長良川の戦い
| 長良川の戦い | |
|---|---|
| 戦争:戦国時代 (日本) | |
| 年月日:弘安2年4月(1556年4月) | |
| 場所:美濃長良川 | |
| 結果:斎藤義龍の勝利、斎藤道三の討死 | |
| 交戦勢力 | |
| 義龍軍 | 道三軍 |
| 指揮官 | |
| 斎藤義龍、 西美濃三人衆、 加治田衆など | 斎藤道三、 斎藤利治、 その他に明智方、 織田軍(間に合わず) |
| 戦力 | |
| 17500 | 2700 |
| 損害 | |
| 不明 | 不明 |
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は1556年(弘治2年)4月に斎藤道三とその嫡男・義龍との間で行われた合戦である。
目次 |
[編集] 合戦の原因と結果
1542年(天文11年)名門土岐氏に替わって美濃の国主となった斎藤道三は、1554年に嫡男義龍に国を譲り隠居した。しかし道三と義龍の不仲は深刻なものとなり、道三は義龍を廃嫡し自身が寵愛する義龍の弟を跡継ぎにすることを考えるようになった。
1555年、そうした動きに気付いた義龍は稲葉山の屋敷に二人の弟(喜平次、孫四郎)を呼び寄せると寵臣の日根野弘就に暗殺させ、骨肉相争う事態となった。道三が国主となるまでの経緯もあって家中の大半は義龍を支持し、義龍軍17500名に対し道三が動員できたのはわずか2700名と義龍の有利であったとされる。
4月18日、初め道三は鶴山へと布陣し、20日に義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、北岸に移動した。道三は当初優勢に戦いを進めたが兵力差は如何ともしがたく、娘婿の織田信長の援軍も間に合わず道三は戦死した(長良川の最後において、道三は末子の斎藤利治に美濃国譲り状を渡し、これより利治は信長の織田軍へと合流する)。
[編集] 備考
俗説として義龍の実父は道三によって美濃を追われた前守護土岐頼芸とする説があるが、何ら根拠になる事実はない。また、近年勝俣鎮夫によって唱えられた説では、道三は重臣との対立によって義龍を擁した重臣達によって当主の地位を追われたため、義龍とそれを支持する重臣達を排除するためにこの戦いを起こしたとされている。
以前は道三が最初に本陣を置いたのは鷺山城と考えられていたが、現在は鶴山に置いたという説が有力である。
この合戦で明智氏は道三に与したため、義龍により居城の明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀の流浪の生活が始まったとされる説がある。
道三の最後について、元家臣の長井忠左衛門・小真木源太・林主水らの追跡をうけ、くみつかれて脛をなで斬りにされた上に鼻を削がれた。元家臣の小真木源太により、道三塚へ手厚く葬られた。
援軍に来た織田軍は間に合わず、利治らの道三残存軍と合流し撤退を開始したが、斎藤軍の追撃を受けた。信長自ら殿軍をし最新の鉄砲を使い追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。