出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は羽州(うしゅう)(出雲国との重複を避けるため二文字目を用いる)。領域は現在の山形県と秋田県(鹿角市と鹿角郡小坂町を除く)にあたる。『延喜式』での格は上国、遠国。
明治維新後、羽前国と羽後国に分割されたため、以後両羽とも呼ばれた。
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[編集] 概要
出羽の起源は、708年(和銅元年)9月28日に、越後国に設置された出羽郡である。712年(和銅5年)9月23日に出羽国に昇格し、翌10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて国としての体制が整った[1]。その後、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させた。さらにその後も柵戸や公民[2]を中心とした郡制施行地を拡大していった。 以後陸奥国と並ぶ辺境の国となり、733年(天平5年)頃には雄勝郡が設置されたと見られる。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、759年(天平宝字3年)には雄勝城の設置に合わせ改めて、雄勝郡、平鹿郡が置かれた。その後8世紀中に、秋田郡、河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど徐々に領域を北に伸ばした。886年(仁和2年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡、田川郡が分離したと見られている。最終的に出羽国の管理する郡・郷は、11郡58郷であった[3]。なお、平安時代まで、出羽は「いでは」と読んでいた。
秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど陸奥との境界は不分明であったが、平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて出羽国府の直接管轄地以北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(後に秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。
大和朝廷は、7世紀半ばから9世紀初めにかけて、蝦夷の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に城柵を設けた。658年に都岐沙羅柵(磐舟柵のアイヌ語地名の別称か)、705年(慶雲2年)に越後城(渟足柵か)、708年(和銅元年)に出羽柵、733年(天平5年)に秋田村出羽柵(秋田市)から760年(天平宝字4年)に秋田城(秋田市)、759年(天平宝字3年)雄勝城、780年(宝亀11年)に大室塞の7柵を作る。
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当(庄内地方最上川以北は含まれない)する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された。このとき、陸奥国も5分割された。
[編集] 沿革
出羽国成立当初のランクは不明であるが、律令制の下で上国[4]とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例として両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降、秋田城介が空位になると鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。8世紀から9世紀初めには盛んに城柵が作られ、蝦夷との戦争を経て次第に領域を北に拡大した。陸奥国と並び黄金を産した。
平安時代前期に陸奥側の北部4郡が放棄されたと見られるが、出羽側では国府と秋田城の統制が継続し、陸奥側と異なり俘囚の主とされる清原氏は、在庁官人として力を蓄えたと見られている。清原氏が後三年の役で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使や鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権及び後鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。
奥州藤原氏が、奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は、出羽国に橘氏(小鹿島氏)、平賀氏、小野寺氏、武藤氏(大宝寺氏)、大江氏(長井氏、寒河江氏等)等の御家人を地頭として配置した。しかし、由利地方以南はなおしばらく在地領主層(由利氏等)が在庁官人としての権益を保っていることが『吾妻鏡』に見える。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は、米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。
中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉幕府の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争いが活発化し、津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏、小野寺氏、大宝寺氏、陸奥斯波氏の分かれである最上氏、陸奥から進出した伊達氏などが支配した。
江戸時代は、佐竹氏、岩城氏、六郷氏、酒井氏、戸沢氏、上杉氏などの大名が配置された。戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟を結び旧幕府方についたが、佐竹氏が直後に離反、他の諸藩も各個撃破され酒井氏、上杉氏等は削封された。尾花沢代官陣屋が置かれた。
[編集] 国内の施設
[編集] 国府
国府は、『和名抄』では平鹿郡、『拾芥抄』では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。
出羽国が成立当初の国府は出羽柵(庄内地方にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、733年(天平5年)に秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移ったが、その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『日本後紀』の河辺府を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の城輪柵跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』887年(仁和3年)5月20日の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である[5]。
蝦夷との境界付近には759年(天平宝字3年)に雄勝城も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。
雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると10世紀中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は12世紀頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も14世紀頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。
[編集] 国分寺・国分尼寺
- 護国山柏山寺 - 山形市薬師町。天台宗で本尊は薬師如来。
国分尼寺は現存しない。平安時代の国分寺は城野柵の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、国分尼寺は堂の前遺跡よりも4キロ南にある高阿弥陀遺跡を比定する説が有力である。[6]。
[編集] 神社
- 飽海郡 大物忌神社 (現 鳥海山大物忌神社、山形県飽海郡遊佐町) - 名神大社。
- 飽海郡 小物忌神社 (山形県酒田市山楯)
- 飽海郡 月山神社 (山形県東田川郡庄内町立谷沢) - 名神大社。出羽三山の一。
- 田川郡 遠賀神社 - 山形県鶴岡市井岡、同市遠賀原、同市外内島に論社3社。
- 田川郡 由豆佐売神社 (山形県鶴岡市湯田川)
- 田川郡 伊弖波神社 (現 出羽神社、山形県鶴岡市羽黒町手向) - 出羽三山の一。
- 平鹿郡 塩湯彦神社 (秋田県横手市山内大満川)
- 平鹿郡 波宇志別神社 (現 保呂羽山波宇志別神社、秋田県横手市大森町八沢木)
- 山本郡 副川神社 - 副川神社(秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町)または嶽六所神社(秋田県大仙市神宮寺)、八幡神社(秋田県大仙市神宮寺。嶽六所神社境外社)、添川神明社(秋田県秋田市添川)に比定。
- 総社
- 総社神社 (秋田市川尻総社町)
- 古四王神社 (秋田市寺内児桜)
- 六所神社 (山形県藤島町藤島六所畑)
- 一宮 鳥海山大物忌神社 - 鳥海山山頂に本殿が、山麓の吹浦と蕨岡の2か所に口宮(里宮)がある。長年2つの口宮が一宮の称を争っていたため、江戸時代、幕府の裁定により山頂の祠が一宮と定められた。
- 二宮 城輪神社 - 国史見在社。大物忌神社の摂社。
- 三宮 小物忌神社
[編集] 安国寺利生塔
- 太平山安国寺 - 山形県東村山郡山辺町大寺。曹洞宗で、本尊は釈迦如来。
利生塔は現存しない。
[編集] 地域
[編集] 郡
[編集] 人口
- 1721年(享保6年) - 87万7650人
- 1750年(寛延3年) - 84万6255人
- 1756年(宝暦6年) - 83万8446人
- 1786年(天明6年) - 80万4922人
- 1792年(寛政4年) - 81万6770人
- 1798年(寛政10年) - 85万2959人
- 1804年(文化元年) - 87万0149人
- 1822年(文政5年) - 90万9212人
- 1828年(文政11年) - 94万5919人
- 1834年(天保5年) - 94万0929人
- 1840年(天保11年) - 83万2649人
- 1846年(弘化3年) - 91万2452人
- 1872年(明治5年) - 119万1020人(羽前国と羽後国の合計)
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
[編集] 人物
[編集] 国司
[編集] 出羽守
[編集] 守護
[編集] 武家官位としての出羽守
[編集] 脚注
- ^ 『続日本紀』当該年月条。しかし同書の716年(霊亀2年)9月23日条にも陸奥国置賜最上二郡を出羽国に隷せしむとある。霊亀2年を誤りとするか、決定時と実施時に分ける説(新野直吉『古代東北の開拓』87-88頁、91-92頁。林陸朗『完訳注釈続日本紀』第一分冊注釈40頁)が有力だが、和銅5年のほうを誤りとする説もある(高橋崇『律令国家東北史の研究』18-19頁)。
- ^ 租庸調・兵役・雑徭などを負担する人々のこと
- ^ 高山寺本『倭名類聚抄』
- ^ 『延喜式』。上国は、国司の定員は守・介・掾(じょう)・目(さかん)の四等官が各1人、史生(ししょう)3人の計7人である。いずれも中央から派遣された。任務としては、国内の行・財政、司法・検察・軍事・宗教などで、特別な任務としては、蝦夷をもてなし懐柔し、蝦夷集団の支配・服属関係を維持し拡大する饗給、蝦夷集団の動静を常に探る斥候、時に応じて軍事力で蝦夷集団を制圧する征討が付け加わった。
- ^ 誉田慶喜「出羽国のはじまり」40ページ(横山昭男・誉田慶喜・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社、2003年2月)
- ^ 誉田慶信「出羽国のはじまり」42ページ(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社、2003年2月)
[編集] 参考文献
- 高橋崇『律令国家東北史の研究』、吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7。
- 新野直吉『古代東北の開拓』、塙書房、1969年。
- 林陸朗・校注訓訳『完訳注釈続日本紀』第1分冊(巻第一 - 巻第八)、現代思潮社(古典文庫)、1989年。
[編集] 関連項目
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