能古島

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能古島
Nokono-shima island from Hakata bay.JPG
北東側からの島全景。芦辺港博多港行き九州郵船フェリーの船上から撮影。
座標 北緯33度37分15秒
東経130度18分12秒
面積 3.95(2010年10月) km²
海岸線長 12 km
最高標高 195.0(三角点の標高) m
所在海域 博多湾
所属国・地域 日本の旗 日本福岡県福岡市
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能古島の位置(紫色が西区)

能古島(のこのしま)は、福岡県福岡市西区に所属するである。博多湾の中央に浮かんでいる。

大都市の目の前にありながら僅か10分の船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花コスモス水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する。

地理[編集]

海ノ中道上空からの能古島(左)。他に志賀島(右)と玄界島(右奥)も見える。
上空からの全景

博多湾の中央に位置し、南北3.5キロメートル、東西2キロメートル、周囲12キロメートル、面積3.95平方キロメートル[1]。最高標高195.0メートル(三角点の標高)。人口は約720人。世帯数は、約200世帯。

島の渡船場からアウトレットモールマリノアシティ福岡まで直線距離で2キロメートルほど。福岡タワー福岡Yahoo! JAPANドームのあるシーサイドももち地区も約5キロメートル。近代的ビルや高層マンションが対岸に立ち並ぶも自然が満喫できるというロケーションである。

島の西海岸には3億年前の変斑れい岩結晶片岩が波に洗われ、その横には1億年前の花崗岩がある。4000万年前新生代古第三紀礫岩・紫赤色頁岩からなる残島層(のこのしまそう)も島内で露頭し、能古島は隆起と沈降を繰り返してきたことが窺える。港の防波堤の横には500万年前に噴出したマグマ火道が残り、含鉄玄武岩は島の各地で見られる。

なお、能古島は離島振興法の指定地域ではない。能古島は、1970年に市街化調整区域の指定を受け、今日に至っている。

能古島には、高校はなく小学校と中学校が同じ敷地内に校舎が隣接して建っている。その学校からは姪浜が一望できる。福岡市立能古小学校福岡市立能古中学校は、福岡市教育委員会から特認校の指定を受けており、福岡市全域から生徒が通学している。自然豊かな環境と1クラス、15人から20人の少人数授業が行われている。

歴史[編集]

古くは「残」「能許」「能挙」「乃古」とも記載された。現在の表記が一般化したのは戦後になってからである。

上古[編集]

神子柴系石器群の片刃磨製石斧が表採されている[2]ほか、島内各地から黒曜石製の打製石器が表採されている[3]。島の南東部の高台にある北浦遺跡や島南部のに西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が表採されたほか、島北端の也良でも磨製石斧が表採される。島南東部には箱式石棺墓が営まれるが、出土遺物が無く時期は不明である。島の南側には、7世紀前後の古墳である早田古墳群があり、2基の横穴式石室が現存する。島の中央部にも鬼塚古墳という古墳があったとされるが、1941年の開墾で消滅したとされる[3]。筑前国続風土記には、神宮皇后が帰朝のとき、この島に住吉の神霊を残し留めて異国の降伏を祈ったので残の島という、とある[4]

古代[編集]

能古島が初めて登場する文献は『平安遺文』である。731年(天平3年)頃の住吉神社の社領を記述した文中に「能護嶋」の名で登場する。

古代の群制では早良郡に組み込まれた。奈良時代には島北端の也良岬(やらみさき)に防人が設置される。『万葉集』には

沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ
沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻みて遭ぎ来と 聞え来ぬかも

と詠まれている。アイランドパーク内に狼煙台が復元されている。また遣新羅使が寄港地であった対岸糸島半島の唐泊で出航を待つ心情を綴った

韓亭 能許の浦 波立ちぬ日はあれども 家に恋ひぬ日はなし
風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の亭に 数多夜ぞ寝る

という歌も『万葉集』に残されている。

平安時代中期に編纂された『延喜式』兵部式には、島にがあった旨の記述が残されている。島の中心に残る古土手という土塁遺構は、馬牧の境界だったと考えられる。

中世[編集]

島南東の城ノ浦には北浦城(または城崎城)の遺構が残っている。『筑前国続風土記』や『早良郡志』では築城者として山上憶良と、藤原純友家臣の伊賀寿太郎の2名を挙げている。

能古島は日本の歴史上、外敵に蹂躙されたことのある地の一つである。1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇では4月8日から4月11日の3日間に早良群全体の被害量よりも多くの牛馬を略奪されたことが『小右記』に記録されている。1281年(弘安4年)の弘安の役では、島に上陸されたことが『八幡愚童訓』に記録されている。明治末期に島の南部で人骨が一箇所にまとまって出土したことがあり、現在は蒙古塚が立てられて元寇の犠牲者の供養がされている。

戦国時代には大友氏家臣高橋鑑種の所領となる。石高は25

近世[編集]

近世初頭には、残島浦として筑前五ヶ浦廻船の根拠地の一つとして繁栄した[5]。島南部の白髭神社も、海神である住吉大神を祀っていることから、廻船乗組員の寄進を受けており、1689年(元禄2年)建立の鳥居には寄進した廻船業者の名が残る。

江戸時代には福岡藩鹿狩りの場とされていた。しかし、鹿が農産物を荒らすため、対策として1836年(天保7年)に島の南北を海の中まで分断するような石垣を完成させて島南側の耕地への鹿の侵入を防いだ。これは鹿垣(しかがき)と呼ばれ、幅3mの溝を掘り、溝の南側に高さ2mに土を盛って土塁とし、土塁の北面に30~50cm大の石を積んだ構造であった。幕末1853年(嘉永6年)にはこの狩場でスターリング英国東洋艦隊提督が鹿狩りに興じた。ただし島の鹿は1945年(昭和20年)ごろに全滅した。

島南部には1基の登窯が残る。これは、能古焼という伊万里焼系の染付磁器と高取焼系陶器を焼いた窯であり、『筑前国続風土記』によると、1764年(明和元年)から1781年(天明元年)までの約20年間のみ操業したという。現在、唯一の製品と思われる花瓶が隣接する能古博物館に展示されており、登窯は福岡市指定史跡となっている。1861年(文久元年)には福岡藩によって異国船対策の台場が設置された[6]

近現代[編集]

江戸時代には廻船業で繁栄した能古島も、明治維新以降は農業と沿岸漁業で生計を立てる漁港棚田の島へと変貌した。

1941年(昭和16年)10月15日には早良郡能古村が福岡市に編入され今に至る。人口は1950年代の約1,500人を頂点に徐々に減少しつつある。

作家の檀一雄が晩年を過ごした島でもあり、壇が詠んだ最期の歌である《モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢わん》の文学碑がある。毎年5月の第3日曜日には彼を偲んで「花逢忌」が営まれる。

観光[編集]

のこのしまアイランドパークからの眺め。志賀島海の中道が望める
能古島キャンプ村海水浴場
  • のこのしまアイランドパーク - 春の菜の花・秋のコスモス・冬の水仙が有名。
  • 能古島キャンプ村海水浴場
  • 北浦海水浴場
  • 展望台 - 博多湾を一望できる。
  • 能古渡船場
  • 亀陽文庫能古博物館
  • 能古夢珈琲園 - コーヒー豆を自家栽培する。
  • 白髭神社 - 能古島の産土神で、祭神は住吉大神神功皇后、志賀明神(しかみょうじん)など。毎年10月に開催される宮座行事は、福岡市無形文化財に指定されている。
  • カフェ&レストラン オーシャンズキッチン - 春~秋にかけてオーシャンズキッチンにあるウットデッキテラスでBBQができる。唯一能古島でデリバリーサービスをしているお店。

交通[編集]

本土と能古島との交通[編集]

姪浜渡船場と能古島の間を運航する福岡市営渡船「フラワーのこ」。
能古旅客待合所前の風景
福岡市営渡船
福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶフェリー。1日23便(日祝日は21便)。5時台から23時台まで運行される。朝と夕方は30分間隔、その他の時間帯は60分間隔。片道所要時間約10分。春・秋の行楽シーズンは、増便される。片道運賃は大人230円・小人120円。
姪浜旅客待合所へは市中心部の天神博多駅から西鉄バスが頻繁に運行されている。姪浜駅からは徒歩約25分で、同駅から西鉄バスも運行されている。
海上タクシー
行楽シーズンには、姪浜と能古島を結ぶ公認の海上タクシーが運行される。姪浜旅客待合所横で随時受付を行い定員に達し次第出航する。片道運賃は大人500円、小人300円。所要時間約5分。
水上バス
市中心部の天神地区にある天神中央公園(福博であい橋)と能古島を結ぶ。2010年7月17日より同年10月31日までの間、試験運行されていた。2011年3月27日より定期運行されていたが、2014年10月1日より貸切便のみとなった。詳細は那珂川#水上バスを参照。

福岡市営渡船では自動車航送が可能だが島民優先で、島内の道路も非常に狭い。マイカーで姪浜まで来た観光客は姪浜渡船場の駐車場を利用することになる。多客期にはマリノアシティ福岡との間に無料シャトルバスが運行され、そちらの駐車場も利用できる。

島内の交通[編集]

島内の道路(奥に西鉄バスが見える)

島の中心集落内、中央部、東岸部などに自動車通行可能な道路がある。島内には信号はない。

駐在所が公民館前にあり常時、警察官が駐在している。

小売店は全て島の南部に集中しており、渡船場に1軒あるほか、漁協の前に1軒あり、その近くに酒屋が2店舗構えている。

島内では西鉄バスが運行されている。愛宕浜自動車営業所が担当しており、島の中心集落の西端部にある龍の宮とアイランドパークを結ぶ。途中、渡船場を経由する。渡船場発着の便もある。概ね1時間に1本の運行があり、多客期などは渡船場 - アイランドパーク間に臨時便が運行される場合がある。

産業[編集]

島内の甘夏果樹

農業(柑橘類)と漁業(魚介類)がメインであるが「アイランドパーク」を主体とした観光の島でもある。

また、対岸の姪浜までフェリーで10分の近さであり、今では1/5近くが博多・天神方面へ通勤している[要出典]

農業従事者のほとんどが柑橘(みかん)の栽培で生計をたてている。[要出典]特に「甘夏みかん」と「ニューサマーオレンジ」の栽培が盛んである。また、、漁業従事者の7割はアサリ漁で生計をたてている。[要出典]能古島では、3年前[いつ?]から牡蠣「万葉牡蠣」の養殖も行われるようになっている。

能古島のおみやげ・特産品[編集]

能古島の特産品が販売されている「のこの市」。

農産物・海産物[編集]

特産品・名産品[編集]

能古島サイダー
ノコリータ
  • 天然あさり弁当(春・秋の期間限定販売)
  • あさりおにぎり(春・夏の期間限定販売)
  • 茶ぶりなまこ
  • 茶ぶりツメタ貝
  • 茶ぶりアカニシ貝
  • 玄界灘やりいか沖漬け
  • 芽吹きピーナッツもやしキムチ
  • 手作り甘夏ぽん酢
  • のこ芋羊羹
  • よもぎ羊羹
  • 甘夏のど飴
  • ニューサマーオレンジのど飴
  • 早積みレモンのど飴
  • 甘夏クッキー
  • 能古島サイダー
  • ノコリータ
  • 能古うどん
  • のこぽん
  • のこバーガー
  • 能古島サブレー
  • しあわせを呼ぶドレッシング(赤玉葱とニューサマーオレンジ)

かいわれ大根発祥の地[編集]

今や日本の食卓に定着しているかいわれ大根は能古島が発祥の地である。能古島に住む前田瀧郎が考案したとされる。但し、かいわれ大根は元々は大阪で食されていた食材であり、それを能古島へ持ち帰った前田が栽培方法を改良しただけに過ぎない。前田は「あの時特許を取っていれば」と苦笑いしてテレビ番組で語ったことがあり、後に落花生モヤシ「芽吹きピーナッツ」を考案、特許を取得している。

能古島に関する作品[編集]

音楽[編集]

小説[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 島面積 平成25年全国都道府県市区町村別面積調 国土地理院(2013年10月現在)
  2. ^ 吉留秀敏「能古島採集の神子柴型石斧」 『能古島』
  3. ^ a b 塩屋勝利「福岡市能古島の考古資料」 『福岡市立歴史資料館研究報告』第8集 福岡市立歴史資料館 1984年
  4. ^ 井上精三 博多郷土史事典 葦書房P175
  5. ^ 高田茂廣『筑前五ヶ浦廻船』
  6. ^ 高田茂廣「能古島の歴史」 『能古島』

参考文献[編集]

  • 高田茂廣『能古島物語』能古歴史研究会、1971年
  • 福岡市教育委員会編 『能古島』福岡市埋蔵文化財調査報告書第354集、1993年
  • 前田淑『大宰府万葉の世界』弦書房、2007年、ISBN 902116-78-6
  • 『福岡県の歴史散歩』山川出版社、1984年
  • 福岡市 編『ふくおか歴史散歩』
  • 岡本顕實『防人』さわらび社
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 86329-026-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]