武蔵国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
令制国一覧 > 東海道 > 武蔵国
武蔵国
地図 令制国 武蔵国.svg
-武蔵国
-東海道
別称 武州(ぶしゅう)
所属 東山道のち東海道
相当領域 東京都埼玉県神奈川県の一部
諸元
国力 大国
距離 遠国
21郡119郷
国内主要施設
武蔵国府 東京都府中市武蔵国府跡
武蔵国分寺 東京都国分寺市武蔵国分寺跡
武蔵国分尼寺 東京都国分寺市(国分寺跡に包括)
一宮 小野神社(東京都多摩市
氷川神社(埼玉県さいたま市
テンプレートを表示
武蔵国古地図

武蔵国(むさしのくに、旧字体: 武藏國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。

「武蔵」の名称と由来[編集]

「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(ムサ)国があり、のち身狭上(ムサガミ)・身狭下(ムサシモ)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)・総下(フサシモ)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もあるが、これらの説は、武蔵国はかつて毛野国(群馬県栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域に進出して勢力下においた、とする考古学的成果と相容れない。

表記については、飛鳥京藤原宮木簡に「无耶志国」と見え、7世紀頃までの武蔵は「无射志」(ムザシ)や「牟射志」(ムンザシ)と表記されていた記録も見つかっている[1]。他にも「牟佐志[2]」、「無邪志[3]」といったの表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。

沿革[編集]

葛飾北斎富嶽三十六景』より「武州玉川(多摩川)」 1831年頃の名所絵

古代[編集]

6世紀武蔵国造の乱の後、无邪志国造(胸刺、牟邪志、无謝志とも)の領域と知々夫国造の領域を合し7世紀に成立したとされる。大化元年(645年)に大化の改新が行われて穂積昨などが東国国司に任じられ、また持統天皇4年(690年)、朝廷は新羅からの亡命者で帰化した韓奈末許満ら12名を武蔵国に移した。大宝3年(703年)には、引田祖父が武蔵国守に任じられた。慶雲5年(708年)には、秩父郡で和銅(精錬の必要の無い自然)が発見されたため、朝廷は慶事としてこの年を「和銅」と改元した。和銅3年(710年)頃武蔵国造の乱で献上された南部(多氷)(現在の東京都府中市)に国府が置かれた。当初は水上交通が中心で、陸路が整備されていなかったため、比較的交通が発達し大国であった毛野国を経由する東山道に属し、東山道武蔵路が設けられた。宝亀2年(771年10月27日に「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が宣下東海道に移され、陸路が整備された。

平安時代延長5年(927年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。必ずしも平穏ではなく、天慶2年(939年)の源経基武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となったともいわれる。

中世[編集]

その後、牧の管理者の中から秩父氏が起こり、小野姓横山党横山氏など武蔵七党と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた。武蔵国府(東京都府中市)は重要な拠点として存在し、鎌倉街道が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、神奈川側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東(現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。周辺の国々では上総氏三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。武蔵国でも比企氏畠山氏が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。

この情況は、室町、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれた。河越氏武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。武蔵国の中小武士団は武州南一揆北一揆を結成した。

その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌長尾景春)の対立が続いた。上杉禅秀の乱永享の乱享徳の乱長尾景春の乱長享の乱などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。府中市の分倍河原の合戦等多くの祈念碑が残っている。武蔵国は六浦品川湊などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」での交易を活発に行っていた。

戦国時代後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。1546年天文15年)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、江戸城河越城岩付城鉢形城滝山城(後の八王子城)、小机城などに軍事拠点が置かれた。1590年天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。以後徳川家康関東に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。

近世[編集]

江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩忍藩岩槻藩が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。1594年文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。近世初期(1683年貞享3年)また一説によれば寛永年間1622年-1643年)に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち隅田川から利根川(現在の江戸川下流)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。東京低地の開発が始まった。1653年承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。

1853年嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで農兵隊を編成した。八王子千人同心が動員され、近藤勇などが新撰組の中核を担った。1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約が締結された。

明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能山城国平安京京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。
徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の東京都府中市は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。

近代以降の沿革[編集]

細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。

国内の施設[編集]

国府[編集]

国府奈良時代から平安時代には多磨郡に置かれた。現在の東京都府中市に位置し、関連施設が発掘されている。
国府中心部や国分寺の建築には多量のなどが必要とされるが、東山道武蔵路の南延長線上(現在の稲城市川崎街道)にある「瓦谷戸釜跡」で焼かれていた[4]と推定されている。
また、府中市中心部周辺は大きな宿場町が複数連なっていた(府中宿 (甲州街道)も参照)。
対蝦夷戦争で多量の武器・武具が生産されたが、それを担ったのは各国の国府に設けられた官営工房(国衙工房)であり、武蔵国でも国府集落の北西周辺一帯に小規模で散在する工房群でつくられたと考えられている。武器・武具の生産は、特に8世紀後半以降に一層強化された。[5]
  • 国庁
武蔵国の総社である大國魂神社の東隣住宅地から、府中駅南側の商業地部分に存在したと考えられている(武蔵国府関連遺跡[6]2009年(平成21年)にこの周辺は「武蔵国府跡」として国の史跡に指定された。
  • 国衙
府中市宮町二丁目5-3にて武蔵国衙跡(むさしこくがあと)が発掘された[7][8]。大國魂神社の東隣に位置し、史跡として指定され2008年(平成20年)4月に正殿跡や掘立柱が公開されている。建物が二棟、確認出来ている。
  • 国府津
武蔵国府府中市と湊品川(品川区)の間には、多摩川による水運と品川道による陸路があり、調布市の古代品川道遺跡では中世の工房跡が発見されている。さらに武蔵国総社大祭の神事「品川海上禊祓式」が品川で行われている事などから、国府津(外港)は、品川湊であったと推定されている[9]が、定かではない。

国分寺・国分尼寺[編集]

現在の東京都国分寺市西元町14丁目にあった。都と国府を繋ぐ古代官道「東山道武蔵路」東側の広大な土地に大規模な遺跡が確認され、国の史跡に指定されている。その法燈を継承する寺院として同地に医王山最勝院国分寺(本尊:薬師如来)がある。
  • 武蔵国分尼寺
国分寺市西元町4丁目の西院(尼寺)地区にあった。古代官道「東山道武蔵路」の西側、国分寺の向かい側に位置する。国分尼寺跡は「武蔵国分寺跡」の一部として国の史跡に指定され、2003年に初の国分寺市立歴史公園として開園している。

神社[編集]

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社2座2社・小社42座41社の計44座43社が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。
総社一宮以下

一宮以下について[編集]

上記のように、一宮以下については諸説ある。

総社大國魂神社(六所宮)は『神道集』(南北朝時代)に記載される「武州六大明神」を基にして

  • 一宮:小野神社、二宮:二宮神社、三宮:氷川神社、四宮:秩父神社、五宮:金鑽神社、六宮:杉山神社

を公式としている。なお、現在も大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷には氷川神社の神官が参じている。

神道集以外の文献は以下の通り。

これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説[13]、『延喜式神名帳』に「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説もある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする中世までの史料は見つかっていない。

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 - 龍門山等持院高安寺東京都府中市片町、本尊:釈迦如来)と大龍山東光院安国寺(埼玉県越谷市大泊、本尊:阿弥陀如来)が法燈を継承
  • 利生塔 - 未詳

主要な港[編集]

[編集]

飛鳥時代
  • 檜前馬牧(台東区浅草)
  • 神崎牛牧(新宿区牛込)
平安時代
  • 石川牧
  • 立野牧
  • 小川牧
  • 秩父牧(埼玉県秩父市)
  • 由比牧(八王子市)
  • 小野牧

地域[編集]

[編集]

武蔵国には21郡(後に22郡)が置かれた。陸奥国の40郡に次いで多い。

江戸時代の藩[編集]

[編集]

江戸時代後期の文化文政期に幕府湯島聖堂地理局による事業として編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿』(1830年〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらにという区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。

「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、川崎市二ヶ領用水(稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、埼玉県の旧北足立郡域では、「指扇領辻」(さいたま市西区)・「南部領辻」(さいたま市緑区)、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、上尾市)、「安行領在家」(川口市)、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。

以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。

  • 府中領 - 多磨郡 44
  • 柚木領 - 多磨郡 24
  • 日野領 - 多磨郡 20
  • 由井領 - 多磨郡 56
  • 小宮領 - 多磨郡 59
  • 三田領 - 多磨郡 55
  • 拝島領 - 多磨郡 16
  • 山口領 - 多磨郡 23、入間郡 41
  • 野方領 - 多磨郡 54、豊嶋郡 40、新座郡 34
  • 麻布領 - 豊嶋郡 16、荏原郡 5
  • 貝塚領 - 豊嶋郡 1
  • 峽田領(はけた-) - 豊嶋郡 36
  • 岩淵領 - 豊嶋郡 19
  • 戸田領 - 豊嶋郡 4、足立郡 11
  • 淵江領 - 豊嶋郡 2、足立郡 38
  • 谷古田領 - 足立郡 31
  • 赤山領 - 足立郡 24
  • 舎人領 - 足立郡 10
  • 平柳領 - 足立郡 15
  • 浦和領 - 足立郡 13
  • 木崎領 - 足立郡 17
  • 安行領 - 足立郡 4
  • 三沼領(見沼領) - 足立郡 16
  • 南部領 - 足立郡 38
  • 上尾領 - 足立郡 6
  • 大谷領 - 足立郡 26
  • 鴻巣領 - 足立郡 30
  • 忍領 - 足立郡 19、埼玉郡 64、大里郡 13、男衾郡 1、幡羅郡 32、榛沢郡 2
  • 石戸領 - 足立郡 21
  • 平方領 - 足立郡 5
  • 差扇領 - 足立郡 18
  • 吉野領 - 足立郡 7
  • 大宮領 - 足立郡 15
  • 植田ヶ谷領 - 足立郡 25
  • 与野領 - 足立郡 23
  • 笹目領 - 足立郡 9
  • 西葛西領 - 葛飾郡 69
    • 北半の「本田筋」と南半の「新田筋」に分けられる。
  • 東葛西領 - 葛飾郡 52
    • 北半の「上の割」と南半の「下の割」に分けられる。
  • 二郷半領 - 葛飾郡 81
    • 西半の「本田方」と東半の「新田方」に分けられる。
  • 松伏領 - 葛飾郡 18
  • 幸手領 - 葛飾郡 54
  • 島中河辺領(しまちゅうかわべ-) - 葛飾郡 18
  • 六郷領 - 荏原郡 34
  • 馬込領 - 荏原郡 13
  • 世田ヶ谷領 - 荏原郡 30、多磨郡 29
  • 品川領 - 荏原郡 13
  • 稲毛領 - 橘樹郡 57
  • 神奈川領 - 橘樹郡 40、都筑郡 35
  • 小机領 - 橘樹郡 7、都筑郡 25
  • 川崎領 - 橘樹郡 26
  • 金沢領 - 久良岐郡 18
  • 本牧領 - 久良岐郡 36
  • 金子領 - 入間郡 12
  • 河越領 - 入間郡 112、高麗郡 10
  • 入西領(にっさい-) - 入間郡 18
  • 高麗領 - 高麗郡 20
  • 加治領 - 高麗郡 47、秩父郡 2
  • 松山領 - 高麗郡 1、比企郡 50、男衾領 5
  • 川島領 - 比企郡 54
  • 多磨川領 - 比企郡 27、男衾郡 4、秩父郡 7
  • 下吉見領 - 横見郡 46
  • 岩槻領 - 埼玉郡 92
  • 八条領 - 埼玉郡 35
  • 新方領 - 埼玉郡 29
  • 百間領(もんま-) - 埼玉郡26
  • 菖蒲領 - 埼玉郡 15
  • 騎西領 - 埼玉郡 56
  • 向川辺領 - 埼玉郡 13
  • 古河川辺領 - 埼玉郡 10
  • 羽生領 - 埼玉郡 84
  • 深谷領 - 大里郡 1、幡羅郡 13、榛沢郡 29
  • 御正領 - 大里郡 7
  • 上吉見領 - 大里郡 23
  • 鉢形領 - 男衾郡 25、幡羅郡 20、那珂郡 6、児玉郡 24
  • 岡部領 - 榛沢郡 10
  • 本庄領 - 榛沢郡 3、児玉郡 21
  • 藤岡領 - 榛沢郡 6
  • 阿保領(安保領) - 榛沢郡 3、児玉郡 4、賀美郡 27
  • 八幡山領 - 那珂郡 2、児玉郡 19
  • 秩父領 - 児玉郡 1、秩父郡 1
    • 上記のほか、足立郡の郡図総説(巻之百三十五)では「小室郷」としているが、巻之百四十六では足立郡内の9村を「小室領」として記載している。

新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「武蔵野新田」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。

現在の行政区分[編集]

人口[編集]

  • 1721年(享保6年) - 190万3316人
  • 1750年(寛延3年) - 177万1214人
  • 1756年(宝暦6年) - 177万4064人
  • 1786年(天明6年) - 162万6968人
  • 1792年(寛政4年) - 163万4048人
  • 1798年(寛政10年)- 166万6131人
  • 1804年(文化元年)- 165万4368人
  • 1822年(文政5年) - 169万4255人
  • 1828年(文政11年)- 171万7455人
  • 1834年(天保5年) - 171万4054人
  • 1840年(天保11年)- 172万1359人
  • 1846年(弘化3年) - 177万7371人
  • 1872年(明治5年) - 194万3211人
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林

人物[編集]

国司[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 元来は隅田川以東であり、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現江戸川)以東迄を武蔵国に編入した。
  2. ^ 中葛飾郡を除く。元来は古利根川以東であり、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現江戸川)以東までを武蔵国に編入した。
  3. ^ 相模国鎌倉郡に属していた以下の地域は除く:戸塚区瀬谷区卸本町の一部を除く)、泉区栄区の全域および南区六ツ川四丁目、港南区永野地区、金沢区朝比奈町全域と東朝比奈の一部

出典[編集]

  1. ^ 无射志国荏原評銘文字瓦(川崎市教育委員会文化財課)
  2. ^ 御田八幡神社由緒。
  3. ^ 高橋氏文にある「武蔵国造の意」の表記。
  4. ^ 瓦谷戸窯跡群発掘調査報告書
  5. ^ 平野卓治「律令国家と「坂東」」 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武次編『列島の古代史1 ひと・も・こと 古代史の舞台』岩波書店 2006年 140-141頁
  6. ^ 府中市教育委員会・国分寺市教育委員会 編『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』学生社、2006年(平成18年)
  7. ^ 府中観光協会 武蔵国衙跡
  8. ^ 国史跡 武蔵国府跡
  9. ^ 『品川区史』通史編、高島緑雄
  10. ^ 日本「神社」総覧 新人物往来社(岡田荘司)
  11. ^ 『中世諸国一宮の基礎的研究』
  12. ^ 『埼玉県の地名』(平凡社) 金鑚神社項。
  13. ^ 『埼玉県の地名』(平凡社) 氷川神社項。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]