明智光秀

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明智光秀
Akechi Mituhide.jpg
明智光秀像(本徳寺蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄元年(1528年[1]
死没 天正10年6月13日1582年7月2日
別名 通称:十兵衛、惟任日向守
号:咲庵
渾名:キンカ頭、三日天下様
幼名:彦太郎[2]
戒名 秀岳院宗光禅定門
前日洲条鉄光秀居士[3]
長存寺殿明窓玄智大禅定門[4]
墓所 谷性寺京都府亀岡市)、
西教寺滋賀県大津市)、
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町
官位 従五位下日向守
主君 斎藤道三朝倉義景
足利義昭織田信長
氏族 源姓土岐氏流明智氏
惟任賜姓
父母 父:明智光綱、母:お牧の方
養父:明智光安
兄弟 光秀信教康秀、あん
正室:煕子妻木範煕女)
前室・側室があったとの説もあり
光慶細川忠興正室)
ほか系譜の子女を参照

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向守。戦国大名織田信長に見出されて重臣の1人となった14年後に、本能寺の変で謀反を起こしたが、中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の合戦で敗れ、落ちていく途中、一説では小栗栖で落ち武者狩りの百姓から致命傷を受け、自害した。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。

本姓源氏で、のちに朝廷より惟任の姓を賜るが、家系清和源氏摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀とも言う。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

領地では善政を行ったとされ、忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社 (福知山市))もある。後世、江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、小説・映画・テレビドラマなどでもその人物がとりあげられている。

生涯[編集]

織田家仕官以前[編集]

清和源氏土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は江戸時代の系図で明智光綱明智光國明智光隆に分かれるが、または父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われる[5]土岐氏建武の新政から美濃で2百年余り守護を務め数10家の支族を輩出した[6]。生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる[1]。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる[7]

青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国守護土岐氏の一族[8][9]で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた[8]

永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝三好三人衆松永久秀によって襲殺されると、その弟義昭が姉婿である若狭国守護武田義統のもとに逃れた。直後から信長を含む各地の武将に上洛と将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが美濃平定前であり、義昭側は1566年永禄9年4月に織田・斎藤家の間に尾濃和睦を結ばせたが信長が破る形で8月29日出兵して流れた。信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は再度斎藤氏から美濃を奪取した織田信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。「細川家記」に1568年永禄11年6月23日の事として2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料に初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している[10]。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。[11]また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される[12]

小和田哲男は、将軍義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、離散後朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする[11]。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる[13][6]。なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことである[14]。これは末尾に名字だけで記載され、義昭にとって、光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四識家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、10余支族も幕府奉公衆となり土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。[6]

本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や興福寺多聞院英俊の『多聞院日記』は、もとは細川藤孝に仕える足軽中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があるなか共に信長との交渉に動いたので、当時には何らかの上下関係があったと見てよい[6]。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり[10]、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している[15][16]

両属から織田家直臣へ[編集]

その後、義昭と信長の両属の家臣となり、1568年(永禄11年)9日26日義昭の上洛に加わる。1569年(永禄12年)1月5日三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲するが、防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』の初登場となる。1569年4月頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)、丹羽長秀中川重政と共に織田氏支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う[17]。1569年10月信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。1570年元亀元年正月に信長が義昭を規制する「五箇条の条書」を通告するが宛先は光秀と朝山日乗で間に立ち義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れを信長名で全国の大名に出す。続いて同年3月1日将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より信長に天下静謐執行権が与えられる[18]

1570年(元亀元年)4月28日信長の武将として朝倉攻めで浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際の金ヶ崎の戦い池田勝正3千を主力に、秀吉と共に殿を務め防戦に成功する[19][20]。30日には光秀と丹羽長秀を若狭へ派遣し武藤友益から人質を取り城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃義昭から所領として山城久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(東寺百合文書)。1570年9月浅井朝倉軍との戦いの志賀の陣では配置されるが300から400人と戦力として大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した[21]。1571年元亀2年には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に大坂本願寺が挙兵し、信長と義昭に従軍し摂津に出陣した。同年9月12日比叡山焼き討ちで中心実行部隊として[22]武功を上げ近江国滋賀郡(約5万石)を与えられ、まもなく坂本城の築城にとりかかる。1571年2年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが、不許可となる[23]。1572年元亀3年4月河内の出兵に従軍するが、まだ義昭方とする史料がある[24]

1573年2月義昭が挙兵、石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。だが信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する[25]。同年7月にまたも足利義昭が槇島城で挙兵し光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され室町幕府は滅亡した。この後、旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など光秀に仕えたものも多い。同年坂本城が完成し居城とした。同年7月に村井貞勝京都所司代になるが、実際には1575年前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している[26][27]。1573年天正元年朝倉氏滅亡後に8月から9月まで光秀と秀吉と滝川一益が占領行政を担当した[28]。9月末から溝尾茂朝木下祐久津田元嘉が3人の代官として引き継ぐ[29]天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下、日向守に任官し、惟任日向守となる。

丹波支配と畿内方面軍の成立[編集]

城主となった光秀は、1575年越前一向一揆戦の、なで斬り殲滅戦に参加する。その後石山合戦高屋城の戦いに加わる。そして丹波攻略を任される。丹波は山続きでその間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であったが、同国人は親義昭派で以前は信長に従ったが義昭追放で敵に転じた[30]。まず1575年黒井城の戦いを開始し包囲するが、同軍していた八上城の波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。その後苦戦していた石山本願寺戦の天王寺戦に1576年天正4年4月出動するが、5月5日逆襲を受け司令官の塙直政が戦死する。光秀も、すぐに天王寺砦を攻めかかられ危ういところを信長が来援し助かる。だが23日に過労で重病となり死期をさまようが7月には回復する。しかし11月7日には、正室の煕子が坂本城で病死する。[31]

1577年雑賀攻めに従軍する。同年10月松永久秀信貴山城の戦いに参加し城を落とす。同月に丹波攻めを再開するが長期の戦いとなる。まず亀山城を落とし拠点とする。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地の転戦を往復して繰り返す。4月29日には、播磨へ毛利攻めの秀吉の援軍に派遣され、6月に神吉城攻めに加わる。10月下旬信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。光秀の娘が村重長男の村次の妻だが離縁させ、後に明智秀満に嫁がせる。1579年丹波攻めの最終段階に入り、2月包囲を続けていた八上城が飢えて落城。8月9日黒井城を落とし、ついに丹波を平定した。すぐ細川藤孝と協力して丹後も平定した。[32]信長は感状を出し褒め称え、この功績で、1580年これまでの近江国滋賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる[33]。丹波亀山城周山城を築城し、横山城を修築して、福智山城に改名した。黒井城の増築をして家老の斎藤利三を入れる。福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛した。

また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和筒井順慶等、近畿地方の織田大名の光秀の与力として配属される。光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する[34]。また、これら与力の所領を合わせると240万石ほどになり歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」」[35]と名付けている。

1581年には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。同年6月2日織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに変の4ヶ月前の『宗及他会記』の1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり、茶室の床の間は貴人の座の象徴であり、崇敬している様子がある[36]

1582年3月5日武田家との最終戦である甲州征伐に信長に従軍する。先行していた信忠軍団が戦闘の主力で今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。

本能寺の変[編集]

本能寺焼討之図

1582年5月家康饗応役だった光秀は秀吉の応援の求めに任務を解かれ、6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣するが、重臣には直前まで秘匿したが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣に主君信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。[37]本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされていなかった。本城は信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠たちを、応援に駆け付けた村井貞勝と嫡男村井貞成村井清次や信長の馬廻りたちと共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担との疑いで大坂で神戸(織田)信孝らに討たれた。

山崎の戦い[編集]

西教寺にある明智光秀とその一族の墓

光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆[38]、瀬田橋と居城を焼いて甲賀に退転し仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えたりした。6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持をまかせている。京都市内が騒動し混乱を憂いての事と思われるが、この時に兼見は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と謀反としている[39]。光秀はこの後、6月8日に安土を発って9日に昇殿して朝廷に銀5百枚や、五山や大徳寺に銀各百枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。[11][40]

だが、光秀と姻戚関係もある縁の深い与力で、味方するだろうと思っていた丹後一国支配の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶・義絶した。また、同じく大和一国を支配する与力の筒井順慶も羽柴秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた[41]。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に抑えられた事が大きいとルイス・フロイスが『日本史』で指摘している。

本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる天王山の麓山崎で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。

決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田勝入4000、中川清秀2500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8000の2万7千、但し4万の説もあり)に対し明智軍1万7千(1万6千から1万8千の説もあり、さらに1万余りの説もある。)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域では、3千程度しか展開できず、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており高山右近中川清秀等、現地で合体した諸勢の活躍に期待する他はなかった。

当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの通念とされていた見方がある。だがこれは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、創作だとしている[42]。また他には、秀吉側3万5千に対し、各城にも兵を残したため実数1万程度で劣勢であり、戦いが始まりわずかで最大の3千の斎藤利三隊が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある[11]。また別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の隘路を進撃する細くなった秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、秀吉軍の淀川沿いに指向して決戦を挑む秀吉勢の勢いをとめることができず、光秀は敗北したとされる[43]

同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖あるいは伝承本経寺付近の竹薮、又は醍醐か山科と当時の各日記でも場所は分かれているが、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて殺害された。竹槍で深手を負った光秀は自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという[44][45]。光秀の首は発見した百姓により翌日村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないで、さらされた後、6月24日両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(兼見卿記[46]。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀が10数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されて最期と悟った光秀は首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという[15]

安土城で留守を守っていた明智秀満は、14日山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが多くが逃亡し籠城戦も無理だと判断して、光秀と自分の妻子を殺し、城に火を放って炎上する中、自分たちも自害した。

また、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったともいわれ、谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという[要高次出典]光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。[要出典]

人物・評価[編集]

明智光秀の像(坂本城址公園内)
明智光秀首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。のちに五重石塔が作られ首塚として知られる。『兼見卿記』に記録された箇所にも概ねあたる。京都市東山区三条通白川橋下る東側
  • 従来の説では光秀は『天台座主記』[47]に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密だったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(門跡領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方[48]があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪の『和田秀純あて光秀書状』で、叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実な中心的な実行者だと判明した[11]
  • 高柳光寿は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている[49]
  • 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
  • 本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親斎藤利堯姉小路頼綱一色義定武田元明京極氏等、呼応する形で勢力を拡大している。(他に北条氏上杉氏紀伊伊賀国人衆等)。
  • 『フロイス日本史』中には、
    • 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
    • 「裏切りや密会を好む」
    • 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
    • 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
    • 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
    • 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
    • 「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
等の光秀評がある。鈴木眞哉藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
  • 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている。(宣教師に高山重友を説得させるためではあったが)
  • 西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。
  • ルイス・フロイスは本能寺の変のあと、摂津に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[50]。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる[51]光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである[52]しかし、4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である[11]
  • 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったためなりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状が「細川家記」収載「明智光秀公家譜覚書」にある[53]
  • 諸学に通じ、和歌茶の湯を好んだ文化人であった。光秀の連歌会参加の初見は1568年永禄11年だが詠んだ句は6句と少なくまだ未熟だった。しかし勉強したのか2年後1570年には8句を詠み、その後1574年天正2年には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。また当時の連歌の第一人者里村紹巴とその門派たちと交流し、1581年細川藤孝親子の招きで里村紹巴たちと9月8日出発し天橋立に遊び12日連歌会を行っている[54]。信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し『信長公記』では1578年天正6年正月に始められ許可者12名が総覧されたが、光秀は選ばれている[55]。この時、八角釜を拝領し、津田宗及に師事し、12回も茶会を催している[56]。1578年天正6年の初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事をすべて津田宗及が代役している[57]
  • 内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
  • 現代に至る亀岡市福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。
  • 亀岡市観光協会など光秀ゆかりの地の十数団体を中心に、明智光秀が主人公の大河ドラマの制作を目指す署名活動が行われている。また、亀岡市や細川ガラシャゆかりの長岡京市等の京都府内の7市町が、2014年度の大河ドラマ実現に向け、活動をして[58][59]、継続している[60]

江戸期の編纂書・軍記や伝承の不明説話[編集]

  • 光秀は1528年享禄元年に父は明智光隆、母は武田義統の妹の間に美濃多羅城で生まれた。「明智系図[61]
  • 20歳位の頃、芥川で光秀は大黒天の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという(山鹿素行山鹿語類より)。
  • 弘治2年1556年29歳の時に美濃を出て越前大野に行きいったん上洛し妻子を寺に預けてから、永禄3年1560年33歳から2年間で奥州盛岡から薩摩まで日本全国を回り各地の城がまえや民政を見聞したとする。ただし、吉田郡山城にいた毛利氏が安芸広島城にいたり、1560年永禄3年5月に桶狭間で死んだ今川義元が年末に生存していたり、伊達政宗が当時無関係の陸奥大崎にいたり、でたらめである[5]。(明智軍記)。
  • 流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つのような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという(太閤記 上和編より)。
  • 永禄5年(1562年)に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦う朝倉景行軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(小瀬甫庵太閤記より)。
  • 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一四方の的を25(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
    • 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。
  • ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(太閤真顕記)。
  • 他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、継室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
    • 婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた(しかしこの逸話は、立花宗茂母となる宋雲院高橋紹運に嫁ぐ際の話に酷似しており後世の創作とされる。
  • 愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時は一般的に行われていたものであった。
  • 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。(豊内記)。
  • 落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に小栗栖で竹槍で殺害された(天野信景随筆集『塩尻』)。小栗栖の作右衛門に鎗で脇腹を突きとおされ殺害された(山口幸充『嘉良喜随筆』、中山三柳『醍醐随筆』)。

辞世[編集]

西教寺にある
明智光秀公辞世句の碑

光秀の辞世とされる偈や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。

  • 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
    (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』[62]
  • 心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ[63]

伝承史跡[編集]

  • 明智藪
  • 胴塚 明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市山科区勧修寺御所内町にあり光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の鑓で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている[64]
  • 三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
  • 桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩は明治時代ゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという[65][要高次出典]
  • 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
  • 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
  • 谷性寺首塚 亀岡市宮前町の谷性寺に溝尾茂朝が、光秀の首を持ち帰って埋葬したと伝わる[64][66]
  • 盛林寺首塚 京都府宮津市喜多の盛林寺境内の首塚。細川家の旧領内で娘ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたと伝わる[64]

光秀の謎[編集]

出自[編集]

光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。

  • 進士信周の次男(「明智一族宮城家相伝系図書」)[5]
  • 美濃の明智から信長への使者御門重兵衛を気に入り明智を名乗らせ仕えさせた(天野信景の随筆集「塩尻」元禄元年1688年)[5]
  • 若狭国小浜刀鍛冶藤原冬広の次男(「若州観光跡録」)[5]
  • 土岐元頼の息子(『稿本美濃誌』土岐琴川 所収の美濃の伝説 1915年大正4年刊)

愛宕百韻の真相[編集]

愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都愛宕山愛宕神社)で開催した連歌会のことである。

光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、源頼政らによる以仁王の挙兵後鳥羽上皇承久の乱後醍醐天皇足利高氏らによる元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏平家北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。

しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[67]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。

なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

本能寺の変の原因[編集]

八上城で人質の母を殺される絵
恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長

本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。

怨恨説
主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
  • 信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた[68]
  • 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
  • 丹波八上城に人質として自身の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。これにより、激怒した八上城の家臣は光秀の母親を殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる(絵本太功記による創作とされる。実際は八上城内は兵糧が尽きており、餓死者が出る有様で、万策尽きて波多野方から降伏している)。
  • 天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられ、それを聞いた家臣が怒って安土城の堀や川に投げ捨てた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、魚が腐っている(肴が腐っている)というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざ台所に行き材料の魚鳥を吟味した説などがある。
  • 中国2国(出雲国石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。(明智軍記
  • 甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
  • ルイス・フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(日本史)。これを元に桑田忠親は著書『明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
野望説
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
恐怖心説
長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。
もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
理想相違説
信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説[69]
これは信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下の統一事業を目指したと歴史解釈したうえで、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説[70]
この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。
なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、与力大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川(管領家の分流)、筒井(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。清水義範の小説「金鯱の夢」での、光秀が織田軍団の無骨さや尾張弁にストレスを募らせていたという動機解釈はもちろんギャグであるが、こうした光秀グループ=外様の保守文化人集団という構造をすくいあげた点では、この説の変形でもある。
将軍指令説 / 室町幕府再興説
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
朝廷説
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明橋本政宣らの指摘がある)。
一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。
四国説
比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。藤田達生から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立の結果だと主張されている[71]
イエズス会説
信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子『信長と十字架』)。この説には大友宗麟豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
諸将黒幕説
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。
家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されている(松平信康#信康自刃事件についてを参照)。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代板倉勝重)。これの発展として「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」を日本テレビ時空警察」が採り上げている。「信長は、本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り、家康と共謀。光秀と家康は、『信長の命令による家康討ち』の計画を利用し、『信長討ち』にすり替えた」というものである。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていたため、本能寺での無警戒ぶりが、合点がいくというのである。また、家康が「安土招請」「堺見物」に不思議なまでに無警戒だった理由も合点がいくという主張である。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュというものである。
秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。詳細は豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説を参照。
他に少数意見として、細川幽斎や織田信忠が黒幕という説もある。
本能寺の変の直前に旧武田の家臣、穴山梅雪が共に安土城に信長を訪ねている。確証はないが、武田氏を滅ぼされた梅雪が光秀とともに信長に滅ぼされた伊賀忍者や延暦寺の残党と謀り信長を暗殺した可能性も考えられる(梅雪自身は本能寺の変の直後に、領国の甲斐に戻ろうとしたが落ち武者狩りの土民に殺害されている)。

南光坊天海説[編集]

光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍したで、その経歴には不明な点が多い。

日光東照宮 陽明門 随身像

異説の根拠として、

  1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[72]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
  2. 日光明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があること[73]。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
  3. 徳川秀忠徳川家光は光秀、徳川家綱は光秀の父の明智光綱徳川家継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
  4. 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
  5. 学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、その時、着たとされる鎧が残っていること[74]
  6. 光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になったこと
  7. 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
  8. テレビ東京が特別番組で天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている[75]
  9. 童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[76]

しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。

  • 日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[77]
  • 寛永寺の公式記録では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。
  • 天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。
  • 比叡山の石碑に関しては後世の偽造との説も出ている。
  • 天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する)が生じる。
  • 諱についても秀忠の秀の字は結城秀康毛利秀元小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
  • 関ヶ原の戦いで西軍に与した光秀と懇意であった長宗我部氏の処分に異を唱えたことが見受けられない。 

系譜[編集]

明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。

発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)とされる。

系図[編集]

続群書類従』所収の「土岐系図」による。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。

土岐頼貞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼清
 
頼遠
 
頼基
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明智頼重1
 
 
 
頼篤2
 
国篤3
 
頼秋4
 
頼秀5
 
頼弘6
 
頼定7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼尚8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼典9
 
頼明
 
 
 
 
 
 
 
 
光綱10
 
定明
 
 
 
 
 
 
 
 
光秀11
 
土岐定政
  • 系図纂要』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。頼清の嫡男である頼康の子・頼兼を明智氏初代とする。その7代目の子孫が明智光継であり、その子を光綱、そしてその子が光秀とある。
  • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後に光継と改名したという。欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。

父母兄弟[編集]

  • 父親は名を光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。
  • 母親は若狭武田氏の出身で名をお牧の方と伝わる。『総見記』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実かは不明。
  • 光秀に兄弟がいたとするものは、『鈴木叢書』収録の「明智系図」による。次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。
  • 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
    • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。熊本県菊池市の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。
    • 『若州観跡録』では、若狭国の刀鍛冶・冬広の次男としている。

妻室[編集]

妻は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)が有名。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある[78]

子女[編集]

子女については俗説が非常に多い。

縁戚[編集]

叔父叔母
従兄弟
  • 『明智軍記』では、光安の子に光春、光久の子に光忠、光廉の子に光近があるとする。
  • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて光安の子に光景柴田勝定の室、ほか二女があったという。
子孫
  • 織田昌澄 - 光秀の外孫にあたり、大坂の役で豊臣方に加わるが助命され、子孫は旗本となる。
  • 細川忠隆 - 細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。
  • 細川忠利 - 細川忠興の三男。熊本藩初代藩主。
  • 細川隆元細川隆一郎 - 細川忠隆の子孫。細川隆一郎は隆元の甥。
  • 明智ハナエリカ - 明智の末裔(2011年現在)歌手。母・イタリア系メキシコ人NHKイタリア語講座に出演。2004年アイフルのCMソング「恋の技を決めてあなたを振り向かせる」を発売。
  • 光秀の長女・次女の系統まで含めれば末裔は少なくないが、熊本藩主細川忠利の系統は第8代で男子なく分家より養子を迎えたために光秀の血は途切れている。
  • 自称明智氏の子孫で坂本城に由来するという坂本龍馬の坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。
  • クリス・ペプラーALAN J - ペプラー家の母方の祖母が子孫の一人だと語ったという。

家臣[編集]

美濃衆


旧幕臣
近畿衆


丹波衆


祭礼・イベント[編集]

関連作品[編集]

文学
映画
テレビドラマ
舞台
漫画
歌謡曲
TRPGリプレイ

脚注[編集]

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  1. ^ a b 『明智軍記』では没年が天正10年(1582年6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年8月17日)。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)などもある(谷口克広「信長と消えた家臣たち」 中公新書(2007年) ISBN 978-4-12-101907-3)。
  2. ^ 続群書類従 明智系図
  3. ^ 盛林寺(京都府宮津市喜多)
  4. ^ 天竜寺(日本一184mの位牌)、首塚石碑
  5. ^ a b c d e 『明智光秀』桑田忠親 1983年 講談社文庫
  6. ^ a b c d 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.15・30-33・82-83 2014年 洋泉社歴史新書y
  7. ^ 他に、恵那市明智町明知城や、山県市美山出身などの伝承もあるが、前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い。
  8. ^ a b 「遊行三十一祖 京畿御修行記」遊行同念の旅行記に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十ヶ年居住していた」と記述。『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 2014年 洋泉社歴史新書y
  9. ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者で立入宗継入道隆左の「立入左京亮入道隆左記」にも光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述。『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 2014年 洋泉社歴史新書y
  10. ^ a b 『明智光秀』高柳光寿 P.6-9・20 1958年 吉川弘文館
  11. ^ a b c d e f 『明智光秀―つくられた「謀反人」』小和田哲男 1998年 PHP新書 ISBN 978-4-56-960109-0
  12. ^ 『明智光秀』桑田忠親 P.47 1983年 講談社文庫
  13. ^ 長節子「所謂『永禄六年諸役人附』について」『史学文学』四巻一号 "前半に1563年永禄6年正月~翌年2月ごろの奉公衆、後半に1566年永禄9年8月~翌年10月ごろの奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたもの"との論文。
  14. ^ 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』藤本正行 P.48 洋泉社歴史新書y 2010年
  15. ^ a b 『『信長記』と信長・秀吉の時代』金子拓 P.214 収載『太田牛一旧記』P.310-312 勉誠出版 2012年
  16. ^ 〈「一僕の身」は中世から江戸にかけての慣用句で小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方〉『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』藤木久志 P.116・117 朝日選書 2005年
  17. ^ 『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』谷口克広 2005年 中公新書
  18. ^ 『織田信長合戦全録』谷口克広 P.78-82 2002年 中公新書
  19. ^ 武家雲箋」所収一色藤長書状による。『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』藤本正行 P.51 2010年 洋泉社歴史新書y
  20. ^ 『織田信長合戦全録』谷口克広 P.86 2002年 中公新書
  21. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.69-72 2014年 洋泉社歴史新書y
  22. ^ 雄琴の土豪、和田秀純あて「仰木攻めなで切り」命令書『明智光秀―つくられた「謀反人」』小和田哲男 1998年 PHP新書
  23. ^ 義昭近臣の曾我助乗あて暇書状『明智光秀―つくられた「謀反人」』小和田哲男 1998年 PHP新書
  24. ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している。『明智光秀』高柳光寿 P.68 1958年 吉川弘文館
  25. ^ 『信長と将軍義明』谷口克広 P.136-149 中公新書 2014年
  26. ^ 『信長の天下所司代』谷口克広 P.53-54 2009年 中公新書
  27. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.113-117 2014年 洋泉社歴史新書y
  28. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.100 2014年 洋泉社歴史新書y
  29. ^ 『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」信長の本知安堵北庄三人衆「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧
  30. ^ 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』藤本正行 P.54 2010年 洋泉社歴史新書y
  31. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.128-129 2014年 洋泉社歴史新書y
  32. ^ 『織田信長合戦全録』谷口克広 P.188-194 2002年 中公新書
  33. ^ 『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』谷口克広 P.204-206 中公新書 2005年
  34. ^ 『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』谷口克広 P.204 中公新書 2005年
  35. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館
  36. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人 <「床の間」引用元は、『角川茶道大辞典』>2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  37. ^ 『検証 本能寺の変』谷口克広 P.42-48 2007年 吉川弘文館
  38. ^ 景隆の実弟である山岡景猶が光秀の与力近江衆の一員だった
  39. ^ 『検証 本能寺の変』谷口克広 P.65 2007年 吉川弘文館
  40. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 223-226頁
  41. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 244・245頁
  42. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 249・250頁
  43. ^ 大橋武雄「状況判断」マネジメント社 P.133~158
  44. ^ 『明智光秀』高柳光寿 P.250・251 1958年 吉川弘文館
  45. ^ 18日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている。「浅野家文書」『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.202-207 2014年 洋泉社歴史新書y
  46. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.202-207 2014年 洋泉社歴史新書y
  47. ^ 「続群書類従」所収
  48. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 272頁
  49. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 272・287・288頁
  50. ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、五百名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)
  51. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 251・252頁
  52. ^ 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 洋泉社新書y 2006年
  53. ^ 『明智光秀』高柳光寿 1958年 吉川弘文館 243・244頁
  54. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.217-220 2014年 洋泉社歴史新書y
  55. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人 <研究引用元は、「織田政権における茶湯の湯」竹本千鶴>2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  56. ^ 『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.320-324 2014年 洋泉社歴史新書y
  57. ^ 『明智光秀』桑田忠親 P.230・231 1983年 講談社文庫
  58. ^ “大河ドラマわが町に 誘致準備会発足 長岡京など7市”. 京都新聞 (京都新聞社). (2010年11月20日). オリジナル2010年11月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101122223325/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101120000042 
  59. ^ “光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会”. 京都新聞 (京都新聞社). (2011年3月29日). オリジナル2011年4月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110401150553/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110329000054 
  60. ^ NHK大河ドラマ誘致推進協議会ホームページ 2015年1月24日確認
  61. ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)は、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく信用できない。『明智光秀 浪人出身の外様大名』谷口研語 P.18-19 2014年 洋泉社歴史新書y
  62. ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
  63. ^ 真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」
  64. ^ a b c 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「明智光秀の「首塚」- その伝承が語る人間像」室井康政 2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  65. ^ 亀岡市老人クラブ連合会『ふるさと亀岡乃ちゑ』1982年
  66. ^ 谷性寺
  67. ^ 「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』
  68. ^ フロイス日本史、およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している「柏崎物語」では本能寺の変の1ヶ月前の出来事としており柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時勝家は北陸前線で釘付けの状態であり酒宴に参加できる状態ではない事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
  69. ^ NHK「その時歴史が動いた-本能寺の変・激突!改革か安定か-」[出典無効]
  70. ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
  71. ^ 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」、小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』所収 和泉書院、2006年
  72. ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
  73. ^ 明智平」『日光パーフェクトガイド』 日光観光協会編、下野新聞社1998年3月30日ISBN 4-88286-085-62012年4月19日閲覧。
  74. ^ 大阪城博物館
  75. ^ ただし、2000年8月6日放送のTBS系列『日立 世界・ふしぎ発見!』では「天海と光秀は別人」と言う結果が出ている。
  76. ^ 「陰謀と暗号の歴史ミステリー」(平成20年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社笠倉出版社)によると、光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市貝塚市)になる。
  77. ^ そもそも桔梗紋は清和源氏の一族が使用した家紋であり、「土岐桔梗」や「大田桔梗」など種類も少なくない。また光秀の用いた桔梗紋は、水色桔梗と言い、水色に彩色された紋を用いるのが通常である。
  78. ^ 黒川真道 国立国会図書館デジタルコレクション 『美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記』 国史研究会〈国史叢書〉、1915年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838/96 国立国会図書館デジタルコレクション 
  79. ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
  80. ^ 愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物である言われる。
  81. ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
  82. ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
  83. ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
  84. ^ 経歴は『明智軍記』における十二郎と、明智光春のものを混同している。
  85. ^ 『明智軍記』における十二郎の幼名。
  86. ^ 濃姫姉小路頼綱の室の生母がいるという。
  87. ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、「絵本太功記」や「明智軍記」の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
  88. ^ タイトルは「太閤記」になっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされる危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。

参考文献[編集]

  • 小泉策太郎『明智光秀』、裳華書房、1897年※近代デジタルライブラリー
  • 奥村恒次郎『明智光秀』、国立国会図書館、1910年※近代デジタルライブラリー
  • 高柳光寿、日本歴史学会編『明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編 1)、1958年、299p
  • 高柳光寿、日本歴史学会編『新装版明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編集)、1986年、299p
  • 青木晃[ほか]編『畿内戦国軍記集(和泉選書 ; 39)』、和泉書院、1989年、238p - 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
  • 藤田達生『謎とき本能寺の変』、講談社(講談社現代新書#1685)、2003年、200p
  • 谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書)、中央公論新社1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
  • 『歴史群像 No.70』、学研、2006年- 史伝 明智光秀
  • 谷口克広『検証- 本能寺の変』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー#232)、2007年、263p
  • 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名』 2014年 洋泉社歴史新書y
  • 永井寛『明智光秀』、三一書房、1999年
  • 『世界人物逸話大事典』、角川書店

関連項目[編集]

外部リンク[編集]