竹田宮恒徳王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
竹田宮恒徳王
続柄 竹田宮恒久王第一王子
身位
敬称 殿下
His Imperial Highness
出生 1909年3月4日
死去 1992年5月11日
配偶者 三条光子
子女 恒正王
素子女王
紀子女王
恒治王
恒和
父親 竹田宮恒久王
母親 恒久王妃昌子内親王
テンプレートを表示
竹田宮恒徳王
1909年3月4日 - 1992年5月11日(満83歳没)
Takedanomiya Tsuneyoshi.jpg
比島派遣軍参謀陸軍少佐)当時の恒徳王
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1938 - 1945
最終階級 陸軍中佐
除隊後 繊維会社経営
日本オリンピック委員会委員長
国際オリンピック委員会理事
国際オリンピック委員会名誉委員
日本馬術連盟会長
日本スケート連盟会長
全国ラジオ体操協会会長
日本体育協会専務理事 など
テンプレートを表示

竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう、1909年明治42年)3月4日 - 1992年平成4年)5月11日)は日本の皇族竹田宮第2代)、陸軍軍人。陸軍少将竹田宮恒久王第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王。従って昭和天皇の従弟にあたる。階級陸軍中佐勲等大勲位

1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、竹田 恒徳(たけだ つねよし)と名乗る。妹の禮子女王佐野常光に嫁す。

目次

[編集] 生涯

明治天皇の初の外孫として誕生する。両親の愛情を一身に受け、また従弟で隣に住む北白川宮永久王とは兄弟のように育つ。永久王は早世したため、恒徳王は後年まで、「永久王が生きていたら…」と語っていたと言う。

学習院から陸軍幼年学校へと進み、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校第42期卒。朝鮮公族陸軍中佐李鍵公(後の桃山虔一)とは同期生。王は馬術を得意とし、陸軍騎兵学校教官を務めた他、騎兵科将校としての道を歩む。1938年(昭和13年)5月30日、陸軍大学校を卒業し、日中戦争の前線行きを志願したが実現せず、満州ハイラル騎兵第14連隊第3中隊長に任命された。その後、部隊が前線へ出動する際、王を内地へ戻そうとする動きがあったが、王は東京の陸軍省の人事局長に電話で直談判した末、ようやく念願の戦地行きが叶った。この時初めて戦場に立ったが、「自分に向かって弾が飛んでくるのは気持ちの良いものではなかった」と語る。1940年(昭和15年)皇紀二千六百年を祝う大観艦式には、昭和天皇に供奉してお召し艦比叡に乗艦した。行事終了後、横浜で下艦した際、長男誕生の報告を受けている。

太平洋戦争には大本営参謀として、比島攻略、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は『宮田参謀』であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月に中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第一総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。因みにこの時、王の後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三中佐である。終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。

1947年(昭和22年)10月14日皇籍離脱する。以前から皇族が多いことに問題を感じていたため、あまり抵抗は無かったと言う。さらに「“竹田”と言う名は他の宮家と違い、ポピュラーで気に入っている」とも語った。皇籍離脱に伴い一時金が与えられ、この金を目当てに近寄るものが後を絶たなかったが、全てを丁重に断った。1950年(昭和25年)に日本スケート連盟の会長就任を要請されたのをきっかけに、スポーツ界での活動を開始する。

もともとスポーツ、特に乗馬が好きでオリンピック出場を目指していた程であった。また、1936年(昭和11年)の第11回ベルリンオリンピックで団体6位入賞の結果をもたらしたファーレーズ号の馬主であった。

戦後は繊維会社の経営に携わる傍ら、日本体育協会専務理事、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、同名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長など、複数のスポーツ関連団体の役職を歴任し、同時に15団体の役員を兼ねている時もあったと言う。また、東京札幌両オリンピックの招致に尽力し、体育の日制定にも携わった。

戦前まで暮らした竹田宮邸は、西武グループに売却されて高輪プリンスホテルとなり、邸宅本体は同ホテル貴賓館として活用されている。

[編集] 子女

三条公輝公爵の次女光子を妃とし、3男2女をもうける。

  • 恒正王(1940年 - ) - 竹田家現当主
  • 素子女王(1942年 - )
  • 紀子女王(1943年 - )
  • 恒治王(1944年 - )
  • 恒和(1947年 - )

第1王子の恒正は根津コンツェルン総帥・東武鉄道会長根津嘉一郎の三女恭子と結婚し、恒徳王の後を継いで竹田家当主となった。二男恒治は三越社長岡田茂の娘幾美子と結婚する。三男恒和は日本オリンピック委員会会長、日本馬術連盟副会長を務めている。

[編集] 年表

[編集] 著書

  • 『菊と星と五輪』 ベースボールマガジン社、1977年4月、ISBN 4-583-01757-X
  • 『私の肖像画―皇族からスポーツ大使へ』 恒文社、1985年7月、ISBN 4-7704-0613-4
  • 『馬よもやま話』 ベースボール・マガジン社、1989年6月、ISBN 4-583-02765-6
  • 『雲の上、下思い出話―元皇族の歩んだ明治・大正・昭和』 東京新聞出版局、1987年10月、ISBN 4-8083-0254-3

[編集] 外部リンク

先代:
恒久王
竹田宮
第二代
次代:
個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語