奄美群島の名字

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奄美群島の名字(あまみぐんとうのみょうじ)では、奄美群島名字について記す。本来、奄美群島には名字が存在しなかったと言われているが、琉球王国時代以前にも島民や本土住民の移住や往来が確認されているため、そのことから名字の使用は否定は出来ない(奄美群島の歴史参照)。また琉球王国時代には、その制度上の名乗りを使用していた(沖縄県の名字参照)。しかし薩摩藩時代には、群島民を全て農民とする政策により禁止された(士農工商参照)。現在残る名字は、薩摩藩時代以降に成立、または流入したものである。

歴史[編集]

奄美はヤマト王権(大和朝廷)に方物を献上した独自の国であったが、1266年に琉球王に朝貢した後は、文化的な影響を受け、1429年尚巴志沖縄全島を統一して勢力を強めた後は、琉球王国に服従する関係となった。

薩摩藩は1609年に琉球王国を服属させ、1611年には奄美群島を蔵入地(直轄領)とし政治機構などの整備を始めた。群島民を農民とする事で、琉球時代の士族の名乗りを禁止した。しかし統治が安定してくると、奄美群島における藩政に多大な貢献をした者を外城衆とし名字を与えた。当初は二字姓で田畑、澄江(一代限りの為その後廃止、子孫が明治期に復姓)、砂守の3家が成立した。後に、外城衆の名称が郷士と改められている。

4番目の郷士格の審議が行われた際、当時の藩主島津重豪は「島人には郷士格は認めるが名字の必要ない」と決裁したが、家老らが「島人には名字が権威として取られている」と再考を上申した。重豪はそれを認めたが、薩摩本領との区別をするため一文字とするように命じ、その後、以前よりの郷士格3家に対しても一文字とするように命じた。これらは重豪がと言うより薩摩藩の当時の東アジア観が基にあり、また支配下に入れた琉球が中国の冊封体制下でもあり士族以上が中国名(唐名・からなー)をも使用していたことと、対外的には奄美群島が琉球領であるとの建前であったため、それに合わせる意味もあった。

藩が名字を許可する際には、最大で十種類程度の中から選ばせる方法も多かったが、郷士側は主に家に関係する地名や祖先の名前など家系に縁のある一文字を選び名乗った。前述の田畑は居住の龍郷から龍を、砂守も同じく伊仙から伊を名乗る様になった。薩摩藩士が任期後も止まることや、罪を得て遠島され永住することもあり子孫達がその名字を継承したが、公的には二文字や三文字であろうともその中の一文字を使って山元を元、伊集院を伊などとしていた。また統や朝のように先祖が琉球の役人であったため、名乗頭をそのまま名字とした例もある。

これらの一文字の名字は、主に薩摩藩に対する公的な場合や対外的に使用され、本来の二文字や三文字の家は私的には元の名字を名乗ることも多かったようである。幕末になるにつれ薩摩藩の基準も曖昧になっていき、藩の公文書や記録にも本来の二文字や三文字の名字が現れてくる。

明治期、平民苗字必称義務令により全ての国民が名字を名乗る様になると、奄美群島では多くの者が馴染みのある一文字を、また本来の二文字や三文字の家はそれを復姓した。一方で明治期以降に二字姓・三字姓に改姓した例も少なくない。

なお苗字と姓はもともと別のものであるが、今日では混同されている。特に奄美群島では「一字姓」というように「姓」が苗字の意味で使われることが多い。

参考文献[編集]

関連項目[編集]