鷹狩

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カタールで鷹狩に使われるセーカーハヤブサ

鷹狩(たかがり)は、などの鳥を使った狩猟の一種。タカ科のオオタカハイタカ、およびハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる。あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

こうして鷹を扱う人間は、鷹匠(たかじょう)と呼ばれる。日本語の古語においては鳥狩/鷹田(とがり)、放鷹、鷹野などとも称する。また、鷹を訓練する場所は鷹場(たかば)と称される。

概説[編集]

中央アジアないしモンゴル高原が起源と考えられているが、発祥地と年代について定説はない。近代以前は、東は日本、西はアイルランドモロッコ、北はモンゴルスカンディナヴィア、南はインドに至るユーラシア/北アフリカ全域で各地方独特の鷹狩文化が開花した。現代では、かつて盛行したインドイランで絶滅しかけている反面、南北アメリカ及び南アフリカでも行われている。また、鷹狩の技術は猛禽類の繁殖放鳥や傷病鳥リハビリテーションに応用されている。[1]2010年11月16日に、UAE、モンゴル、チェコ等11カ国の鷹狩がユネスコ無形文化遺産の「代表一覧表」に記載された(2012年にさらに2か国が追加記載)。国際組織としてInternational Association for Falconry and Conservation of Birds of Preyが結成されている。

アメリカでは空港周辺でのバードストライク防止のため鷹狩が用いられている。

アラブ首長国連邦では、王族など富裕層を中心にスポーツとしての鷹狩が盛んであり、アブダビには最新技術を駆使した猛禽類専門病院がある。また、定期的に開催されるADIHEX (アブダビ国際狩猟乗馬展示会)でも大きく扱われるなど、鷹狩関連の経済活動も活発である。

ベルギーでは、特産品のムール貝を砂抜きするための大規模な洗浄施設において、貝がカモメに食べられたり糞で汚されたりしないよう、鷹匠を雇って警備に当たらせている。

日本における鷹狩[編集]

古代[編集]

日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代には主鷹司が廃止され、蔵人所が鷹狩を管掌する。奈良時代の愛好者としては大伴家持橘奈良麻呂が知られる。

平安時代においては、初期の桓武天皇嵯峨天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(818年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で2番目に古い。中期以降においても、一条天皇白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂在原行平在原業平は鷹狩の名手としても知られた。

鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。

中世[編集]

中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝聖衆来迎寺六道絵の描写や『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。東山で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である(『養鷹記』)。公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿持明院家西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(『鷹書』)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉徳川家康に解説書『龍山公鷹百首』を与えている。一方、武家においても、諏訪大社二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した。

近世[編集]

戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、8代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村島津重豪松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館島根県立図書館等に収蔵されている。

近代[編集]

明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され、1892年の「狩猟規則」及び1895年の「狩猟法」で9年間免許制の下に置かれたが、1901年の改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している。幕府・宮内省鷹匠の技術は、村越仙太郎1857? - 1937年)・花見薫1910 - 2002年)ら、退職した宮内省/宮内庁鷹匠により民間有志に伝えられ、現在活動している鷹狩従事者(松原英俊を除く)は、特定流派名を名乗るか否かに関わらず、そのいずれかの技術的系譜を引く。

早期の民間団体としては、中西悟堂も発起人に名を連ねた日本放鷹倶楽部(1936年)があったが中断した。村越に師事した丹羽有得(1901 - 1993年)の門下からは日本鷹狩文化保存会、森覚之丞研究会、吉田流鷹狩協会など、花見薫の門下からは日本放鷹協会が結成されている。大原総一郎が丹羽を招聘して設立した日本鷹狩クラブは、大原の没後の1982年に改組・改名され、日本ワシタカ研究センターとなっている[2]

明治以降(東北)[編集]

一方、明治以降、東北地方において、当初士族層・一定の資力のある農民・マタギの間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せた。クマタカの飼育自体は鎌倉時代から見られ(古今著聞集)、中世の鷹書においても「角鷹」への言及が見られる。東北地方の「鷹使い」の起源は明らかでなく、幕末以前に遡る見方もあるが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られる。名手として知られた三浦恒吉(1863 - 1938年)は、院内の伝助なる人物の流れを汲むが、旧戸沢藩鷹匠家の佐々木甚助とも親交があった。東北地方の「鷹使い」は生業鷹匠として発展したが、第二次世界大戦後の経済状況の変化で急速に衰亡し、武田宇市郎(1915-1992)の没後、現在では沓沢朝治の下で1年間学んだ松原英俊の他、平成に入ってからは独自にの訓練を編み出した石橋美里がスタジアムに寄生するカラスを撃退するなどの活躍がある。

脚注[編集]

  1. ^ A Falconer with His Falcon near Al-Ain” (1965年). 2013年7月7日閲覧。
  2. ^ 日本ワシタカ研究センターサイト「沿革」の項

研究文献[編集]

  • ‘Contemporary Falconry in Altai-Kazakh in Western Mongolia’The International Journal of Intangible Heritage (vol.7), pp. 103–111. 2012. [1]
  • ‘Ethnoarhchaeology of Horse-Riding Falconry’, The Asian Conference on the Social Sciences 2012 - Official Conference Proceedings, pp. 167–182. 2012. [2]
  • ‘Intangible Cultural Heritage of Arts and Knowledge for Coexisting with Golden Eagles: Ethnographic Studies in “Horseback Eagle-Hunting” of Altai-Kazakh Falconers’, The International Congress of Humanities and Social Sciences Research, pp. 307–316. 2012. [3]
  • ‘Ethnographic Study of Altaic Kazakh Falconers’, Falco: The Newsletter of the Middle East Falcon Research Group 41, pp. 10–14. 2013. [4]
  • ‘Ethnoarchaeology of Ancient Falconry in East Asia’, The Asian Conference on Cultural Studies 2013 - Official Conference Proceedings, pp. 81–95. 2013. [5]
  • Soma, Takuya. ‘The Art of Horse-Riding Falconry by Altai-Kazakh Falconers’. In HERITAGE 2012 (vol.2) - Proceedings of the 3rd International Conference on Heritage and Sustainable Development, edited by Rogério Amoêda, Sérgio Lira, & Cristina Pinheiro, pp. 1499–1506. Porto: Green Line Institute for Sustainable Development, 2012. ISBN 978-989-95671-8-4.
  • Soma, Takuya. ‘Horse-Riding Falconry in Altai-Kazakh Nomadic Society: Anthropological Researches in Summertime Activities of Falconers and Golden Eagle’. Japanese Journal of Human and Animal Relation 32 (2012): pp. 38–47 (written in Japanese).
  • Soma, Takuya. ‘Hunting Arts of Eagle Falconers in the Altai-Kazakhs: Contemporary Operations of Horse-Riding Falconry in Sagsai County, Western Mongolia’. Japanese Journal of Human and Animal Relation 35 (2013): pp. 58–66 (written in Japanese). 
  • 相馬拓也「アルタイ=カザフ鷹匠による騎馬鷹狩猟: イヌワシと鷹匠の夏季生活誌についての基礎調査」『ヒトと動物の関係学会誌(vol. 32)』: pp. 38–47. 2012.
  • 相馬拓也「アルタイ=カザフ鷹匠たちの狩猟誌: モンゴル西部サグサイ村における騎馬鷹狩猟の実践と技法の現在」『ヒトと動物の関係学会誌(vol.35)』: pp. 58–66. 2013.