足利尊氏
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| 時代 | 鎌倉時代末期 - 室町時代初期 | |||
| 生誕 | 嘉元3年(1305年) | |||
| 死没 | 正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日) | |||
| 改名 | 又太郎、高氏、尊氏 | |||
| 戒名 | 等持院殿仁山妙義大居士 長寿寺殿 |
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| 墓所 | 京都府京都市北区萬年山等持院 神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺 |
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| 官位 | 権大納言、征夷大将軍、正二位、 贈従一位左大臣、贈太政大臣 |
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| 幕府 | 室町幕府征夷大将軍 (在任1338年 - 1358年) |
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| 氏族 | 清和源氏足利氏族(足利将軍家) | |||
| 父母 | 足利貞氏、上杉清子(上杉頼重の娘) | |||
| 兄弟 | 高義、尊氏、直義 | |||
| 妻 | 正室:赤橋登子(北条守時の妹)、他 | |||
| 子 | 義詮、基氏、頼子、直冬、他 | |||
足利 尊氏(あしかが たかうじ、1305年-1358年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。
本姓は源氏。河内源氏の名門足利氏嫡流足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。
後醍醐専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより後醍醐との関係が悪化し、上洛して一時は後醍醐を比叡山へ追いやったが、後醍醐勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐は吉野へ遷り南朝を創始した。
幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐が崩御(死去)した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。
(後醍醐)天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生から鎌倉幕府滅亡
尊氏は嘉元3年(1305年)に生まれた。生誕地は、綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。『難太平記』は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。『難太平記』によれば、尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。『古典太平記』は、これにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。
翌元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。
高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。
[編集] 建武の新政から南北朝動乱
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、またに30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。
後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守府将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。
建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、同年8月2日、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月19日には鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に会った尊氏は同年2月、京都を放棄して赤松円心の進言を容れて九州に下った。
九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜(福岡市東区)での多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した。
京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月に京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。
[編集] 観応の擾乱から晩年まで
延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職 1338年 - 1358年)、ここに、後に室町幕府と呼ばれることになる武家政権が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で死去すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。 南朝との戦いでは新田義貞の弟・脇屋義助を撃破し越前から駆逐することに成功。楠木正成の遺児・楠木正行も四条畷で討ち取り、吉野を焼き討ちにするなど戦果をあげた。
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ、自らは武士の棟梁として君臨した。佐藤進一は「室町幕府論」(『岩波講座日本歴史7』、岩波書店、1963)において、この状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した。二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こしていき、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていたが、師直派に擁立されてしまう。正平4年/貞和5年(1349年)、襲撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなったが、直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説がある。
尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、尊氏も直義に摂津国打出浜(兵庫県西宮市)で敗れた。尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351年)に和議が成立した。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺されている。
直義は義詮の補佐として政務に復帰した。尊氏・義詮は佐々木道誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。この動きに対して直義は北陸方面へ脱出して鎌倉へ逃げた。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。平行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。
その直後に宗良親王、新田義興・義宗、北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ戻った。その後足利直冬が京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年/文和3年(1354年)にも京都を南朝に一時奪われるが、翌年奪還した。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、正平13年/延文3年4月30日(1358年)、背中に出来た癰(よう、腫物)のため、京都二条万里小路邸にて死去した。享年54。
[編集] 年表
| 和暦 | 北朝 | 南朝 | 西暦 | 月日 (旧暦) |
内容 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 嘉元3年 | 後二条天皇 | 後二条天皇 | 1305年 | 生誕 | ||
| 元応元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1319年 | 10月10日 | 従五位下治部大輔に叙任 | 公卿補任 |
| 元応2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1320年 | 9月5日 | 治部大輔辞任 | 公卿補任 |
| 元徳2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1330年 | 6月18日 | 嫡子義詮誕生 | |
| 元弘2年 正慶元年 |
光厳天皇 | 光厳天皇 | 1332年 | 6月6日 | 従五位上に昇叙。 | 公卿補任 |
| 元弘3年 正慶2年 |
後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1333年 | 6月5日 | 鎮守府将軍。内昇殿許される。 | |
| 6月12日 | 従四位下左兵衛督に昇叙転任。 | |||||
| 8月5日 | 従三位に昇叙し、武蔵守兼任。名を尊氏と改める。 | |||||
| 元弘の乱 | ||||||
| 建武元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1334年 | 1月5日 | 正三位に昇叙。 | |
| 9月4日 | 参議に補任。左兵衛督如元。 | |||||
| 建武2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1335年 | 7-8月 | 中先代の乱 | |
| 8月9日 | 征東将軍宣下。 | |||||
| 8月30日 | 従二位に昇叙。 | |||||
| 11月26日 | 征東将軍を止む。 | |||||
| 延元元年 建武3年 |
光明天皇 | 後醍醐天皇 | 1336年 | 2月頃 | 北朝方、多々良浜の戦い | 太平記 |
| 5月25日 | 北朝方、湊川の戦い | 太平記 | ||||
| 11月26日 | 北朝方、権大納言に転任 | |||||
| 延元3年 暦応元年 |
光明天皇 | 後醍醐天皇 | 1338年 | 北朝方、建武式目制定。 | ||
| 8月11日 | 北朝方、正二位に昇叙。征夷大将軍宣下。 | |||||
| 興国元年 暦応3年 |
光明天皇 | 後村上天皇 | 1340年 | 3月5日 | 次男基氏誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。 | |
| 正平5年-6年 観応年間 |
崇光天皇 | 後村上天皇 | 1350年 -51年 |
南朝方、観応の擾乱。征夷大将軍解任。 | ||
| 正平7年 文和元年 |
後村上天皇 | 1352年 | 2月26日 | 弟直義死去 | ||
| 正平13年 延文3年 |
後光厳天皇 | 後村上天皇 | 1358年 | 4月30日 | 死去。 | |
| 6月3日 | 贈従一位左大臣。 | |||||
| 弘和元年 永徳元年 |
後圓融天皇 | 長慶天皇 | 1381年 | 4月28日 | 追贈太政大臣 |
[編集] 人物
『梅松論』などによると、尊氏は後醍醐に背いて朝敵となったことを悔やんで一時は出家を宣言したり、合戦で苦戦した際には切腹すると言い出すなどの記述があり、佐藤進一は尊氏を躁鬱病ではないかと推測している。個人的に親交のあった夢窓疎石は、尊氏の徳を評価した文章を残している。尊氏は傘下の武将たちへの恩賞を惜しむことがなく、そのことが苦境に立たされても常に武将たちの支持が得られた理由だとする見解もある。
[編集] 後世の評価
尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。水戸学は朱子学名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。
明治時代になると、明治政府の立場から天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史観が構築されていったが、それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の中興・明治維新が最も重要な改革に位置づけられた。明治中期までは近代的歴史学による実証的研究から後醍醐天皇・南朝の正統性はそれほど強調されていなかったが、明治40年代に入り、南北朝正閏論争を経て、後醍醐天皇・南朝の正統性が強く主張されていき、それに伴って尊氏に対する否定的な評価が確定することとなった。戦前の国定教科書には「天皇に弓を引いた逆臣」と書かれており、斎藤実内閣の中島久万吉商工大臣が尊氏を礼賛した文章を書いたために辞任する事件も起こった。
戦後になると、国家主義的な歴史観が大きく後退し実証主義的な歴史研究が進展したことに伴い、尊氏の再評価が進められた。佐藤進一による主従制的支配者としての尊氏の評価はその一例であり、これは武家政権に関する研究が大きく進展する契機となった。現代の歴史研究において、尊氏を逆賊とする見解は存在せず、むしろ明治期に尊氏が逆賊とされるようになるまでの経過が歴史研究の一テーマになることもある。文化面においても、吉川英治が昭和30年代に書いた『私本太平記』は尊氏を主人公としているが読者に広く受け入れられており、尊氏への評価が戦前のものから大きく変化していることがわかる。
海音寺潮五郎や井沢元彦は後醍醐天皇に止めを刺し損ねた点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」と厳しい評価を下している。
[編集] 尊氏の肖像
京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は尊氏の肖像として一般に知られていたが、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利氏の家紋ではないこと(高氏の家紋が輪違)などの理由から、足利家執事高師直あるいはその子の高師詮の肖像とする説が有力視されており、現在では尊氏説は否定されている。
鎌倉時代に藤原隆信が描いたとされる国宝神護寺三像のうち伝平重盛像は、平重盛を描いたものと考えられてきたが、1990年代半ばに美術史家の米倉迪夫や黒田日出男らによって尊氏像であるとの説が提示され、広い支持を集めている。等持院所蔵の尊氏木像との比較や、冠をとめる笄(こうがい)が室町初期に流行した形状であることなどが根拠として挙げられている。広島県尾道市の浄土寺にも尊氏を描いたとされる肖像画が所蔵されている。
その他、江戸時代に描かれた錦絵に歌川国芳の「太平記兵庫合戦」(兵庫・福海寺で尊氏を探す、白藤彦七郎)、歌川芳虎の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)、橋本周延の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)等がある。
尊氏の木像は、足利氏の菩提寺である京都の等持院、大分県国東市の安国寺 (国東市)等に所蔵されている。また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府綾部市安国寺町に設置されている。
[編集] 系譜
[編集] 関連項目
[編集] 史料
[編集] 文献
- 山路愛山「足利尊氏」(岩波文庫)岩波書店 1949年
- 桑田忠親「足利将軍列伝」秋田書店 1975年
- 高柳光寿「足利尊氏」(新装版)春秋社 1987年9月 ISBN 4393482077
- 松崎洋二「足利尊氏」新人物往来社 1990年3月 ISBN 9784404017031
- 会田雄次ほか「足利尊氏」思索社 1991年1月 ISBN 4783511616
- 小松茂美「足利尊氏文書の研究」(研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇の全4冊)旺文社 1997年9月 ISBN 4010711434
- 上島有(うえじまたもつ)「足利尊氏文書の総合的研究.(本文編・写真編)」国書刊行会 2001年2月 ISBN 4336042845
- 佐藤和彦監修「足利尊氏」(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ4)ポプラ社 2003年4月 ISBN 4591075532
- 櫻井彦(さくらいよしお)・樋口州男(ひぐちくにお)「足利尊氏のすべて」新人物往来社 2008年9月 ISBN 9784404035325
[編集] 小説
- 吉川英治「私本太平記(全13巻)」毎日新聞社 1959年~1962年。講談社からは、「吉川英治歴史時代文庫」の一環として、全7巻にて1990年2月~同年4月の間に発刊。(1)1990年2月 ISBN 4-06-196563-8 (2)1990年2月 ISBN 4061965646 (3)1990年3月 ISBN 4061965654 (4)1990年3月 ISBN 4061965662 (5) 1990年4月 ISBN 4061965670 (6) 1990年4月 ISBN 4061965689 (7) 1990年4月 ISBN 4061965697
- 山岡荘八「新太平記(全5巻)」講談社 1971年~1972年。また、1986年8月~同年11月の間に「山岡荘八歴史文庫」の一環として全5巻で発刊。
- 大森隆司「足利尊氏:室町幕府を開いた男(上)(下)」下野新聞社 (上)1989年6月 ISBN 4882860015 (下)1989年11月 ISBN 4882860031
- 村上元三「足利尊氏(上)(下)」(徳間文庫)徳間書店 1991年4月 (上)ISBN 419599179X (下)ISBN 4195991803
- 童門冬二「足利尊氏」富士見書房 1994年12月 ISBN 4829112581
- 杉本苑子「風の群像(上)(下)」日本経済新聞社 1997年6月 (上)ISBN 4-532-17050-8 (下)ISBN 4532170516 また、講談社からも講談社文庫として上下二巻で2000年9月発刊。(上)ISBN 4062649950 (下)ISBN 4062649969
- 桜田晋也「足利尊氏」祥伝社 1999年9月 ISBN 4-396-32714-5 ※1988年角川書店発刊の「足利高氏」の改訂版として発刊。
- 森村誠一「太平記(1)~(6)」(角川文庫)角川書店 (1)2004年12月 ISBN 9784041753651 (2)2004年12月 ISBN 9784041753668 (3)2005年1月 ISBN 9784041753675 (4)2005年1月 ISBN 9784041753682 (5)2005年2月 ISBN 9784041753699 (6)2005年2月 ISBN 9784041753705
[編集] TVドラマ
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| 室町幕府将軍 |
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| 尊氏 | 義詮 | 義満 | 義持 | 義量 | 義教 | 義勝 | 義政 | 義尚 | 義材 | 義澄 | 義稙(義材再任) | 義晴 | 義輝 | 義栄 | 義昭 足利氏 - 将軍家 |

