茶道

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茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。

茶道(さどう、ちゃどう)とは、日本伝統の湯を沸かし、を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道

元来「茶湯」(ちゃとう)「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。海外では「Japanese tea ceremony(=茶の儀式)」として岡倉天心が紹介し、以後その名前で定着する。

主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具茶室床の間にかける語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。

現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。

広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。
草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵)
草庵風茶室の例(如庵)

歴史[編集]

初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。

茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。従来この飲茶習慣は根付かず廃れてしまったと考えられていたが、最近では貴族や僧の間で継続的に愛好されていたと考えられている。

鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。

室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国茶器唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。一方で平安初期以来の団茶系統の茶も寺家の間では続いていたと考えられ、これがやがて煎茶の勃興にいたる。

わび茶はその後、町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷細川三斎牧村兵部瀬田掃部古田織部芝山監物高山右近利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。

江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「わび・さび」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた(禅の極端化にも共通する過度の精神主義であるし、「粋な自分」を誇示する、本来の茶道とは外れた行為でもある)。

他方でこのような遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになる。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。

江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた。同時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶に改めて煎茶の作法を定めたのが煎茶道である。煎茶道は漢詩の文人文化を中心に広まり様式確立されていった。煎茶を好んだ著名人として江戸初期の石川丈山、中期に上田秋成、後期には頼山陽の名が挙げられる。当初は「煎(に)る茶」であった煎茶だが中国での流行の影響や茶葉生産の改良を受けて「掩(だ)し茶」に変わっている。

明治時代になると、封建制度が崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道が女子の教養科目として組み込まれた。このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素も獲得し、今では美しい着物姿での華やかな茶会が当たり前になっている。また明治の同時期に鳥尾得庵、田中仙樵(後に大日本茶道学会を創設)は、利休が千家三流派など各流派へ茶道を分けたのではなく元々一つの流であったと唱え、多くの流儀の茶人達の旧幕時代からの伝承を一堂に集めて研究し、その成果を一般人へ発表することで日本の茶道を再び創り出そうとした。戦後は海外にも茶道は広まり、茶道の大衆化は世界的レベルとなっている。

ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心がアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を1906年(明治39年)に出版紹介した。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般的になった(岡倉は「茶の本」において、欧米人にとっての「茶道」への近似体験として、「ティーパーティでのホストの心遣い」を挙げ理解を促した)。

1980年代初め頃には、日本の茶道の所作中国茶(茶芸)に用いられるようになった。現在の中国茶(茶芸)の「茶巾をたたむ」所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。[要出典]

茶道の流派[編集]

千利休像(長谷川等伯筆)

千利休以前の諸流派[編集]

流派と言うべきか定かではないが以下のような呼び習わしがあった。

この時期の創始と伝えられ現存するものには以下がある。

千利休と同時期の創始による流派[編集]

多くは武野紹鴎の門人か千利休の直弟子を創始者とするものであり、利休の影響はうけつつも「宗旦流」とは異なる独自の茶風を形成している。今日、武家茶道と呼ばれる流派の多くはここに見ることができる。

  • 利休流 (りきゅうりゅう) 利休の門人、円乗坊宗円の流れ
  • 藪内流 (やぶのうちりゅう) 藪内剣仲 利休と兄弟弟子
  • 東藪内流(あづまやぶのうちりゅう) 華道宣法未生流と共に伝えられ神奈川・青森などに見られる
  • 南坊流(なんぼうりゅう) 南坊宗啓始祖
  • 織部流 (おりべりゅう) 古田織部 利休七哲の一人
  • 上田宗箇流 (うえだそうこりゅう) 上田宗箇 古田織部の門人
  • 遠州流 (えんしゅうりゅう) 小堀遠州 古田織部の門人
  • 小堀遠州流 (こぼりえんしゅうりゅう) 小堀遠州 古田織部の門人
  • 大和遠州流 (やまとえんしゅうりゅう) 小堀蓬雪 小堀遠州三男
  • 安楽庵流 (あんらくあんりゅう) 安楽庵策伝(現存するか不明)
  • 玉川遠州流(たまがわえんしゅうりゅう) 大森漸斎 小堀遠州の門人
  • 有楽流 (うらくりゅう) 織田有楽
    • 貞置流(さだおきりゅう) 織田貞置( 織田有楽の甥信貞の子)以降の有楽流を貞置流とも呼んだ
  • 三斎流 (さんさいりゅう) 一尾伊織 利休七哲の一人細川三斎の門人
  • 御家流(おいえりゅう) 安藤信友 一尾伊織の門人米津田賢に師事
  • 肥後古流(ひごこりゅう) 熊本藩で伝承され利休の流儀をそのまま伝えていると称される
    • 古市流 (ふるいちりゅう) 古市宗庵 円乗坊宗圓の女婿
    • 小堀流 (こぼりりゅう) 小堀長斎
    • 萱野流 (かやのりゅう) 萱野甚斎 古田織部の甥(現存するか不明)
  • 小笠原家茶道古流(おがさわらけさどうこりゅう)古市了和 小倉小笠原藩の御家流
  • 瑞穂流(みずほりゅう) 玉置一咄 日高郡手取城城主 代々紀州徳川家に仕え明治に流儀を改めるが戦後は神戸を中心に伝承。玉置一成『茶道要鑑』

千道安の流れを汲む流派[編集]

千家の本家である堺千家(さかいせんけ)は千利休の実子である千道安が継いだが、後継の子なく断絶した。

  • 宗和流 (そうわりゅう) 金森宗和 織部・遠州の影響を受けた
  • 石州流 (せきしゅうりゅう) 片桐石州 道安門下の桑山宗仙に師事
    • 宗猿系(そうえんけい) 下條信隆 石州庶子
    • 古石州流 (こせきしゅうりゅう) 藤林宗源 石州家老
    • 大口派 (おおぐちは) 大口樵翁
    • 清水派 (しみずは) 清水動閑
    • 野村派 (のむらは) 野村休盛
    • 怡渓派 (いけいは) 怡渓宗悦
    • 伊佐派 (いさは) 磯野宗琢
  • 鎮信流 (ちんしんりゅう) 松浦鎮信
  • 不昧流 (ふまいりゅう) 松平不昧
  • 宗観流 (そうかんりゅう) 井伊宗観

千宗旦の流れを汲む流派[編集]

いわゆる「宗旦流(そうたんりゅう)」であり、三千家の他に、宗旦四天王の系譜である松尾流、庸軒流、宗徧流、普斎流や久田流なども含む。宗旦流は、江戸時代初期に、少庵の子である千宗旦とその弟子達に対して用いられた呼称。侘びに徹することを旨とする傾向が強い。

  • 三千家(さんせんけ) 千利休の後妻の連れ子である千少庵系統の家。堺千家に対して傍系に当たる。
    • 表千家(おもてせんけ) 不審庵 宗旦の三男(後妻の長男)が承継
    • 裏千家(うらせんけ) 今日庵 宗旦の四男(後妻の二男)が創設
    • 武者小路千家(むしゃこうじせんけ) 官休庵 宗旦の二男(先妻の二男)が創設
  • 宗徧流 (そうへんりゅう) 山田宗徧 宗旦四天王
  • 庸軒流(ようけんりゅう) 藤村庸軒 宗旦四天王
    • 庸軒流宗積諦観派
  • 普斎流 (ふさいりゅう) 杉木普斎 宗旦四天王(現存するか不明)
  • 久田流 (ひさだりゅう) 久田宗栄 表千家の縁戚および分派
  • 堀内流 (ほりのうちりゅう) 堀内仙鶴 表千家六代覚々斎の門人
  • 松尾流 (まつおりゅう) 松尾宗二(楽只斎) 表千家六代覚々斎の門人
  • 三谷流 (みたにりゅう) 三谷宗鎮 表千家六代覚々斎の門人(現存するか不明)
  • 曲全流(きょくぜんりゅう) 河村曲全 表千家六代覚々斎の門人(現存するか不明)
  • 表千家看月庵(おもてせんけかんげつあん)表千家七代如心斎の門人。初世は中村宗鷗。看月庵宗鷗または仙悦と号す。
  • 江戸千家 (えどせんけ) 川上不白 表千家七代如心斎の門人
    • 表千家不白流 (ふはくりゅう) 川上宗什 川上不白の門人
    • 不白流石塚派 石塚宗通 川上不白の門人
    • 都千家(みやこせんけ) 森山宗江 江戸千家の分派
    • 雅流(みやびりゅう) 水谷宗雅 不白流の分派
  • 吉田生風庵(よしだしょうふうあん)表千家十代吸江斎の門人
  • 速水流 (はやみりゅう) 速水宗達 裏千家八代又玄斎の門人

後代の新流派[編集]

千家流以外で上記より時代が新しい流派。また、活動は確認できるが系譜未確認の流派。

著名な茶人[編集]

茶道に明るい人のことを茶人(ちゃじん、さじん)という。著名な茶人については茶人人物一覧を参照。

茶道の実践[編集]

茶事
茶事とは少人数のあらかじめ招待された客を対象にして亭主が行う密接な茶会であり、ひとつ椀で同じ濃茶を回して飲んでゆく。昼食として懐石を供してから茶をふるまう正午の茶事が最も基本的な形とされるが、趣向によって夏場の涼しい時間に行う「朝の茶事」。秋冬の長い夜をゆっくりと過ごす「夜咄し」などの茶事も行われることもある。趣向によって、屋外を茶室に見立てる野点(のだて)や、テーブル・椅子を用いる立礼(りゅうれい)の茶事も行われる。
大寄せ
大寄せの茶会とは、多数の客を対象にして行う茶会である。炭手前・懐石は省略されることもあり、道具の拝見を省略することも多い。催事の添え釜として行われることもあり、複数の茶席を設けて並行してもてなすこともある。客としてはもっとも気軽な催しの一つだが、亭主としては晴れがましい披露の場でもある。
献上茶事
献茶とも呼ぶ。神社仏閣寺院の御前で行う茶事。貴人茶碗で神仏へ茶を奉じる。参加は一般も含む場合がほとんどだが、茶席は別に用意されており、お守りやお札を渡す場合もある。
口切り茶事
10月末 - 11月初旬に家元で行う年初めの茶事、5月に摘んだ茶葉を茶壺にいれ、保管した壺の封を切り、臼を回して抹茶にする。篩にかけ濃茶薄茶の味をみる茶事で、流派の1年を占う重要な茶事となる。

茶道に関係する音楽作品[編集]

「宇治巡り」(地歌箏曲
文化文政の頃、京都で活躍した盲人音楽家、松浦検校が作曲した手事(てごと)もの地歌曲。箏の手付は八重崎検校。「喜撰」「雁が音」など、多数の茶の銘を詠み込み四季の順に配列しつつ、春夏秋冬の茶の名産地宇治を巡り歩くという風流な趣向の曲。大曲で二箇所の手事(楽器だけで奏される器楽間奏部)も音楽的に凝ったもので、転調も頻繁に現れ、技術的にもなかなか難しい曲。「松浦の四つ物(四大名曲)」のひとつとされている。
茶音頭」 (地歌・箏曲)
文化文政時代、京都で活躍した盲人音楽家、菊岡検校が作曲、八重崎検校が箏の手付をした手事もの地歌曲。「茶の湯音頭」と呼ぶ流派もある。「音頭」は本来雅楽用語であり、のち近世邦楽全般において広く使われ、この曲も民謡とは関係ないので注意が必要。俳人横井也有の「女手前」から抜粋した歌詞で、多数の茶道具を詠み込みつつ男女の仲がいつまでも続くよう願った内容。三味線調弦が「六下がり」という非常に特殊なもので、独特な響きがこの曲独自の雰囲気を作り出しており、歌の節も凝っている一方で手事が長く、八重崎検校の箏手付も巧みで合奏音楽としてもよくできているので、現代でも演奏会でよく取り上げられる曲である。お手前の伴奏として演奏されることもある。
上方舞」(地唄舞)においても好んで舞われ、いくつかの流派ごとの振り付けがあるが、どれも袱紗を使用したり、茶道の所作をいれたりする特徴のあるものである。
「宇治茶」(上方歌端唄うた沢

茶道の雑誌[編集]

茶道の美術館[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]