目した沖縄のラジオのパーソナリティーが沖縄のラジオで沖縄民謡を「島唄」と呼称して,沖縄民謡も「島唄」と呼ばれるようになったされる。「THE BOOM(日本のロックバンド)により歌われヒットした「島唄」が沖縄民謡のイメージを前面に押し出して作られた曲である為、この語がむしろ沖縄民謡を指す言葉として全国的に知られるようになった。
- 沖縄民謡の多く(宮古島や八重山諸島には、律音階(ミシ抜き)も存在する)が琉球音階(ドミファソシ)を用いているのに対し、奄美民謡は、律音階(ミシ抜き)独自の音階(ドレファソラ)を用いる。奄美大島においてシマ唄は、大きく見て北部の民謡(カサン)と南部の民謡(ヒギャ)に分けられるが、歌い方は若干異なっている。唱法は男女ともファルセットが基本であり、これは元ちとせら唄者出身のポップ歌手の特徴ともなっている。なお、奄美諸島外では通信販売を除いて殆ど流通していないが、奄美市名瀬のレコード店が1962年頃から独自にシマ唄のレコーディングを行い、カセットやCDとして販売を続けている。
- 奄美諸島のシマ唄も沖縄民謡と同じように三線を使用するが、両者で大きく異なるのはバチである。沖縄側の三線奏者は指先に嵌めて使うツメを用いるが、奄美側の奏者は細くしなやかな竹串状のバチを用いる。沖縄側のツメではダウンピッキングが中心となるが、奄美側のバチはしなやかなのでオルタネイトピッキングが容易であり、奄美側の三味線奏者は特にアップピッキングを利用して独特のリズムを生み出す。また弦も沖縄側より細い物を使いキーも高い。基本的には座った状態で三線を構えるのが奄美流であるが、戦前には「道弾き三味線」と呼ばれる、立って三線を構える奏法も存在した。その後このような奏法は廃れていたが、1977年に坪山豊が琉球放送の番組収録の為に沖縄島を訪れた際、知名定男にストラップを使用して立って弾く奏法を教えられ、それを奄美大島に持ち帰った坪山の影響でストラップを用いた奏法が再び広まったとされる。
- 島内には、各集落ごとに複数の神社が見られ、仏教寺院は極少ない。ただし、神社のほとんどは大和世(薩摩藩政時代)に設立された比較的新しい。ほかに、奄美大島北部を中心にカトリック教会が多く見られる。明治以降に設立されたもので、長崎県以上にカトリック信仰者の割合が高いと言われる。現在の多くの墓形式は本土と同じであり、沖縄県の亀甲墓は見られない。但し「城間トフル墓群」に代表されるトフルやムヤと呼ばれる亀甲墓の前時代形式の墓所が存在する(南西諸島の墓制の北限と言われる)。これは、隆起サンゴ礁が形成する崖に横穴を掘り、風葬したり厨子甕などに遺骨を入れて保管するものである。喜界島に多く残存するが、各島で確認される。「城間トフル墓群」は、隆起した砂丘に十数基の横穴墓があり、400年以上前に構築されて以来そのすべてがほぼ完全な形で残り、内九基が現役の墓として使われている。また、ノロと呼ばれる巫女が存続しており、ノロを中心とした民俗信仰が残存している。
- 伝統的船舶
- 奄美の伝統的な船舶には、板付き舟(イタツケ)と呼ばれる構造船がある。これはサトウキビの運搬などに適した安定性重視の舟であり、極めて安定性に乏しいがその分、剽悍な運動性と速度を特徴とする沖縄県周辺のサバニとは異なっている。現在でも板付き舟は競争競技や学校教育に利用されている。また、イタツケより大型の八尋船と呼ばれる帆漕船も存在していた。明治維新後に糸満の漁民がサバニに乗って奄美諸島周辺での操業を開始すると、奄美諸島の漁民もこれへの対抗上、より漁業に向いた船舶を必要とした為、サバニと板付き舟の折衷形であるアイノコが考案された。ただ、現在ではアイノコを建造出来るのは奄美市名瀬の船大工2名のみとなっている。
- 人物
- 砂守勝巳
- 沖縄本島に生まれ、奄美大島で少年時代を送り、15歳で大阪へ。プロボクサーを経て写真家となる。
- 1984年7月:大阪『釜ヶ崎』のドキュメント・フォト集『大阪流転 』 で月刊プレイボーイ誌(集英社)のドキュメント・ファイル大賞 奨励賞を受賞。
- 1996年、写真集『漂う島 とまる水』第15回 土門拳賞・第46回日本写真協会新人賞受賞。
- 5月~6月個展『漂う島 とまる水:第15回土門拳賞受賞作品展』(銀座ニコンサロン:大阪ニコンサロン)
- 8月~9月奄美大島、 名瀬市(現奄美市 )50周年記念個展:『漂う島 とまる水』(奄美文化センター2Fギャラリー)
- 2006年1月 「沖縄ストーリーズ(沖縄紀聞改題)」(株式会社ソニーマガジンズ)刊行
- 渡久地政信
- 沖縄、奄美のビート感を本土歌謡曲へ取り入れ、その音色を全国に轟かせた重要な作曲家。
- 1916年(大正5年)10月26日、沖縄県恩納村に生まれ、少年期を奄美大島(龍郷町)で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943年(昭和18年)に歌手デビューしたが、名声を得られず1951年(昭和26年)に作曲家へ転向。デビュー作は「夢のユイササ」。「上海帰りのリル」「お富さん」「島のブルース」「夜霧に消えたチャコ」など数多くのヒット曲を生んだ。1959年(昭和34年)、第1回日本レコード大賞作曲編曲賞を受賞。戦後米軍に統治されていた沖縄県や奄美諸島の人々に夢を与えた。1988年(昭和63年)、第30回日本レコード大賞功労賞を受賞。1998年(平成10年)9月13日、肺炎のため死去(享年81)。現在龍郷町に記念碑がある。
- 親族には我那覇美奈(がなは みな - 歌手)、緑義人(みどり よしひと - サーフィン)など。
[編集] 観光
前述の田中一村美術館の他、中部の山岳地帯にある金作原原生林のトレッキング、南部の奄美市住用町のマングローブ林、同じく南部の瀬戸内町の珊瑚礁などが有名である。瀬戸内町内の大島海峡ではシーカヤックも盛んであり、毎年夏には奄美シーカヤックマラソンin加計呂麻が開催されている。
[編集] 天然記念物
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635

