日光東照宮
| 日光東照宮 | |
|---|---|
| 所在地 | 栃木県日光市山内2301 |
| 位置 | 北緯36度45分29.03秒 東経139度35分56.25秒 |
| 主祭神 | 徳川家康公 (相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿 |
| 社格等 | 別格官幣社 |
| 創建 | 元和3年(1617年) |
| 本殿の様式 | 権現造 |
| 例祭 | 5月17日・18日 |
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
目次 |
歴史 [編集]
- ※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。同年4月(4月)は旧暦4月(新暦4月)、同年4月(4月か5月)は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。
沿革 [編集]
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された。同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州[1]の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。
社殿に見える動物 [編集]
日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物の木彫像を見ることができる。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。
神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守る動物であるという伝承から用いられている。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。日光の木彫像の中で眠り猫に続いてよく知られている、「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿は、この神厩舎に造られたものの1枚に過ぎない。なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えである。
日光東照宮と陰陽道 [編集]
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという、そのため、陽明門前の写真店屋のある辺りが気学における四神相応(しじんそうおう)の土地相といわれている。ただし、Google Earth から経緯度を取得すると、江戸城本丸から日光東照宮本殿への方位角は353度16分20秒(6度43分40秒西振れ)となり、およそ南北の位置関係にあると言える程度である。
文化財 [編集]
建造物 [編集]
- 国宝(8棟)
- 本殿、石の間及び拝殿 合1棟
- 正面及び背面唐門 2棟
- 東西透塀 2棟
- 陽明門
- 逆柱(さかばしら)がある。
- 東西回廊 2棟(附 潜門)
- 重要文化財(34棟)
- 上社務所
- 神楽殿
- 神輿舎
- 鐘楼
- 鼓楼
- 本地堂
- 経蔵
- 本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による「管理団体」に指定されている。
- 上神庫
- 中神庫
- 下神庫
- 水屋
- 神厩
- 表門(附 簓子塀)
- 五重塔
- 石鳥居
- 坂下門
- 奥社宝塔(銅製)(附 銅製華瓶・燭台・香炉)
- 奥社唐門(銅製)(附 銅製狛犬2躯)
- 奥社石玉垣
- 奥社拝殿
- 奥社銅神庫
- 奥社鳥居(銅製)
- 奥社石柵(附 石狛犬2躯)
- 仮殿本殿、相之間、拝殿 1棟
- 仮殿唐門
- 仮殿掖門及び透塀 2棟
- 仮殿鳥居(銅製)
- 仮殿鐘楼(附 石燈籠2基)
- 御旅所本殿(附 石舞台、東遊再興記石碑)
- 御旅所拝殿
- 御旅所神饌所(附 渡廊)
- 旧奥社唐門(石造)
- 旧奥社鳥居(石造)
- 旧奥社唐門と旧奥社鳥居の2棟は、17世紀半ばの地震で倒壊した後、山中に埋められ、銅製の鳥居と門に建て替えられた。その後1967年に発掘され、東照宮宝物館脇に復元・再建された。
(以下は「附」(つけたり)指定物件)
- 参道(石鳥居以内)
- 鐘舎(鐘楼前)
- 燈台(鐘楼前、蓮燈籠)
- 燈台穂屋(鼓楼前、回転燈籠)
- 燈台穂屋(鼓楼前、釣燈籠)
- 銅神庫
- 渡廊(所在:陽明門東方回廊と社務所の間)
- 銅庫門(附 板塀)
- 非常門(附 銅板塀)(所在:中神庫北方)
- 鳥居(銅製)
- 内番所
- 西浄
- 東通用御門(所在:下神庫東方)
- 石柵(陽明門前、鐘楼・鼓楼前、非常門脇、表門前、五重塔周囲)
- 銅燈籠16基
- 鉄燈籠2基
- 石燈籠104基
美術工芸品 [編集]
- 国宝
- 太刀 銘助真
- 太刀 銘国宗
- 重要文化財
- 紙本著色東照宮縁起 画狩野探幽筆
- 剣 銘久国弘安三年三月日
- 小文地葵紋付胴服
- 太刀 銘一(福岡一文字)
- 太刀 銘吉房
- 短刀 無銘伝行光作
- 南蛮胴具足
- 脇指 銘備前国住長船勝光宗光備中於草壁作 文明十九年二月吉日
- 寛永諸家系図伝(真名本)
- 蒔絵箱入紙本墨書東照社縁起
- 渾天儀 寛文十年酒井忠直奉納(銅製)
世界遺産等 [編集]
交通アクセス [編集]
- 駐車場:有り
脚注・出典 [編集]
- ^ 江戸時代には、関東地方は関八州と呼ばれ、武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八国を指した。
参考文献 [編集]
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、41頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、263-264頁
- 菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、40-44頁
- 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、72-73頁
- 『神道の本』学研、1992年、213頁
関連項目 [編集]
- 世界遺産
- 日光の社寺
- 国宝一覧
- 輪王寺(家光霊廟大猷院)
- 増上寺(徳川家菩提寺)
- 寛永寺(徳川家菩提寺)
- 大樹寺(徳川家菩提寺)
- 久能山東照宮 - 最古の権現造。
- 日吉東照宮 - 社殿が日光東照宮の雛形とされる。
- 世良田東照宮(1616(元和3)年社殿を1644(寛永21)年移築創建)
- 日光山縁起
- 板垣退助(戊辰戦争の際、日光東照宮を戦火から守った)
- 内山永久寺 - 西の日光と呼ばれた壮大な伽藍は明治初年の廃仏毀釈で消滅した。
外部リンク [編集]
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