鎌倉公方

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明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国
新編鎌倉志-関東公方屋敷図

鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代室町幕府征夷大将軍関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。

鎌倉公方はあくまでも歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。また、鎌倉公方は将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。

歴史[編集]

足利公方邸 旧蹟(鎌倉市‎浄明寺‎)足利公方邸は足利義兼の時代に建てられ、室町幕府が成立すると鎌倉公方の居所となった。その後、享徳の乱で焼失した。

1349年足利尊氏と弟の足利直義が対立(「観応の擾乱」に発展)した際、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代とする。関東管領を補佐役として関東十か国を支配した(後に陸奥国出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。将軍家と身分差がさほどなく、将軍になる資格は十分にあった。永享の乱の際には関東管領(上杉憲実)とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。

1447年に持氏の子成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。後に幕府と対立した成氏が、1455年下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。

歴代鎌倉公方[編集]

名前 在職期間 備考
- 足利義詮 1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)~1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)
初代 足利基氏 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)~1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)
二代 足利氏満 1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)~1398年(応永5年)
三代 足利満兼 1398年(応永5年)~1409年(応永16年)
四代 足利持氏 1409年(応永16年)~1439年(永享11年) 永享の乱で自刃。これによって鎌倉公方は一時断絶する
五代 足利成氏 1449年(宝徳元年)~1455年(康正元年) 1455年下総国古河に移り、古河公方となる

参考文献[編集]

  • 田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4642077898

関連項目[編集]