戦国時代 (日本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

日本戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。乱世により室町幕府の権力は完全に失墜。守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

語源[編集]

応仁の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したのが語源。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』の永正五年(1508年)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていた。

江戸時代ベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。

始期と終期[編集]

戦国時代の始期と終期については諸説ある。

一般に1467年応仁の乱または1493年明応の政変に始まり、1568年織田信長入京または1573年の信長による将軍足利義昭追放で終わるとすることが多い。室町時代末期の信長上洛以後を織豊時代安土桃山時代と区分することもある。また、長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含める場合がある。

従来は1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後も幕府は中央政権として機能していた。中央政権としての幕府権力を支えていた幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、明応の政変により中央政権としての幕府体制が瓦解した。

戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分であり、信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいは豊臣秀吉が後北条氏を降伏させ全国統一の軍事活動が終了した1590年を戦国時代の終期とする考えもある。さらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大阪の陣を最後とする考え方(元和偃武)もある。

概要[編集]

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。これを下克上という。様々な経歴の戦国大名が登場する。

それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われた。そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展する。自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。

応仁の乱から明応の政変まで[編集]

「万人恐怖」と称された暴政を行った足利義教嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となる。例えば、関東では鎌倉公方古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こすと、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。大和加賀でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。

この最中に将軍の跡継ぎ争いが勃発した。これに山名氏細川氏ら守護大名の権力争い、畠山氏斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わり応仁の乱が起こった。大内氏若狭武田氏など各地の守護大名が上洛すると、都を戦場にした争いが10年間続いた。この戦いは山名氏の衰微、大内ら西軍の京都撤退など細川氏が勝利した形で終わったが、はっきりとした勝利の結果は残らなかったため後々までに影響する事になる。更に戦中、細川氏が山名氏の領国を混乱させるため武将を送り込んだために争いの火種が各地でくすぶり続けた。

応仁の乱後も幕府の力は暫く残っており、1487年の将軍に敵対する近江守護六角高頼攻め(鈎の陣)には尾張国若狭国など京都近辺の諸大名が従い、1492年足利義材河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。この河内攻め最中の1493年4月に管領細川政元が将軍廃立を図ったクーデターに成功して実権は細川氏に移った(明応の政変)。細川氏も政元死後、澄元・晴元父子と高国の2派に分裂して混迷を深める。将軍は各地の大名に身を寄せる存在となり、これによって幕府の中央政権としての権威は決定的に失われ、地方豪族は自ら力を蓄えるか力ある存在に身を寄せる時代に入った。このうち、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名という。

明応の政変から信長登場前夜まで[編集]

この明応の政変とは、いわば将軍である足利義材足利義視の子)を追放し清晃(足利義澄)を将軍としたことだったのだが、これに対して足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義材派と足利義澄派(細川政元派)と分かれることとなった。細川家もまた、専横を振るった細川政元香西元長薬師寺長忠らに暗殺され(1507年:永正の錯乱)、政元の養子3人の内、細川澄之細川高国に討たれ、細川澄元派と高国派の2派に分かれて抗争することとなった。この間隙を突いて1509年周防国大内義興が前将軍足利義尹(よしただ。元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京した。高国は大内義興と組んで義尹を支持すると、澄元は義澄を支持し対立。1511年足利義澄が死ぬと、澄元方が劣勢となり、澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず1520年に阿波で死んだ。

以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏に移り、続いて三好氏が政権を握った。細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在するが、細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはない。ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。実際、この前後から現代日本人が俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄上杉謙信北条氏康大友宗麟島津貴久などの華々しい活躍が始まり全国の戦国騒乱が本格化する。

三好長慶は京周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放する。三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、結局4年で足利義輝に屈服することとなる。三好長慶の死後は三好政権は迷走し、松永久秀・興福寺浅井長政らの協力を取り付けた織田信長に簡単に京を明け渡す。(三好長慶から始まる三好政権について、「堺公方」も参照)

毛利元就による中国支配への契機となった厳島の戦いもこの時期である。

信長登場以後[編集]

1568年、尾張国の織田信長足利義昭を奉じて上洛したことにより、戦国時代の状況が一変する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。彼が入京して最初にしたことは大津山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会ルイス・フロイスに京居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。

この頃になると、信長の動きに関連して各地方も統一への道を歩み始める。北条氏武田氏上杉氏毛利氏などである。これらの全国の大名は信長派か反信長派に分かれて争うことになる。将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山本願寺武田信玄上杉謙信朝倉義景浅井長政松永久秀三好三人衆毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京を追われた(幕府という形態はこの後、備後に細々と続く)。続いて自らの利権を失うことを恐れた本願寺も信長に反発、全国の一向一揆を動員して10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力をすべて撃ち破り、自らが本能寺の変で倒れる1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げた。

後継者である豊臣秀吉は関白となり征夷大将軍である足利義昭の官位を凌駕し惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地刀狩身分統制令、貨幣統一を達成して、これまで各地ばらばらであった日本の全てを一つにまとめた。秀吉の死後、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利して、有無を言わさず諸大名の転封を行い、大坂夏の陣豊臣氏を滅ぼす。徳川氏一統が日本の実質的支配者とすることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令を行うことは「もう戦争はしない」という諸大名の意思表示でもあった。そして江戸時代中期、3代将軍徳川家光が死去した後、幕府の武断政治から文治政治への転換は武力による支配の終焉ともいえる。

戦国大名[編集]

戦国大名は、そのほとんどが守護大名守護代国人を出自とする。国司(北畠氏)や公家土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。

戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。

地域別[編集]

東北[編集]

東北地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。

東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗奥州探題大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。

これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。そして新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。

16世紀第4四半期の時点で、安東氏秋田三戸南部氏糠部、奥州探題大崎氏大崎葛西氏登米、羽州探題最上氏最上村山伊達氏信夫伊達置賜刈田柴田宮城蘆名氏会津耶麻大沼河沼西蒲原安積岩瀬二本松氏(畠山氏)が安達田村氏田村石川氏白河結城氏白河相馬氏行方宇多標葉岩城氏楢葉岩城磐前菊田多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。

関東[編集]

関東では京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱長享の乱永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。

その間3つ巴の争いの隙を縫って伊勢盛時(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼす。その子孫が北条氏を自称した。この北条氏と上杉氏が関東の覇者を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握。山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。

北関東では宇都宮成綱永正の乱に介入し、勢力の拡大を図った。その際に宇都宮錯乱という内紛が発生してこれを鎮圧するが、成綱没後に内紛や叛乱、離反が相次いで起こり、下野宇都宮氏は大きく弱体化する。こうした内紛は同様に永正の乱に関わった結城氏下総千葉氏佐竹氏那須氏などでも相次いで発生し、戦国大名化の遅れを招いた。

関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分すると、北条氏康里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦など、各地で戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重は南北両方面での戦いを余儀なくされた。

やがて、豊臣秀吉惣無事令を発すると、北条氏政は奥州の伊達政宗・三河の徳川家康と同盟して対抗する。圧倒的な武力で海から山から迫り来る豊臣軍の前に北条氏は降伏した。この時、北条陣営に付いた関東の多くの領主が所領を没収され、小山氏千葉氏のような鎌倉時代以来の名家も姿を消している。1590年8月には関東に移し替えとなった徳川家康が江戸に入城した。

その後、豊臣政権から江戸幕府成立の過程において、佐竹氏や里見氏、宇都宮氏などの旧来の勢力は転封あるいは改易によって関東の地から姿を消す事になる。

中部[編集]

北陸[編集]

越後国を上杉(長尾)氏、越中国神保氏椎名氏能登国畠山氏越前国朝倉氏加賀国一向一揆らが、それぞれ支配していた。

越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭。その長尾氏から誕生した長尾景虎(上杉謙信)は、1576年までに北陸地方をほぼ制圧した。

越中では、神保氏が当初敵対していた一向一揆と結ぶも、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。

能登は守護の畠山氏が遊佐氏長氏らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。1576年には、越後上杉氏の軍門に降り滅亡した。

越前では、斯波氏を追い落とした朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極めていた。やがて織田信長と天下を巡って争うも1573年の刀根坂の戦いに敗れ、滅亡する。

加賀国では、守護冨樫氏を滅ぼした一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行ったため、いずれの国もこの勢力の扱いに苦慮した。一向一揆はその後も上杉氏、朝倉氏などと抗争を繰り返し、朝倉氏滅亡後には越前を支配するも、織田信長との石山戦争に敗れ、殲滅された。

東海・濃尾[編集]

美濃国土岐氏が、尾張国遠江国斯波氏が、三河国松平氏が、駿河国今川氏が、一国一円割拠していた。

美濃国では、土岐氏の内部争いが展開されていた。その隙を突いて主君に取り入るも1542年にはその主君を追放して、美濃国主となったのが斎藤道三である。

尾張国は、朝倉氏の離反で越前を失った斯波氏の本拠となっていた。この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れた上に、京都での政争にも敗れて力を失った。やがて国内では、守護代・織田氏の傀儡的存在となる。1554年には、その織田氏の権力抗争に巻き込まれて切腹した斯波義統を最後に、尾張守護の斯波氏は断絶した。

三河国では、松平氏が松平清康の代で版図を雄飛させるが、1535年の守山崩れによって清康が家臣に殺されると、事態は一変。駿河の今川義元からの後援無しに家命を保てないほど、弱体化してしまった。

その駿河国の今川氏では今川氏親が、斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法・今川仮名目録を定めて領国支配力を高めていった。その子の今川義元の代には更に三河へも勢力を伸長。義元は1554年に、甲斐国の武田氏や関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟)を結んで、西進政策を強化した。しかし1560年、織田氏を攻めるべく出兵した尾張において義元が戦死し、今川氏は衰えた(桶狭間の戦い)。

その今川義元を敗死させたのが、織田信長である。上・下の守護代2家が両立する織田一族の中では下守護代家の庶流に過ぎず、郡奉行として本家を支える立場でしかない身の上ながら、上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主の座を奪った。桶狭間の戦いに勝利した後、三河の松平氏と結ぶことで美濃攻略に専念。5年の歳月をかけて美濃国を奪うと、稲葉山城を新たな本拠として天下の経営に乗り出した。

その信長と手を結んだ三河の松平元康は、信長への支援を行う一方で、自勢力の拡大に腐心。名を「家康」と改めると1565年には三河を平定。翌年、徳川に改姓し、その上、甲斐の武田氏と密約を結んで今川領を東西から侵食、1569年に今川氏を滅ぼした。しかし武田氏からは、なし崩し的に所領を侵食されてゆき、1573年の三方ヶ原の戦いで徳川・織田両軍は大敗を喫した。三河領も奪われかねぬ窮地に陥るも、信玄の死で武田軍の西進が頓挫。命拾いをした。

1575年には、長篠の戦いに織田 徳川連合軍が鉄砲の力を利用して武田軍を破ると、1582年の甲州征伐への参戦協力の功により、徳川氏は信長から武田領の遠江、駿河を得た。しかも同年、本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下に治めている。

1590年、豊臣秀吉により天下が定まると、秀吉より関東移封を命ぜられたため家康は武蔵の江戸を本拠とした。やがて家康は秀吉の死後に発生した関ヶ原の戦いの勝者となって江戸幕府を開くことになる。

甲信[編集]

甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠する状態となっていた。

甲斐国では甲斐源氏の流れを汲む武田氏が上杉禅秀の乱に荷担して没落していたため、戦国時代に至るまで国内での抗争状態に陥っていた。一方、信濃国では、深志(現在の松本地方)に小笠原氏、北信を村上氏高梨氏木曾木曾氏諏訪諏訪氏、東信に海野氏など国人領主が割拠していた。

やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地と定め隣国との和睦も達成して信濃侵攻を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。

武田信玄は信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って甲越対決(川中島の戦い)を幾度も繰り広げた。その後、北進から南進へ方策を転換し駿河侵攻を断行、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な西上作戦を発動させるも、信玄の急死により途上での終束を強いられた。その後継の武田勝頼期には長篠の戦いにおける敗退で領国の動揺を招き、織田・徳川連合軍による甲州征伐では十分な迎撃も出来ずに武田氏は滅亡、信濃諸族は織田氏に臣従した。

武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田家臣に分配されるが、本能寺の変により空域化すると武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が領した。ただし北信濃は、上杉氏の支配を受けた。豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移るが、この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。また、保科氏は将軍徳川秀忠の庶子・保科正之が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。

近畿[編集]

初期の畿内においては足利将軍家管領細川氏との抗争が繰り広げられた。山城国一揆などの国人一揆も抗争のパーツとして結果的に組み込まれている。ただし、この抗争は大内氏などを主体とする地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという名目で、近江国六角氏による介入が強まった。近江においては、佐々木氏の一族である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競ったが、京極氏は支配下にあった国人浅井氏によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。

基本的には各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。河内国畠山氏但馬国山名氏丹後国一色氏若狭国武田氏などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。

伊賀国は忍者に代表される豪族が力を持ち合議制で支配されていた他、北部を六角氏、南部を北畠氏がゆるく支配していた。

紀伊国では高野山根来寺熊野三山などの寺社勢力の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。紀伊の地侍は連合して根来衆雑賀衆などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。

伊勢国志摩国では伊勢国司北畠氏が勢力を誇り、戦国大名化した。

先に述べた足利氏細川氏の内紛は六角氏赤松氏浦上氏畠山氏筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、本格的な騒乱は三好氏の政権掌握以降となる。彼らは領国の阿波国を始め、讃岐国淡路国摂津国和泉国河内国山城国丹波国大和国などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。しかしいずれの国も完全な統治はできなかったようであり、三好長慶の死後の混乱を経て織田信長上洛軍によって平定されていくことになる。

中国[編集]

初期は大内義興尼子経久との対立があった。大内義興は勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に霸を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。

両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、国人の一人毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。毛利元就は尼子氏を裏切り大内氏についたため、尼子晴久吉田郡山城へ向けて進軍。毛利元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。大内氏の内部争いによって大内義隆が死亡し、8ヶ国守護となった尼子晴久と、大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国の覇者となる。

織田信長の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると三木城三木合戦)、鳥取城高松城が次々と落とされたが、本能寺の変が起き命拾いした。その後毛利氏は豊臣氏の配下となり四国攻め九州征伐小田原征伐などで活躍し、毛利輝元が五大老に就任する。豊臣秀吉が死ぬと徳川家康石田三成が対立し、関ヶ原の戦いが起こる。毛利氏は西軍についたため周防長門の2か国の36万9000石になった。

この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏村宗)、同じく備前の宇喜多氏直家)などがいる。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国備前国美作国を奪う。零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。浦上氏宗景の代に入ると重臣宇喜多直家の離反によって崩壊する。備前国を手中にした宇喜多直家は時代を読む目があった人物のようで、羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自分の嫡子秀家を秀吉に人質にするなどした。しかし、秀家は関ヶ原の戦いで西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ(子孫は流罪先の八丈島で家系を保ち、現在も同島で墓を守り続けている)。

四国[編集]

東四国(阿波讃岐)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。

阿波は細川氏が支配した。のち撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の一存を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると彼らは織田氏へなびくようになる。

伊予は守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。

土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護(土佐七雄)と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして土佐平定後10年かけて1585年に四国を統一した。淡路は守護・細川氏が統治していたようだ。

のち、秀吉の四国攻めのため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。

九州[編集]

九州の武家平家方だったため鎌倉幕府を開いた源頼朝の信頼は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏大友氏島津氏を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、筑前肥前豊前は少弐(武藤)氏、筑後肥後豊後は大友氏、薩摩大隅日向が島津氏と九州の統括体制がなされ、その下に地頭として平安時代以来の松浦氏秋月氏蒲池氏菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが展開していった。

しかし、少弐氏の勢力は九州探題に敵対したために室町時代後期には既に衰えており、宗像氏麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内氏の影響を受けた。少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。

大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏相良氏の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。また大友宗麟は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂が替わった。

島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。祁答院氏菱刈氏肝付氏などの数多いた豪族と戦いに明け暮れ、その後、島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、薩摩大隅を統一。木崎原の戦い以後は伊東氏を平らげ、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。

軍事[編集]

戦国時代の諸勢力は、必ずしも全期間絶え間なく合戦に明け暮れていたわけではないが、少なくとも勢力間において発生する諸問題の解決に際して行使可能な手段として、武力、すなわち軍備の果たす役割に注目が集まる傾向にあったことは確かであり、諸勢力は軍備の整備・維持・向上に意を払っていた。

そして、これは戦国大名や国人・土豪層はもとより、宗教組織や、自治組織においても同様である。宗教組織は、依然として僧兵組織の維持や、戦闘拠点となりうる寺院の造営に力を振り分けた。あるいは、自治組織においても、矢倉や塀、環濠のような防御施設の構築、牢人の傭兵化を行った。彼らの中には、特殊な戦闘技術を発達させ、忍者集団となったものもいる。

さらには、一部の公家も限定的とはいえ、必ずしも自衛目的のみとは言えない軍事活動に自ら携わるなど、あらゆる階層を通じて、ある種の“力に対する信奉”があったことは注目される。

合戦[編集]

戦国時代における合戦には、示威行動や小競り合いといった、低強度の武力闘争から、戦国時代に含めるか否かは別として、少なくとも戦国時代の延長線上にはある関ヶ原の戦いのように、国内を二分しての会戦決戦といった、後の国家総力戦にある程度擬し得る戦争形態、さらには、外征戦争である文禄・慶長の役まで、多様な戦争形態が見られる。

武力紛争の総数から見れば、その大部分は、隣接する非友好的な勢力が互いに、領地、あるいは、影響を及ぼし得る勢力圏の境境付近において繰り広げる小競り合い・抗争レベルの応酬であった。

この中には、敵兵力に対して実力を行使するだけでなく、隣接勢力に対する嫌がらせの意味も含め、日常的な焼討ちや、食料を断つ“刈り働き”(あるいは“青田刈り”)も含まれており、結果として、そのエスカレーションが、大規模な軍事行動を誘引する面もあった。

ただ、合戦の矢面に立つのは足軽、つまりは農民なので、責める側も守る側もほとんど戦死者は出なかった。足軽に戦死者が多く出ると、年貢をとれないばかりか、一揆や村ごと敵方につくことも多く、大名たちはいかに人心を掌握するかが大きな仕事になった。

城と築城[編集]

戦国時代に築城あるいは使用された大部分のは、戦国時代末期以降に築城された現存の姫路城松本城のように世界遺産国宝に指定されるものや、大坂城江戸城名古屋城のように都市の歴史の象徴として認知されるまでには至っていないものの、大小および有名・無名を問わなければ1つのに複数存在していたと考えられ、近年、郷土史などの観点から注目されている。また、郷土武将が拠った城が、主に敵対する大勢力によって陥落したという史実から派生する落城哀史のような物語舞台として語られることもある。有名な近世城郭の多くは、少なくともその状態での実戦を経験していないために現在まで良く保存された遺構が残されている。一方で、戦国時代の城が没落し、あるいは近世城郭に生まれ変わることのできなかった原因の1つは、陥落を経験し、その後、放棄されてしまったためであることを示すものでもある。戦国時代の城は、“よく知られ、有名”でないために、開発に際して必ずしも十分な調査記録がなされないままに貴重な遺構が破壊されてしまうこともある。

戦国時代における永久築城は、一般的に、東国においてはの城、西国においてはの城と称される。これは、当時の文化先進地である西国において石垣を多用した築城が発達し、また東国においては、築城に適した石材の採取が困難であり、土塁の使用が多かったためとされる。しかしながら、石垣の構築と土塁の構築には工事量に差があることを無視している問題や、石垣の存在を至上とする見方も潜んでおり、近年においては、各戦国大名がそれぞれ得意とし、特徴を持つ築城術を個々に扱った研究も進んでいる。これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連しており、甲斐武田氏領内における城を中心として見られる迎撃と射撃が補完し合う拠点としての丸馬出や、関東後北条氏領内や九州北部地域の城を中心として見られる侵攻経路を管制する竪堀、あるいは、火縄銃が多く流通した畿内を中心として見られる射撃拠点としての矢倉望楼を多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫が見られる。

経済と社会[編集]

戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している[1]。東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだ。

戦国時代は、室町時代後期から引き続き、戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化したことから、貨幣の持つ相対的な価値が向上することになった。特に、戦国時代初期にあっては、勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった日明間の貿易によって、から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。

これに伴い、戦国大名にとっては、戦国時代から始まるとして世界遺産にも登録された石見銀山に代表されるように、領内にある金山銀山の運営が、軍資金の調達のために戦略的な重要性を増した。諸戦国大名は産出する金銀の品位改善のために灰吹法や砂鉄による生産などといった新技術の導入を積極的に行った。さらに、金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山を巡っての争奪が繰り広げられた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城大和紀伊蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体にを巡らし、牢人傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口小浜品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

「食うための戦争」と民衆[編集]

藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。

武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致するという、現在であれば戦争犯罪にあたる行為が、戦国時代の戦場では(すくなくとも行っている側からは)認められていた。

理由は、雑兵たちの多くは農民との兼業兵であり、義務で徴兵されているため、手柄をあげない限り報酬は出ないからである。また、大名の方でも彼らの士気が下がらないようにしなければならないため、兵たちの乱取りを黙認あるいは推奨した。藤木によれば、越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っているが、これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものだという。

奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、海外へ売り払われた人々もいた。こうした略奪は天正15年(1587年)の豊臣秀吉による人身売買停止令まで続く。

ただし刈田が略奪というのは少々無理がある。略奪というからには食べられる米=収穫期に行わなければならないわけだが、この時代の農業は非常な重労働であり、収穫期中は働き盛りの男性たちに戦争をさせている余裕などないからである。もし男性たちが大量に戦死すると、以降の収穫が減ってしまうのである。また、侵略を旨とする戦争では、最終的にはその土地を我が物にして、そこから収益を上げる必要があったため、いかに相手の農民から嫌われずに勝つかがカギとなっていた。もし農民から大いに嫌われれば、彼らは逃散してしまい、耕す者が居なくなった農地は荒れ果て、苦労して手に入れた土地は無価値なものに変わってしまうためである。刈田は敵地の収穫量を減らし、経済力を奪う目的が強かった。

文化・宗教[編集]

戦国時代初期の文化は北山文化東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶の湯の大成は、の思想に基づく“わびさび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊雪村周継土佐派土佐光信狩野派狩野元信長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。

公家社会でも近衛家のように足利将軍家と婚姻を結び、地方の大名・武士と朝廷との間を取り持つことで社会的な地位をある程度まで保った層から家領を武士に奪われて生活に困窮し地方に疎開するだけの人脈も持てずに没落した層まで様々であった。永正16年(1519年)に発生した越水城の戦いを巡る当時の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』と鷲尾隆康の日記『二水記』を比較すると両者の違いが明らかとなる。近衛尚通の元には合戦当事者を含めた武将やその家臣、僧侶など様々な身分の相手から情報が寄せられて合戦の事情を把握していることが分るのに対して、鷲尾隆康は公家社会の風説を聞いて「恐怖」するのみであったことが知ることが出来る。後者のような公家は武士層など他の階層とのつながりも持つことなく、やがて歴史の中に消えていくことになる(実際に鷲尾家は隆康の代で断絶して江戸時代初期になってようやく再興されている)[2]

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。

宗教については、日蓮宗浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

脚注[編集]

  1. ^ 戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった -- 日経ビジネスオンライン 2009年9月11日
  2. ^ 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0744-9 終章「戦国期の公家」

関連項目[編集]