生類憐れみの令

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生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい、生類憐令)は江戸時代元禄期に出された多数のお触れ(法令)のことである。

目次

[編集] 概要

「生類憐みの令」は、そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ぶ。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、魚類・貝類・虫類などの生き物、さらには人間乳幼児にまで及んだ。ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護された(綱吉自身犬好きで、100匹のを飼っていたという)。

一般的に「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されているが、江戸時代史見直しと共に徳川綱吉治世の見直し論も起こり、この令も再検討されている(詳細は見直し論参照)。また、動物愛護法をはじめ、刑法保護責任者遺棄罪児童福祉法児童虐待防止法として現代においても同様の法令が制定されるに至っている。

江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかった[要出典][1]ため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい。

当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、その結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られている。

武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったようである。しかし、この法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話が残っている[要出典]

地方では、生類憐みの令の運用はそれほど厳重ではなかったようである。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい[2]。また、長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったようである。長崎町年寄は、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた[3]

この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野四谷大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる[要出典]

徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間になどの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている[要出典]

もっとも、従来より仏教の影響もあり獣肉を食するのを嫌悪する風潮はあり(日本の獣肉食の歴史を参照)、本格的に獣肉を食するようになるのは明治時代以降の事である。また犬肉を食する習慣はほぼ廃れてしまい、中国朝鮮半島犬肉を普通に食する一方で、現代日本では犬肉は一般的な食材とはみなされていない。

この「生類憐れみの令」は、幕府の権威の失墜につながらないよう、「徳川禁令考」など、幕府やその関係者が編纂した法令集からは意図的に削除されているともいわれている[要出典]

[編集] 元禄の大飢饉と憐れみの令

元禄の大飢饉は1695年1696年(元禄8年〜9年)に東北を中心とする東北地方を襲った冷害で、収穫が平年の3割しかなく、津軽藩では領民の3分の1に相当する5万以上の死者を出したという。飢饉の様子を記録した『耳目心痛記』(じもくしんつうき)によると、「道を往けば、餓死者が野ざらしになり、村では死に絶えた家が続き日増しに増えた。肉親が死んでも弔う体力もなく屍骸は放置される。11月になると積雪のため草木の根を取る事もできず被害は増した。生き残った家庭でも一家心中や子殺しが続いた」という。

生類憐れみの令は、鳥獣を食べる為に獲ることや、害獣の駆除も許さなかったために、これらの惨状は悲惨さを増したとされている。さらに長く続いた生類憐れみの令のために、鳥も獣も人を恐れることがないから、飢餓で彷徨する人は息のあるうちにさえカラストビに襲われ、倒れれば野犬の餌食となったという。この法に対する「万事・万物が逆で道も法もない」との批判は、このような事情を背景にした言葉であった。

この飢饉は、全国的にも影響を及ぼし、但馬出石藩では農民による打ちこわしが起き米価は騰貴した。ところが、この様な飢饉の中でも、幕府は8万匹の野犬を中野犬小屋に収容[要出典]し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ一合を与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。

ただし、江戸市街には10万匹近い犬がおり、既に書かれているとおり町民に対して野犬の被害が多発していた為、野犬収容は治安維持が目的であるともされる(詳細は後述)。

[編集] 見直し論

徳川綱吉の治世については、前期は善政を行ったが、その後期は「生類憐みの令」などが主な理由となって、評価は低い。しかしながら、網野善彦らに[要出典]端を発する江戸時代見直しの流れの中で、徳川綱吉の再評価をする動きはある。そして、この生類憐みの令についても正史に対する批判としての見直し論がある。

見直し論の立場に立つ山室恭子は、「生類憐みの令の目的は、綱吉の時代にはまだ残っていた戦国時代の荒々しい風潮を一掃することであった」と推測している。しかし「荒々しい」人々は、この意外性の強いお触れに対し、次々に裏をかいておちょくり、そのため幕府側も次々に詳細なお触れで対抗するという、ある意味で不幸なループに陥り、そのため事実をはるかに上回る「面白い話」として後世に伝えられてしまったのではないか、としている[4]。また、6代将軍家宣や儒学思想に基づく新井白石らの政治をことさらに良く見せようとする意図もあったと推測している。ちなみに白石は綱吉の将軍就任に功績のあった堀田正俊の家に仕えていたが、正俊の死後の堀田家は、綱吉によって何度も改易されるなど何故か冷遇されている。おかげで白石は浪人生活をするはめになり、ために白石が綱吉に対して個人的な怨恨を持っていた可能性も否定できない。

また、当時のキリシタンは肉食を推進していた為、この令の発布によって動物殺生を発見させ、隠れキリシタンの摘発を促進したという説もある[要出典]。この説を主張する者によると「生類憐みの令は、些細な殺生を禁じ、違反者に対して厳罰で報いた悪法である」というものであるが、その根拠は現時点では確認されていない。

当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある[要出典]町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする[要出典]。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論している。

また、生類憐れみの令が遵守されたのも江戸近辺に限られ、地方においてはほとんど無視されていたという見解もある。『鸚鵡籠中記』の記述によると、尾張藩においても立て札によって公布はされたものの、実際の取り締まりは全くなされておらず、著者の朝日重章自身も魚捕りを楽しんでいた。親藩においてもこのような状態であった以上、前述の元禄の大飢饉において、飢饉の最中の東北地方において生類憐みの令が厳しく取り締まられたという事は到底考えられない。飢饉の最中に人間が禽獣に襲われる事はよくある話であり、生類憐みの令と特に関連があったとは考えにくい。

他に、犬の収容と飼育も治安維持を主眼としていた可能性がある。当時の往来は現代からは考えられぬほど野犬の危険度が高く、大名屋敷で放し飼いにされた犬が野犬化してこれに拍車をかけた。刑場付近では人肉の味を覚えた凶悪な野犬が徘徊し[5]、また前述のように飢饉ともなれば所構わず野犬の被害(咬創狂犬病)が続出した。この法令で4万匹の犬を収容していたとされる[要出典]が、江戸市街には10万匹近い犬がいた為、その犬が更に野犬化したら、江戸の治安を維持する事は適わないだろう。

また、厳罰説を正しいと仮定した上での弁護論もある。生類憐みの令は処罰された側から見ると悪法に見えるが、当時、まだ戦国時代の「人を殺して出世する(賃金を得る)」がごとき風習が未だ根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習などを改めるための法律であったと考えれば、厳罰を以って処すことの是非を軽々しく評価はできない。また、捨て子の禁止とその保護も生類憐みの令には含まれていた。尚、生類憐みの令がきっかけで庶民にも犬を飼う習慣が出来たとする説も存在する[要出典]

[編集] 年表

先述の通り生類憐れみの令は複数のお触れに及ぶが、その流れは以下の通り。

  • 貞享4年(1687年)2月27日:魚鳥類食料禁止(鶏と亀と貝類も含む)
  • 貞享4年(1687年)4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
  • 貞享4年(1687年)4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
  • 貞享4年(1687年)6月26日:旗本秋田采女季品(中奥小姓秋田淡路守季久の嫡男)が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪
  • 元禄元年(1688年)2月1日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される
  • 元禄元年(1688年)5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
  • 元禄元年(1688年)10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
  • 元禄2年(1689年)2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
  • 元禄2年(1689年)10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門
  • 元禄4年(1691年)10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
  • 元禄8年(1695年)5月23日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。住民は強制的に立ち退き
  • 元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪
  • 元禄8年(1695年)10月29日:元禄の大飢饉(1695年〜1696年)の最中、中野の犬小屋が完成。16万坪。犬の食費は年間9万8千両。住民は強制的に立ち退き。10万余頭のイヌが飼養された[要出典]。天野伝八および中坊長左衛門を犬小屋支配とし、ほかに犬小屋総奉行、犬小屋奉行、犬医師などを置き、犬金上納金として府民から毎日米330石、味噌10樽、干鰮10俵、薪56束などを納めさせた。
  • 元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
  • 元禄13年(1700年)7月24日:活魚の売買禁止

[編集] 歴史上での生類保護政策

東アジア世界では、仏教の思想の下、いくつかの生類保護政策がとられており、これらの「生類憐みの令」への影響を指摘する学説がある[要出典]

5世紀頃の中国では、大乗仏教偽経『梵網経』の第3に食肉戒より、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。また、中国、代、徽宗は、1102年、犬肉食禁止令を出した。

また、日本においても仏教の影響から7世紀後半以降に殺傷を禁ずる法令が散見される。

日本だけでなく、同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、同様の法令が発布されている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 『真言宗年表』(国書刊行会)によれば、隆光はすでに貞享3年に江戸城で安鎮法・土公供等を行ったとされており、そのおかげで権僧正に貞享3年12月1日付で補されている。
  2. ^ 神坂次郎 『元禄御畳奉行の日記』 中央公論新社〈中公文庫〉、2008年9月、改版。ISBN 978-4-12-205049-5
  3. ^ 山本紀綱 『長崎唐人屋敷』 謙光社、1983年2月。ISBN 4-905864-45-3
  4. ^ 山室恭子 『黄門さまと犬公方』 文藝春秋〈文春新書〉、1998年10月。ISBN 4-16-660010-9
  5. ^ 小塚原刑場跡掲示板記述より

[編集] 外部リンク

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