松永久秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
松永 久秀
Hisamiti.jpg
「弾正忠松永久秀」『芳年武者牙類』のうち
月岡芳年筆、明治16年(1883年
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年)?
死没 天正5年10月10日1577年11月19日
改名 久秀、道意(号)
別名 霜台、松永弾正(通称
戒名 妙久寺殿祐雪大居士
墓所 奈良県王寺町達磨寺
京都府京都市下京区の妙恵会墓地
奈良県生駒郡三郷町
官位 従四位下弾正忠山城守弾正少弼
幕府 室町幕府相伴衆
主君 三好長慶義継織田信長
氏族 松永氏(自称藤原氏源氏
父母 父:不詳、母:不詳
兄弟 久秀長頼
正室:三好長慶の娘
側室:小笠原成助の娘
久通、長女(伊勢貞良室)、養子:永種

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代武将大和国戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。父母は不明。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種貞徳の父)。

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に室町幕府第13代将軍足利義輝永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。一説には、永禄の変や東大寺大仏殿焼失の首謀者などともいわれる。

斎藤道三宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。

生涯[編集]

出自[編集]

永正7年(1510年)生まれとされるが、前半生には不明な点が多く確証はない。出身については、阿波国山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住の土豪出身など諸説あり、一説には学識と文化的素養の高さから祐筆として頭角を現したことから寺小姓あがりで、三好長慶の寵童であった説や、久秀と同世代の斎藤道三が同じような人生を歩んでいることから、商人出身という説もある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったとされる[1]。名は、松永久秀・弾正久秀と名乗る。

長慶の寵臣時代[編集]

三好長慶像/大徳寺・聚光院蔵

天文9年(1540年)から細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕える(長慶が家督を継いだ天文2年(1533年)か天文3年(1534年)とも)。天文11年(1542年)には三好軍の武将として山城南部に在陣した記録があり、この頃には武将としての活動も始めていたようである[2]

天文18年(1549年)、長慶が細川晴元、13代将軍足利義輝らを近江へ追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、弘治2年(1556年)には奉行にも任命されており、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは永禄3年(1560年)からともされる)[3]。長慶は後に自分の娘を久秀に嫁がせている。

上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年7月14日には上洛して相国寺に陣取った細川晴元方の三好政勝香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556年)7月とも)。同年9月には長頼と共に丹波波多野晴通を攻め、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝・香西元成の軍と再び戦っている。この戦いで味方の内藤国貞を失うも長頼が挽回、国貞亡き後は長頼が丹波平定を進めていった[4]

永禄元年(1558年)5月に義輝・晴元が近江から進軍して京都郊外の東山を窺うと、一門衆の三好長逸と共に将軍山城如意ヶ嶽で幕府軍と交戦、11月に和睦が成立すると摂津へ戻った(北白川の戦い)。翌永禄2年(1559年)5月の河内遠征に従軍、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に大和へ入り、8月8日に滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とする。翌永禄3年6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和に残り、信貴山城で河内からの退路を塞ぎつつ7月から11月にかけて大和北部を平定、11月に信貴山城に四階櫓の天守閣を造営したという。こうして三好家中の有力部将として台頭していった[5]

この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。

永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍義輝から相伴衆に任じられ、2月4日に従四位下弾正少弼に叙位・任官、永禄4年(1561年)1月28日には従四位下に昇叙されると、2月4日にそれまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。また2月1日には義輝から桐紋と塗輿の使用を許されたが、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる[6]

永禄4年(1561年)11月には義興と共に六角義賢と京都付近で戦い(将軍地蔵山の戦い)、翌永禄5年(1562年)に三好軍を結集させ河内へ出陣、5月に義賢と結んだ河内の畠山高政を打ち破り(久米田の戦い教興寺の戦い)、紀伊へ追放している(6月には義賢と和睦)。9月に長慶に逆らった幕府政所執事の伊勢貞孝貞良父子を討伐するなど功績を挙げていく。同年に大和と山城の国境付近に多聞山城を築城・移住、大和国人十市遠勝を降伏させ、永禄6年(1563年)12月14日、家督を嫡男久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。

久秀が勢力を増加させていく一方で、主君長慶は弟の十河一存実休(義賢)、嫡男義興の相次ぐ死去などの不幸が重なり、覇気を失くしていった。十河一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている[7]

永禄7年(1564年5月9日、長慶の弟である安宅冬康の死去により[8]、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。これによって久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好政康岩成友通)らと共に長慶の甥三好義継を担いで三好家を支えた。

畿内の覇権をめざして[編集]

永禄8年(1565年5月19日、三好・松永の排除を狙う義輝を攻め滅ぼし(永禄の変)、キリシタン宣教師を追放する[9]。しかし、同年8月2日に弟長頼が丹波で敗死して三好家は丹波を喪失、やがて畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交、両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。

永禄9年(1566年)には三好康長安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍足利義栄からも討伐令を出されるなど、三好家中で孤立してしまう。2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆は和泉へ襲撃、2月17日には三人衆と同盟者の大和国人筒井順慶と堺近郊の上芝で戦い(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退。一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流したが、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため5月30日に逃亡し、数ヶ月行方不明となった。高政は三人衆と和睦、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。

ところが、永禄10年(1567年2月16日に三人衆のもとから義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰。4月18日に三人衆が大和へ出陣、10月10日、長い対陣の末に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、久秀は畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。この時久秀が大仏殿に火を放ったとも言われるが、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、この出火は三好方のキリシタンの放火によるものであると記述されている。

しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、畿内と四国に強い地盤を持つ三人衆とは大きな勢力の開きがあり、終始三人衆との戦いは劣勢であった。永禄11年(1568年)になっても三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続、6月29日に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀の助力を伝えている[10]

信長への臣従時代[編集]

織田信長像/神戸市立博物館蔵

永禄11年9月、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると義継・久通と共にいちはやく降伏し、人質と名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、久秀が兄の仇である義昭の反対はあったものの、久秀の利用価値を認めた信長が義昭を説得し、幕府の直臣(名目上は信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた。三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。

大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛細川藤孝和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上。永禄12年(1569年)でも大和平定を継続、対する順慶は没落を余儀無くされていた。

元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。以後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて義昭に通じたと見られる。元亀2年(1571年)の時点で甲斐武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。

元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、義継・三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。しかし翌元亀4年(1573年、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵[11]。7月に義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、11月に義継も信長の部将佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)、12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。翌天正2年(1574年)1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い[12]

最期[編集]

天正5年(1577年)に上杉謙信毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという[註 1]

信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させ、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命じる。それに対して久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答した[註 2]。このため、信長のもとに差し出していた2人の孫は京都六条河原で処刑された。織田軍の総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)、10月10日に爆死した。享年68。

奇しくも10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であった[13]

経歴[編集]

※日付=旧暦

  • 年月日不詳、弾正少忠に任官。 
  • 年月日不詳、従五位下に叙す。
  • 年月日不詳、正五位下に叙す。
  • 永禄3年(1560年)1月20日、弾正少弼に転任。将軍の御供衆に列座。
  • 永禄4年(1561年
    • 2月3日、将軍家御紋の下賜がなされる。[14]
    • 2月4日、正五位下から従四位下に昇叙。弾正少弼如元。[15]
  • 永禄12年(1569年
    • 3月28日、『言継卿記』に山城守の記事あり。
    • 4月3日、『多聞院日記』では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。
    • 8月20日、『多聞院日記』では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。

人物・逸話[編集]

松永久秀像
  • 松永久秀が、三好三人衆らと争っていた永禄8年(1565年)または永禄9年(1566年)ごろ、日本で最初に降誕祭(クリスマス)を理由に休戦を命じた(あるいは応じた)というエピソードが巷間に広く伝えられているが、そのような事実を示す文書は存在しない。この話の元となったのは、フロイス日本史の記述である。それによれば

「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。  ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」[16]

とあって、これは単に、松永方に属する兵と三好三人衆方に属する兵のキリシタン計70名が共に仲良くミサに行ってパーティーを開いたという内容でしかない。『堺市史』では、このフロイスの記事を永禄9年の出来事として比定している[17]。しかし久秀本人は、永禄9年5月の時点で三好三人衆の攻囲に遭い、堺の街から敗走している。以後しばらくの間は完全に消息不明となり、この年のクリスマス前後(旧暦11月14日ごろ)も依然として潜伏逃亡中の状態が継続していたのである。彼が歴史の表舞台に再び姿を表すのは、翌年の永禄10年(1567年2月16日における三好義継との再会を待たねばならない。そもそも、久秀は日蓮宗本圀寺の塔頭・戒善院の大檀越であった[18]。当時の畿内の日蓮宗(法華宗)の教義からすると、キリスト教のみならず他宗一般に対する彼の態度が否定的なものであったことは容易に推定される。そして、こうした推定を裏付ける傍証として、永禄8年(1565年7月5日正親町天皇より三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずる女房奉書が、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家の竹内季治の進言に応じて発せられたものであったという事実も近年の研究で明らかとなっている[19]。久秀本人が永禄8年や9年の時点で「クリスマス休戦」なるものに関与したとの通説は、今のところ何ひとつ明確な証拠が確認されていない話であると言うことができよう。なお、久秀の甥である内藤如安や、当時配下の武将であった結城忠正高山友照などは永禄8年ごろには既にキリシタンに改宗しており、彼らの率いる軍勢の中には多少のキリシタンが存在していた。よって、久秀がキリスト教排撃論者であったという事実は、フロイス日本史において記録されている”松永方の少数の兵による降誕祭ミサ参加”という逸話それじたいの信憑性までをも妨げるものではない。

  • 多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に姿を変えて久秀に近づいたという。外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。
  • 天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、天守および多聞作りを創始した人物とされている。城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。天守については近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し[20]、創始者が久秀であったことは否定されているが、外観上も威風堂々たる天守の創始者として伝えられた可能性がある。また古代の古墳を破壊して築城した事でも有名だが、これは主君である三好長慶に倣ったものともされる。古墳は高台や水濠を備えていたことから城に改造するには最適な地形であり、また大和国は数多くの古墳が存在する。
  • ルイス・フロイスは、自著『日本史』において永禄4年の久秀の権勢を「天下の最高の支配権を我が手に奪ってほしいままに天下を支配し、五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた」と記している[21]
  • 久秀は三好家重臣として莫大な富を築いたが、その富は朝廷への献金など己の出世のために使ったという。また永禄7年3月16日には朝廷に対して改元を迫ったが、2日後の18日になっても返答が無く無視されたという。なおその富で当時名器といわれた茶器を多数所持し、後の織田信長時代にも信長のもとで生き延びるために茶器を献上したという逸話もある[22]
  • 織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。また、信長が語った久秀の「三悪事[註 3]」(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成しているため、似た者同士、親近感を抱いていたのではないかという説もある。信長は義昭を擁して上洛した際、義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。武田信玄の西上作戦で反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。信長が反逆して許しているのは家督相続時に離反した柴田勝家(ただし勝家は1度)の他は久秀だけしかおらず、しかも久秀のように2度も許して3度目も許そうと使者を送った例は他に無い。あるいは下克上でのし上がった乱世の奸雄としては斎藤道三とも類似しており、信長は道三の面影を久秀に見ていたのではないかという説もある。信長にとっては、道三は義父であるばかりか、美濃の支配権を譲ってくれた恩人でもある。
  • 信長とは同じ茶の湯を嗜む同士であり、信長に招かれてその点前で茶を頂いた時に「いつまでもお手前の九十九髪の茶入れで数寄をなされよ」と理解ある言葉を信長からもらい、久秀もその恩返しのためか数寄屋を新しくしている[23]。一方で徳川家康が久秀と面会して丁寧に挨拶を交わしているのを見て「天道に背く行為、さほどに心許せる男にあらず」と述べて礼儀正しくする必要は無いと信長が発言したと伝わる[註 4]
  • 中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、久秀は「百会(脳天)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。だが我は常に中風を憂う。死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くてだろうと笑われる。そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう。百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである」と語って灸を据えさせた後に自害したという[註 5]。久秀は年老いても自害を見事に果たせる武将でありたいとの思いがあったものと推測されている[24]

人物像[編集]

  • ルイス・フロイスは『日本史』において「(久秀は)偉大なまた稀有な天稟(てんぴん)をもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」と評している[25]
  • 武将としての力量は当時高く評価され、宿敵・筒井氏の家老であった島清興関ヶ原の戦いの際に、「今時の諸侯は明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。
  • 年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して、楽しんで見物したとも伝えられ、彼の死を領内の民は、農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも口伝えられている。大和を武家政権で支配しようとした久秀は長らく大和を支配してきた寺社勢力から嫌悪されていたため、多聞院日記などに過分に悪人として描かれている部分も考慮する必要がある。
  • 吝嗇(けち)な性質であったとされ、『足利季世記』に「松永は分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり、諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」とある。
  • 久秀は性技指南書を著しているが、医師の曲直瀬道三と親交が深かったため、閨房術の師が曲直瀬だったと言われている。[要出典]
  • 久秀は68歳と当時としては長寿である事を示すように健康に注意を払った[24]。久秀は松虫を飼っていたが、それを色々工夫して育てたら3年も生きたため「松虫でも飼い方次第でこんなにも長生きする。人間は日々養生する事で長い命を得ること間違いない」と述べて養生を心掛けた[24]。久秀は中風の気があり、そのため頭の天辺にする灸が中風除けに効くとして日常的に実行していたという[24]

茶人としての松永久秀[編集]

子孫[編集]

  • 帝国海軍中将・松永貞市(太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官)とその孫・松永真理(NTTドコモのiモードの生みの親)は久秀の嫡男・久通の子で筑前博多にて質屋を開業し豪商となったという松永彦兵衛(一丸)が先祖との事であるとされる。

家臣[編集]

墓所[編集]

達磨寺にある松永久秀の墓
  • 京都市下京区の妙恵会総墓地
  • 奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山達磨寺
  • 奈良県生駒郡三郷町に供養塔


脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 『信長公記』
  2. ^ 『川角太閤記』
  3. ^ 『常山紀談』
  4. ^ 『備前老人物語』
  5. ^ 『備前老人物語』

出典[編集]

  1. ^ 道三も西岡出身で、天文年間に道三が守護代から土岐氏を乗っ取ったのが久秀の食指を動かしたのではないかとされる。長江、P212。
  2. ^ 長江、P212 - P213。
  3. ^ 言継卿記』では「内者弾正忠」と記され、『天文日記』では本願寺第10世法主証如が久秀の存在を認めていた旨が記されている。長江、P213。
  4. ^ 長江、P120 - P121、P152、今谷、P184 - P186、福島、P108、P112 - P113。
  5. ^ 長江、P155 - P161、P164 - P166、P176 - P177、P213、朝倉、P218 - P219、今谷、P202 - P210、P213 - P226、福島、P115 - P116、P120。
  6. ^ 歴名土台』『御湯殿上日記』『伊勢貞助記』長江、P213 - P214。
  7. ^ 義興に関しては久秀の毒殺説もあるが(『足利季世記』)、一方で当時の史料である『続応仁後記』では「雑説」として否定されている。長江、P199 - P204、P209 - P211、P220 - P222、P226、朝倉、P220 - P221、今谷、P235 - P242、P248 - P250、福島、P124 - P126。
  8. ^ 冬康の死に関しては久秀が病で半ば狂乱していた長慶に讒言して殺害に追い込んだとする説がある。長江、P229。
  9. ^ 理由は内裏から追放の詔勅が出たからだが、そう働きかけたのは久秀だった(フロイス日本史・25章より)。理由は法華宗の「六条」という僧院(=おそらく本圀寺)の僧侶たちが、久秀にそう頼んで多額の金を送ったためである(同・32章)。後に信長によって宣教師が京に呼び戻された時には「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と進言したが、信長に一蹴されている(同・34章)。ただし義輝がいた頃は久秀も布教の許可状を出していた事、六条の僧侶たちは始め「京にいる2人の宣教師を殺させようとして」いた事(どちらも32章)、当時の法華宗は京でかなり大きな力を持っていた事などから、久秀が個人的にキリシタンを嫌っていたのかは不明である。
  10. ^ 朝倉、P222 - P231、今谷、P255 - P262、福島、P127 - P140。
  11. ^ なお、甲斐武田氏と松永氏の外交は元亀4年段階で確認され、武田氏では親族衆の一条信龍取次を務めており、大和国衆の岡氏を通じて交渉が行われている。
  12. ^ 朝倉、P231 - P242、谷口、P176 - P181、今谷、P263 - P275、福島、P141 - P142。
  13. ^ 朝倉、P谷口、P216 - P220、今谷、P275 - P276。
  14. ^ >「雑々聞撿書丁巳歳」(内閣文庫架蔵写本)による。この栄典及び翌日の昇叙によって、松永は三好長慶や三好義長に次ぐ三好家中において重要な地位に昇ったといえる。
  15. ^ 「雑々聞撿書丁巳歳」(内閣文庫架蔵写本)によれば、永禄4年1月28日付で正五位下から従四位下に昇叙しているが、このとき、氏は藤原として口宣案が出されている。ところが、将軍家の御紋下賜により氏を改め、再度、同年2月4日付では源の氏として口宣案が出された。
  16. ^ ルイス・フロイス著, 松田 毅一、川崎 桃太 訳 (2000)『完訳フロイス日本史2』中央公論社(中公文庫)p.55.
  17. ^ 三浦周行監修,堺市役所編纂(1931)『堺市史』第2巻 堺市役所発行 p.368.
  18. ^ 天霊山松林院 公式サイトの記述による(アクセス年月日:2014/03/24)。
  19. ^ 村井早苗(1980)「キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力 : 統一政権成立過程における」
  20. ^ 長江、P214。
  21. ^ 長江、P216。
  22. ^ 長江、P217 - P219。
  23. ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P97
  24. ^ a b c d 楠戸義昭『戦国武将名言録』P399
  25. ^ 長江、P216。

参考文献[編集]

書籍
史料

関連作品[編集]

小説
主役のもの
中心人物であるもの
関連書籍
  • 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』
  • 神坂次郎「ドンジョンのある風景」(『おかしな大名たち』)
  • 南条範夫桑田忠親「松永弾正久秀」(『日本史探訪 第15集』)
  • 海音寺潮五郎『悪人列伝 近世篇』
  • 谷晃「松永久秀の多門山城茶会」(『仮想茶会潜入記 時空を超えた茶人の彷徨』)
  • 会田雄次「松永久秀」(『歴史の京都6 悪党と奇人』)
歌舞伎
  • 『祇園祭礼信仰記』(悪役・松永大膳のモデル)
映画
ゲーム
テレビドラマ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]