和歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

和歌(わか)は、古来より日本で行われた韻文で、漢詩に対して日本固有の詩歌のこと[1]大和歌(やまとうた)とも称す。5音と7音を基調とする長歌短歌旋頭歌(せどうか)、片歌(かたうた)などの総称としても使われる[1]。狭義では31音を定型とする短歌を指す。古くは倭歌とも表記し、また倭詩(わし)とも称した[2]

概要[編集]

和歌については、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。

やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを[3]

現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる短歌のことを指す。 古今和歌集仮名序にもこの歌について、「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう。しかし和歌には、古くは短歌のほかにも長歌旋頭歌という形式のものがあった。

名称 形式 備考
長歌 五七、五七、…、五七、七 五七を3回以上繰り返し、最後を七音にする。主に公の場でうたわれるもので、反歌を伴う。
万葉集』に多く見られるが、『古今和歌集』では5首入集するのみである。
短歌 五七、五七、七 各時代を通して最も詠まれている形式。
旋頭歌 五七七、五七七 五七七を2回繰り返したもの。問答歌が多い。
仏足石歌体 五七、五七、七七 短歌の形式に、さらに七音を加えたもの。

『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には和歌の種類について、「長歌・短歌・旋頭混本の類、雑体一に非ず」とあるが、「混本」というのがどのような形式のものであったかは不明である。また仏足石歌体の形式は奈良時代に行なわれたのみであり、その後は廃絶している。短歌からはのちに句を五七五と七七に分けて詠む連歌俳諧が発生する。

和歌を詠むことは、古くは貴族をはじめとする教養層にとってはたしなみのひとつであり、男女が詠み交わして自らの心を伝える手だてとし、また歌合歌会が多く開かれ、そのための和歌が詠まれ披露された。そして詠まれた和歌は個人の歌集私家集)や平安時代以降の勅命による勅撰和歌集の材料として集められ収録されている。ほかには勅撰ではない個人で編纂した私撰和歌集があり、『万葉集』は私撰和歌集に当たる。私撰の中でも藤原定家の撰んだ小倉百人一首は、後世かるたにもなっていることもあって大変よく親しまれており、日本人の和歌に対する見方に大きな影響を与えている。なお和歌には文学としての解釈と音楽としての解釈の二通りがあるが、一般的には国文学の中のひとつとして解釈されるため、学校教育において「うた」の要素は排除されている。

和歌は「敷島」(しきしま)とも、また「敷島の道」とも呼ばれた。敷島とは大和国や日本のことを意味し、また枕詞のひとつでもあり「やまと」という言葉にあわせて使われている。すなわち「敷島のやまとうた」、「敷島のやまとうたの道」というつもりで用いられた言葉である。

歴史[編集]

上代[編集]

上代歌謡

和歌が現れる以前に、感情の高まりから発せられた叫び・掛け声が次第に成長して、や労働の際に集団で歌われるようになった歌謡があったといわれるが、多くは文字に記されることなく失われてしまったという。それら歌謡が現在見られる五音七音でもって構成される和歌となるまでには、その形式に様々な過程や変遷を経たと見られる。現在『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『古語拾遺』、『琴歌譜』、『仏足石歌碑』などに収録される韻文を上代歌謡と称しているが、その多くは五音や七音の句で構成されるなど、すでにかなり洗練された内容となっている。

記紀歌謡

『古事記』『日本書紀』に採られた上代歌謡を、特に記紀歌謡という。独立した歌謡ではなく、物語の効果を高めるために用いられていることが多いが、宮廷人が歌った儀式の歌謡や、創作もあるとされている。片歌旋頭歌短歌長歌などの五音と七音を標準とする歌体に、対句・くりかえし・枕詞序詞などの技法が用いられている。

上代歌謡は神楽歌催馬楽などの楽器を伴う儀式歌の源流となるが、その歌体・技巧は後の和歌の母胎ともなっている。

万葉集

統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持を個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。それらを大成したのが『万葉集』である。万葉集の注記によると、万葉集以前にも『古歌集』、『柿本人麻呂歌集』、『笠金村歌集』、『高橋虫麻呂歌集』、『田辺福麻呂歌集』、『類聚歌林』などがあったとされるが、現存していない。『万葉集』は長い期間を経て多くの人々によってまとめられたが、最終的には大伴家持が現在の二十巻のかたちに編集したのだといわれている。約4500首が収められており、その最も古いものは仁徳天皇の代のものであるが、大部分は飛鳥時代から奈良時代中期にかけての約100年弱のもので占められている。貴族の歌のほかに東歌防人歌など民衆の歌もあり、現実的・写実的な歌風が多いとされる。

中古[編集]

国風文化

平安時代初期には漢詩文が公的な文学として和歌を圧倒した。和歌は私的に交わされる贈答歌が主となり、宮廷で詠まれることは奈良時代と比較すると少なくなった。しかし、平安時代中期になって、唐の衰退やそれに伴う遣唐使の廃止により中国の文化的影響力は減少し、国風文化の時代となった。その過程で、仮名の発達とあいまって和歌は次第に公的な文化として復権するようになった。『新撰万葉集』には漢詩(からうた)と和歌(やまとうた)が並べて記され、和歌が公的な文学としての地位を回復してゆく姿が見られる。宮中や貴紳の邸宅で歌合が行われ、中でも寛平5年(893年)のころに行なわれた『寛平御時后宮歌合』は、のちに最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂において多くその歌が採られた。この頃から、和歌といえば短歌形式のものをさすようになった。

三代集

延喜5年(905年)、醍醐天皇の勅命によって、紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑の4人によって編纂されたのが『古今和歌集』であり、『万葉集』に入集しない和歌約1100首を二十巻に収める。その歌風は理知的・観念的であると一般にはいわれている。それから半世紀のちの村上天皇の頃に和歌所が置かれ、当時すでに読みにくくなっていた『万葉集』の訓読と『後撰和歌集』の撰進が梨壺の五人によって行われた。貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向がある。さらに半世紀後の一条天皇の頃に、『拾遺和歌集』が撰進された。典雅で格調正しい『古今和歌集』の伝統を受け継ぐものになっている。この『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』の三つをあわせて三代集と呼ぶ。

八代集

平安時代後期には摂関政治が衰退し始め、貴族文化に変化が訪れた。そのころ撰進されたのが『後拾遺和歌集』である。保守的な『後拾遺和歌集』に対し、次の『金葉和歌集』は清新な叙景歌が中心で革新的なものであったが、続く『詞花和歌集』は再び保守的なものになっている。

源平の争乱の後、後白河院の命で藤原俊成が『千載和歌集』を撰進した。貴族社会の崩壊、武士の台頭という混乱の中で芸術至上的な傾向を示し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。俊成の弟子が撰進したのが次に述べる『新古今和歌集』である。『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの勅撰和歌集をあわせて八代集と呼ぶ。

中世[編集]

鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたことにより和歌は盛んに詠まれ、歌会が多く開かれた。歌会では和歌に独特の節を付けて詠み上げたがこれを披講という。披講には綾小路流や冷泉流などの流派が存在し、現在でも宮中の歌会始や神社での行事などで見ることができる。鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。その採られた和歌は歌合や歌会などにおいて、前もって題を設けて詠まれたものが多い。『千載和歌集』でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達した。その一方で自然への愛や人生観を詠んだ西行、万葉調の源実朝も尊ばれた。

『新古今和歌集』編纂の中心人物だった藤原定家の死後は、その子の為家が歌壇の指導者だったが、為家が亡くなると、家系も歌壇も二条派京極派冷泉派の三派に分かれた。三派は主導権をめぐって争い、うち二条派と京極派は次々と勅撰集を編纂し京都の中央歌壇の覇権を競った。冷泉派は始祖と鎌倉幕府との関係から、関東において武士の間で栄えた。

近世[編集]

近世初期には伝統的な歌学が集大成され、多くの歌人が生まれたが、既に「歌道」として完成された芸術になっていたため新しい歌風は生まれなかった。誕生まもない俳諧に比べて、上代からの伝統的日本文化である和歌の革新は抑制された。  近世には国学が勃興し、国学者たちは古典を直接の典拠として歌論提唱と和歌実作を行い、また、古今伝授等の歌道家の説を根拠のないももとして厳しく批判した。契沖の『万葉代匠記』を始めとして万葉集研究が進み、万葉調歌人が現れたのも近世和歌の大きな特徴である。  なおこの時期、琉球では王族や上流階級の間で和歌が盛んに詠まれている。17世紀琉球国が薩摩の支配下に入ると、士族には和歌の素養を身に付けることが求められ、和歌の修辞法である序詞や掛詞、本歌取りなどの技法が在来の琉歌にも用いられるようになった。18世紀になると、清国商人などごく一部であるが、国外の人々の和歌をたしなむ様子が、当時の随筆に記録されている[4]

近世後期になると京都から新しい和歌の動きが起こり、堂上二条派の流れをくむ地下香川家の末裔が始めた桂園派が登場した。桂園派は明治時代初期まで歌壇に重きをなした。

近代[編集]

明治時代初期の歌壇は、御歌所派や桂園派などの江戸期からの伝統的な文化人たちが担ってきたが、和歌改革を志す人々(正岡子規与謝野鉄幹ら)によって題詠による作歌・風雅な趣向が批判され、新時代に相応しい新しい歌風が生まれた。この中から根岸短歌会のちのアララギ派が生れる。やがてこれらの詠む歌は伝統的な本来の和歌と区別するために、「短歌」という名称で呼ばれるのが普通となった(短歌の項も参照のこと)。ただし近年ではアララギ派に代表される「短歌」的な文学観に対する批判も強く、「和歌」的なものの再評価が進んでいる。

修辞技法[編集]

和歌の西洋音楽による解釈[編集]

和歌は、節(ふし)を付けて詠うものとして始まったため、節にのっていれば文字数(音節数・モーラ数)の規定はややゆるい。すなわち、節にのっていれば、五音・七音以外の音節数であっても実質的には「字余り字足らず」ではない。「字余り・字足らず」という考え方は、詠うことよりも、書き留めた際の定型詩としての美意識から生まれた言葉である。

西洋音楽による解釈では、和歌はテンポの遅い四分の四拍子で、2小節で1セットのリズムを作っている。五音は1リズム(2小節)に5つの四分音符と3つの四分休符、七音は1リズムに7つの四分音符と1つの四分休符を基本形としているが、四分音符・休符の総数が1リズム(2小節)内に8つであればよい(九音の場合、音節数が9なら三連符が一部入る)。

歌体は、これらのリズムの組み合わせや数に依存する。例えば、短歌は2小節1セットのリズムが5つで出来ており、全小節数は10となる。「あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ」という短歌は、「五七六、七七」で字余りといわれるが、リズムごとに2小節ずつ区切ると、「あきのた|の・・・」「かりほの|いおの・」「とまを・|あらみ・」「わがころ|もでは・」「・つゆに|ぬれつつ」(|は小節の区切り。・は四分休符)となり、四分の四拍子にのっとっている。なお、休符として書いている部分は、実際に詠む場合には最後の音節が長音となって休符とされなかったり、フェルマータが多用されたりする。

短歌を和歌の詠み方(リズム)から脱して西洋音楽化させた例として「君が代」があるが、この場合は上記のような短歌のリズムから脱し、西洋音楽として美しく聴こえるよう音節を長短させている。一方、「荒城の月」は「七五、七五、…、七五」と繰り返される和歌であるが、和歌のリズムをあまり崩さずに西洋音楽に適合させている。

脚注[編集]

  1. ^ a b デジタル大辞泉 小学館(和歌)2013年9月7日閲覧
  2. ^ ただし「倭詩」は日本人が作った漢詩を意味することがある(『日本国語大辞典』第二版第十三巻、小学館)。
  3. ^ 『古事記』と『日本書紀』に収録されている。
    『古事記』「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」
    『日本書紀』「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」(以上原文)
    これにより、のちに和歌のことを「八雲」(やくも)ともまた「八雲の道」ともいった。
  4. ^ 寛政12年(1800年)の『桂林漫録』(けいりんまんろく)に、清人詠歌が数首と琉球国王子の読谷(ヨミタニサ)王子と義湾(ギノワン)王子の歌が記載されている。義湾王子の歌は富士山に関するもので当随筆に、安らかなるシラベと評されている。

関連書籍[編集]

  • 『和歌を歌う 歌会始と和歌披講』(財)日本文化財団編 笠間書院 ISBN 4-305-70294-0
  • 別宮貞徳『日本語のリズム ―四拍子文化論』ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08942-X

関連項目[編集]