足利満兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

足利満兼(あしかがみつかね、永和4年(1378年) - 応永16年7月22日1409年9月1日))は室町時代中期の武将。第3代鎌倉公方(在位・応永5年(1398年) - 応永16年(1409年))である。本姓源氏家系清和源氏の一家系河内源氏の嫡流 足利氏足利将軍家の一門。二代鎌倉公方足利氏満長男。正室は一色氏の女。足利持氏の父。幼名・金王丸。従四位下・左馬頭・左兵衛佐・左兵衛督。弟には足利満貞足利満直足利満隆がいる。

3代将軍足利義満の片諱を授かり元服する。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており、応永6年(1399年)に大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では、それを正当化する御教書を賜っている。さらに自身も、義弘に加勢するため鎌倉を発ち、武蔵国府中(東京都府中市)まで進軍するが、関東管領上杉憲定に諫止され、途中義弘の敗死を聞き引き返した。翌年、伊豆国三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている。1399年には陸奥国出羽国が鎌倉府の管轄となったため、二人の弟を篠川御所稲村御所として下す。しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い、1402年に室町幕府と結んでいた伊達政宗(戦国時代に活躍した政宗とは別人の先祖)の反乱(伊達政宗の乱)に起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させる。応永16年7月22日に死去、享年32。法名は勝光院泰岳道安。


(官職および位階等の履歴)※日付=旧暦

応永5年(1398年)12月、従四位下に叙し、左兵衛佐に任官。

日付不詳 左馬頭に遷任。

日付不詳 左兵衛督に転任。


[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍


先代:
足利氏満
鎌倉公方
第3代
次代:
足利持氏