明智光秀

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明智光秀
明智光秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄元年(1528年)?[1]
死没 天正10年6月13日1582年7月2日
別名 十兵衛、惟任日向守(通称)
咲庵(号)
キンカ頭(渾名)
桃丸(幼名)[2]
戒名 秀岳院宗光禅定門
前日洲条鉄光秀居士[3]
長存寺殿明窓玄智大禅定門[4]
墓所 西教寺滋賀県大津市)、
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町
官位 従五位下日向守
主君 斎藤道三足利義輝?→朝倉義景
足利義昭織田信長
氏族 源姓土岐氏流明智氏
惟任賜姓
父母 父:明智光綱、母:お牧の方
養父:明智光安
兄弟 光秀信教康秀
継室:妻木範煕の娘・煕子
光慶細川忠興正室)
ほか系譜の子女を参照

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代安土桃山時代武将本姓源氏家系清和源氏摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏仮名十兵衛雅号咲庵(しょうあん)。惟任光秀

妻は、妻木煕子。その間には、嫡男・光慶(十五郎)、織田信澄室、細川忠興室・明智珠(洗礼名:ガラシャ)がいる。

目次

[編集] 生涯

[編集] 織田家仕官以前

清和源氏土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は享禄元年(1528年)と大永6年(1526年)、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)という説もある[5]。 場所は岐阜県可児市明智の明智城山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町明知城という説もあるが、こちらは遠山氏の築城した城でもあるので伝承に過ぎない。

青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国守護土岐氏の一族で、戦国大名斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国朝倉氏に仕えた。なお、『永禄六年諸役人附』に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、13代将軍足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏毛利氏には仕える寸前までいったとされる。『信長公記』は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。

足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。

[編集] 織田家臣時代

信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571年)頃比叡山焼き討ちで武功を上げ近江国志賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称した。

城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重松永久秀有岡城の戦い信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した。この功績によって、これまでの近江国志賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城横山城・周山城を築城した。京に繋がる街道の内、東海道山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。

また丹波一国拝領と同時に丹後長岡(細川)藤孝大和筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰畿内管領」と呼ぶ者もいる。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。

[編集] 本能寺の変

詳細は「本能寺の変」を参照

天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠京都所司代村井貞勝らを討ち取った。

光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになった。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなった。

[編集] 山崎の戦い

明智光秀とその一族の墓/西教寺

詳細は「山崎の戦い」を参照

光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。

決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。

実際には、羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。

「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。

[編集] 人物・評価

主君織田信長を討った行為については、当時から非難の声が大きく、近代に入るまで"逆賊"としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。

『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされる。

光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼和である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。

『老人雑話』は、光秀の言葉として以下の言葉を紹介している。曰く、「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」。この言葉を光秀の合理主義の表れであるとする意見がある。高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多い。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えている。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくない。

天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家佐久間信盛は別としても、丹羽長秀木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われる。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺える。

ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。

西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。このように家臣を大切にしたことから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さず、山崎の戦いでは劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦いの敗北後、光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。

しかし、明智軍の将校の忠誠の向き(求心力)を考えるには、別の考慮も必要とする。

  1. 明智軍の多くは信長より預けられた与力であり、与力たちにとっての主君はあくまで織田信長であること
  2. 変後の有力支持者が殆どいないこと
  3. 変直後の明智軍内の混乱

これらの事情から、光秀自身の持つ求心力よりは、織田信長に象徴される体制の持つ引力の方が強かったという見ることもできる。

光秀と上級将校たちは、明智軍全体を信長殺害の共犯者に仕立て、軍団員が引くに引けない状況を作り上げることを意図していた可能性もある。

光秀は諸学に通じ、和歌茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。

現代に至る亀岡市福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山市との混同を避けるため、1869年明治2年)改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。

[編集] 逸話

  • 朝倉被官時代、有能さを朝倉直臣団に嫉妬され、そのため重く用いられなかったという。朝倉義景のもとを去って織田信長に仕えたのは、鞍谷副知なる者が義景に讒言し、それを信じた義景が光秀を冷遇したためとされる。
  • 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一四方の的を25(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を打ち落としたという逸話もある。
    • 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。
  • 他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
    • 婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた(しかし、この逸話については斎藤鎮実の妹で高橋紹運に嫁いだ妻の話に酷似しているため、後世の創作とされるが、光秀と親しかった京都吉田神社の神官吉田兼見の日記(『兼見卿記』)には光秀が重病のとき、煕子が兼見の屋敷を訪れ、光秀快癒のための祈祷を依頼したり、反対に煕子が床に付いたとき、光秀が病気平癒を兼見に頼んだことが書かれているため、光秀と煕子が仲が睦まじかったのは史実のようだ)。
  • 愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで何度もおみくじを引き続けたと伝えられている。
  • 光秀が濃州を追放され、諸国を武者修行していた頃、毛利に仕官を求めてきた。毛利元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」とその顔に凶相を見、後の厄を恐れて金銀を多く与え追い返した。とある。

[編集] 辞世の句

  • 順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」『明智軍記』[6]
  • 心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ[7]

[編集] 史跡

高野山奥の院の光秀墓所
  • 高野山奥の院に光秀の墓所があるが、何度補修してもよく亀裂が入るため、信長の呪いと地元で囁かれている。
  • 三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町3丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行なっていたが、現在では消滅している。
  • 桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという。[8]
  • 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
  • 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
  • 溝尾庄兵衛が、光秀の首を持ち帰ったとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には、明智光秀公首塚がある。[9]

[編集] 光秀の謎

[編集] 出自

定説で光秀は美濃の明智氏の出身で明智光綱の息子とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の異説が存在する。

[編集] キリシタン説

光秀が用いていた印章は、キリスト教に関する模様が使われている事が判明している。また、娘のや、組下大名(寄騎)の高山右近と身近な人物にキリシタンが多いことから唱えられている説Template:要出展

[編集] 愛宕百韻の真相

愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都愛宕山愛宕神社)で開催した連歌会のことである。

光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、源頼政らによる以仁王の乱後鳥羽上皇承久の乱後醍醐天皇足利高氏らによる元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏平家北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。

しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[10]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。

なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

[編集] 本能寺の変の原因

詳細は「本能寺の変#変の要因」を参照

八上城で人質の母を殺されるの絵

本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。

怨恨説
主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
  • 信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。
  • 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
  • 丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。
  • 武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。
  • 中国2国(出雲国石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。
  • 武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓森蘭丸鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
  • ルイス・フロイスも、信長が光秀を足蹴にした事があると記している。
桑田忠親は著書『明智光秀』で、独自の研究を基に「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
野望説
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
佐久間信盛の織田家追放を佐久間家の視点で描いた『佐久間軍記』には、追放の要因が何者かの讒言である可能性を示唆している。それが“何者か”については、寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とある。光秀が讒言を行っていた場合、本能寺の変の理由の1つとして、謂れのない讒言であると明らかにされることを恐れたという可能性もある。
恐怖心説
長年仕えていた佐久間信盛林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。
あるいは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
将軍指令説 / 室町幕府再興説
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
朝廷説
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
朝廷又は公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明橋本政宣らの指摘がある)。
一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。
四国説
比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。
イエズス会説
信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子『信長と十字架』)。この説には大友宗麟豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。
諸将黒幕説
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康羽柴秀吉が主に挙がる。
家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代板倉勝重)。
秀吉の場合は、佐久間信盛林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。
他に少数意見として、細川藤孝織田信忠が黒幕という説もある。
補足
  • 上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。
  • 信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要がある。
  • 長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外ずしてもよいことになる。
  • これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。
  • 光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。
  • 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。
  • いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。
  • 光秀は変の前に三回くじを引いた(全て凶だったといわれる)という逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。
  • 「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。

[編集] 南光坊天海説

光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍したで、その経歴には不明な点が多い。

日光東照宮 陽明門 随身像

異説の根拠として、

  1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[11]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
  2. 日光明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
  3. 徳川秀忠徳川家光は光秀、徳川家綱は光秀の父の明智光綱徳川家継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
  4. 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
  5. 学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
  6. 光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
  7. 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
  8. テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[12]
  9. かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの[13]

等があげられている。

しかし、日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[14]。 また、寛永寺の公式記録では会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。比叡山の石碑に関しても後世の偽造との説も出ている。また、天海が明智光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する。)が生じる。また、諱についても秀忠の秀の字は秀康毛利秀元小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。

なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺→本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。

天海#フィクションにおける天海」を参照

[編集] 系譜

明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。

源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-土岐頼基-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶

[編集] 親兄弟

[編集]

[編集] 息子

  • 嫡男:明智光慶 - 光秀の息子で唯一実在が確認されている。通称は十五郎。山崎の戦い後も生き延び妙心寺の住職・玄琳となったという説がある。
  • 次男:筒井定頼 - 一説に筒井順慶の養子とされるが、定かではない。幼名は自然丸、通称は十二郎。
  • 不明:南国梵桂 - 光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺大阪府岸和田市)を建立した僧で、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
  • 不明:荒深光頼 - 幼名は乙寿丸。山崎の合戦後、生き残った光秀とともに美濃国へ戻り荒深氏を名乗ったという。[16]
  • 末子:喜多村保之 - 本能寺の変の半年程前に生まれ母方に引き取られた。幼名は内治麻呂、通称は弥兵衛。江戸町年寄になったとも伝わる。

[編集]

[編集] 縁戚

  • 叔父:山岸光信 - 西美濃十八将のひとり。光秀の最初の妻の父。山岸氏の養子となった。
  • 叔父:明智光安 - 光綱の死後は明智家を率い、義龍と道三の争いに道三に与して殉した。一説に明知遠山氏の養子となり遠山景行と称したとも。
    • 従兄弟:明智光春 - 光秀の叔父・光安の子といわれるが定かではない。明智秀満と同一人物とされることが通説。
  • 叔父:明智光久 - 明智城落城の際に死亡。一説に小里光忠と同人ともいう。
    • 従兄弟:明智光忠 - 光久の子といわれるが、定かではない。
  • 叔父:明智光廉 - 別名は三宅長閑斎。
  • 叔母:小見の方 - 斎藤道三の正室、濃姫の母。
    • 従姉妹:濃姫 - 道三の娘。織田信長の正室。
  • 娘婿:明智秀満 - 重臣・三宅秀朝(または遠山景行)の子で光秀の娘をめとり明智姓を称した。別名は三宅弥平次、通称は左馬助。
  • 不明:明智光近 - 光秀の従兄弟とも光忠の子ともいわれるが定かではない。山崎の戦いで片桐且元に討ち取られた。

[編集] 子孫

光秀の長女・次女の系統まで含めれば末裔は少なくないが、熊本藩主細川忠興の系統は第8代で養子を迎えたために光秀の血は途切れている。なお、自称明智氏の子孫で坂本城に由来するという坂本龍馬の坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。

[編集] 家臣

[編集] 美濃衆

[編集] 旧幕臣衆

[編集] 近畿衆

[編集] 関連項目

[編集] 明智光秀を題材とした作品

[編集] 文学・戯曲など

など多数

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

[編集] 漫画

[編集] ゲーム

[編集] 歌謡曲

[編集] 脚注

  1. ^ 生涯の節を参照
  2. ^ 資料には幼名を桃丸としたのは確認できないため、おそらくは司馬遼太郎の『国盗り物語』での創作と思われる。
  3. ^ 盛林寺(京都府宮津市喜多)
  4. ^ 天竜寺(日本一184mの位牌)、首塚石碑
  5. ^ 谷口克広「信長と消えた家臣たち」 中公新書(2007年) ISBN 978-4-12-101907-3
  6. ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の句を真似た偽作との説もある。
  7. ^ 真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」
  8. ^ 亀岡市老人クラブ連合会『ふるさと亀岡乃ちゑ』1982年。
  9. ^ 谷性寺
  10. ^ 「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』
  11. ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
  12. ^ ただし、2000年8月6日放送のTBS系列『日立 世界・ふしぎ発見!』では「天海と光秀は別人」と言う結果が出ている。
  13. ^ 岩辺晃三 『天海・光秀の謎ー会計と文化』(税務経理協会、1993年
  14. ^ そもそも桔梗紋は清和源氏の一族が使用した家紋であり、「土岐桔梗」や「大田桔梗」など種類も少なくない。また光秀の用いた桔梗紋は、水色桔梗と言い、水色に彩色された紋を用いるのが通常である。
  15. ^ 波多野秀治の謀反により、光秀による八上城の攻略が始まった際、光秀の母は城主である秀治によって人質に取られて、絵本太功記の創作とされ、史実ではないという。また実際に磔にされたのは養母(叔母)であるという説がある。
  16. ^ 岐阜県の光秀のものと伝わる墓所に碑文がある。
  17. ^ a b 喜多村家に伝わる『明智系図』には光秀の次女で桜井家次の妻とあるが、しかし、この資料は歴史学者の高柳光寿によって、信憑性を否定されている。
  18. ^ a b 喜多村家に伝わる『明智系図』には光秀の長女で菅沼定盈の妻とあるが、しかし、この資料は歴史学者の高柳光寿によって、信憑性を否定されている。

[編集] 参考文献

  • 小泉策太郎『明智光秀』、裳華書房、明30※近代デジタルライブラリー
  • 奥村恒次郎『明智光秀』、国立国会図書館、明43※近代デジタルライブラリー
  • 高柳光寿、日本歴史学会編『明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編 1)、1958、299p
  • 高柳光寿、日本歴史学会編『新装版明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編集)、1986、299p
  • 青木晃[ほか]編『畿内戦国軍記集(和泉選書 ; 39)』、和泉書院, 1989, 238p - 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
  • 藤田達生、『謎とき本能寺の変』、講談社(講談社現代新書#1685)、2003, 200p
  • 谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書)、中央公論新社1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
  • 『歴史群像 No.70』、学研、2006年- 史伝 明智光秀
  • 谷口克広、『検証- 本能寺の変』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー#232)、 2007, 263p

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォート明智光秀に関する引用句集があります。