伊達政宗
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 伊達政宗 | |
|---|---|
| 時代 | 戦国時代から江戸時代前期 |
| 生誕 | 永禄10年8月3日(1567年9月5日) |
| 死没 | 寛永13年5月24日(1636年6月27日) |
| 改名 | 梵天丸(幼名)、政宗 |
| 別名 | 藤次郎(通称) |
| 諡号 | 貞山 |
| 神号 | 武振彦命 |
| 戒名 | 瑞巌寺殿貞山禅利大居士 |
| 墓所 | 瑞鳳殿、青葉神社 |
| 官位 | 従五位下、左京大夫、侍従、越前守、従四位下、右近衛権少将、陸奥守、正四位下、参議、従三位、権中納言、贈従二位 |
| 幕府 | 室町幕府陸奥国守護、江戸幕府 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
| 藩 | 陸奥国仙台藩主 |
| 氏族 | 伊達氏 |
| 父母 | 父:伊達輝宗、母:義姫(最上義守娘) |
| 兄弟 | 政宗、小次郎(政道)、秀雄、千子姫 |
| 妻 | 正室:愛姫 側室:新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、朝鮮人女子某 |
| 子 | 秀宗、忠宗、宗清、宗泰、宗綱、宗信、 宗高、竹松丸、宗実、宗勝、亘理宗根、 五郎八姫、牟宇姫、岑姫、千菊姫、津多 |
伊達 政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主伊達輝宗と最上義守の娘義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、通称は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祭られる。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明している。また、戦国屈指の教養人である一方、豪華絢爛を好むことで知られていた。諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。「独眼竜政宗」の愛称でも呼ばれている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 幼年期
永禄10年(1567年)、出羽米沢の米沢城に生まれる[1]。 元亀2年(1571年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する[2]。
後に豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたのか?」と聞かれた際において、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語る[3]。 また、片倉景綱が容貌を悪くしていた右目を短刀で摘出したという逸話もある。
元亀3年(1572年)、政宗の将来を心配した父・伊達輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。景綱は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。
[編集] 家督相続から摺上原の戦いまで
天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)、隣接する戦国大名相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。
天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、若年を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。
小手森城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏からの支配を脱却し、政宗に対抗しようとした。天正13年(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める。討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非道な一面を見せた。豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。これは、近隣諸国への見せしめである。しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている。
大内定綱の没落を間近で見た畠山義継は、和議を申し出た。輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになった。ところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた義継を城門まで見送りに行った所を拉致される。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡し、父輝宗もろとも鉄砲を放ってひとり残らず殺害したという。この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説ある。
その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも畠山氏の二本松城を包囲し、畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。数の上で五分の一以下の戦力であった伊達軍は重臣鬼庭良直を討たれ窮地に立つものの辛くも持ちこたえ、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利をおさめた(人取橋の戦い)。
政宗は更なる侵攻を行い、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下におく。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、私戦禁止命令を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・二階堂氏らが侵攻。また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが母・義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。蘆名氏はすでに関白秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。蘆名義広は1万5千の兵を率い、政宗も2万1千を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2千余りを討ち取ったという。黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。この戦いと前後して、周辺の戦国大名白河義親・石川昭光・岩城常隆が次々と政宗に服属した。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった[4] [5] [6]。
[編集] 豊臣秀吉との対立
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、政宗は秀吉と鋭く対立した。秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていた。しかし、天正18年(1590年)、秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)。記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上、箱根の底倉に監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させた。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。政宗が秀吉に服属したため、政宗と同盟を結んでいた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城、会津黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の「天下統一」が達成された。
参陣前に母親に毒殺されそうになり、母親を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したという説が通説となっているが、毒殺創作説も存在する。母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、四年後に兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)[7]。
天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を扇動していた嫌疑をかけられる。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。そこで政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた。政宗が秀吉に一揆扇動の当事者ではないと弁明する際、予め書状に押す鶺鴒(せきれい)の花押の印の瞳の部分に針で穴を事前に空けてある物とない物を用意していた。政宗は私の物には針で開けた鶺鴒の瞳があるがこれにはないと抗弁した。秀吉はそれが政宗の策謀であると見抜くが、近く予定されていた朝鮮出兵のためにそれをあえて許した。
文禄2年(1593年)秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。3,000人もしくは1,500の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[8]、と伝えられる。これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものとされる[要出典]。
豊臣政権においては、秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘駒姫は、秀次の側室になるために上京したばかりであったが、秀次の妻子らとともに処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には徳川家康の秀吉へのとりなしで秀次との謀反は無関係であるとされ連座の難を逃れた。しかしこの間、政宗は文禄4年(1595年)から慶長5年(1600年)にかけて、領国に帰ることを許されずに伏見、大坂に滞在し続けた。また、秀次事件の際に政宗の有力家臣団は、「政宗に異心が生じた場合は政宗を廃して嫡子秀宗を擁立し、豊臣に忠節を尽くす」といった内容の起請文を秀吉に提出させられた。こうしたことが政宗の領国統治能力の低下や家臣団統制の弛緩を招き、茂庭綱元や国分盛重、伊達成実といった有力家臣団の離反の原因になったという説もある[9]。
秀吉の死後、家康と政宗は秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させた。
[編集] 関ヶ原合戦と最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に家康が会津領主上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して、7月25日に上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館所蔵)を送っている。これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参加が是非とも必要であったことから、恩賞で政宗を釣ることで東軍参加を促したとされる。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)。9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。
政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)。
戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、100万石の御墨付きを反故にした。結果的に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
[編集] 仙台開府と慶長遣欧使節
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設をはじめ、居城を移す。ここに、政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。仙台藩62万石は加賀前田氏、薩摩島津氏に次ぐ全国第3位であるが、それは表高であり、仙台藩の実高は優に100万石を越えていたといわれる。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、スペイン国王フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、スペイン、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
[編集] 大坂の役
夏の陣では大和口方面軍の後見役として参加し、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は百万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議をとなえることはなかった[10]。
翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにする(6日とする説もある)。神保隊は味方であることを必死に訴えたが、政宗の軍勢は攻撃をやめず神保隊は全滅し相茂自身も討ち死にすることになった。神保家の遺臣は水野勝成を通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張して諸大名の笑いものになった(薩藩旧記)。しかし、幕府は伊達家を不問とし記録(寛政重修諸家譜)にも神保相茂は「奮戦して死す」とのみ記述される。この事件は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では休息中の神保隊に有無をいわさずに銃撃を加えたとする説も書かれている(詳細は神保相茂の項を参照)。また、味方討ちは5月7日の天王寺の戦いではなく、5月6日の道明寺の戦いの際であるとの説もあり、前述のように道明寺の戦いでは水野家家中3人を撃ち殺しているので7日説では2日連続で味方討ちを行ったことになるが、6日説であれば水野隊も銃撃に巻き込んだ可能性が高いことになる。
[編集] 晩年
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また塩竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から江戸へ東廻り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。徳川の政権が盤石となってからは、家の安泰をはかるため、徳川家光の時代には、江戸城の廊下で通りかかった老中酒井忠勝に相撲を挑んで負けたり、将軍の前でわざわざ居眠りをして老耄ぶりをことさら披露するなど心を砕いた。
徳川家康から徳川家光まで三代に仕えるが、寛永13年(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始める。しかし前年より始まった参勤交代制に従い、同年5月1日には江戸城で将軍家光に謁見。病をおして参府した政宗に感激した家光は、その後しばしば政宗の居留する桜田の伊達家上屋敷に見舞いのため老中を派遣した。5月21日政宗危篤。この報を受けた家光は直ちに自ら伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。感激した政宗は髪を整え、裃を来て3人の老中に身体を支えられながら家光を迎えたという。5月24日早朝死去。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。法名は瑞巌寺殿貞山禅利大居士、尊称は貞山公。
[編集] 居城
- 米沢城(山形県米沢市) - 永禄10年(1567年)~天正13年(1585年)
- 小浜城(福島県二本松市) - 天正13年(1585年)~天正14年(1586年)
- 米沢城 - 天正14年(1586年)~天正17年(1589年)
- 黒川城(福島県会津若松市追手町) - 天正17年(1589年)~天正18年(1590年)
- 米沢城 - 天正18年(1590年)~天正19年(1591年)
- 岩出山城(宮城県大崎市) - 天正19年(1591年)~慶長5年(1601年)
- 仙台城(宮城県仙台市青葉区) - 慶長5年(1601年)~寛永4年(1627年)
- 若林城(宮城県仙台市若林区) - 寛永4年(1627年)~寛永13年(1636年)
[編集] 墓所
仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)。これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。
再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。歯槽膿漏により上あごの左右の犬歯以外はすべて抜け落ちていた。天正17年(1589年)に米沢で落馬し骨折した時のものと思われる、左腓骨の骨折の跡も見つかった。[11]また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。[12]
[編集] 遺訓
一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
いわゆる「徳川家康遺訓」が偽作であるのと同様、真偽のほどは定かではない。
[編集] 逸話
- 父・輝宗は伊達家中興の祖と呼ばれる第9代政宗にあやかって、息子に政宗と名づけたという[13]。本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。
- 隻眼の行者、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。
- 正室・愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、五郎八姫など十男四女をもうけた[14][15]。
- 政宗の側室の中には外国人の側室もいた。この側室は、政宗が出兵に従軍した際、捕虜として連れ帰った朝鮮人の女性である
- 衆道関係においては、小姓の只野作十郎(只野勝吉)へ宛てた書状が残されている[16]。同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。
- 政宗は正室・愛姫との間にもうけた嫡出の次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前[17])との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった[18]。
- 摺上原の戦いの後、政宗が黒川城に入城する際、戦勝を祝って一族の伊達重宗が即興で「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と歌った。これが後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったとされるが、俗説であり事実ではない。福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うとひんしゅくを買うことがある。
- 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際、文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には二種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった[19]。但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
- 政宗は朝鮮出兵に同行していない説があるが、俗説であり事実ではない。政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。
- 政宗は家康に従って後の天下取りの機会を窺うことを優先し、旧領である上杉領に進攻し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。
- 最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したとされるが、定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたとされる。[要出典]
- 大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望をあきらめざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、政宗の野望説を唱える史料(政宗は徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想を立てていたとするもの)などから否定されることも多い。[要出典]
- 砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大坂の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列したことなどから政宗の落胤ではないかとの説もある。
- 徳川家光からは非常に尊敬されていた。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう[20]。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えている。
- 将軍の前での脇差帯刀を許されていた。側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという[21]。
- 二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。
- 政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いにきた。政宗が亡くなると、父秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の殺生禁断・鳴物停止を命じた。
- 政宗には離間、扇動工作等をした色々な嫌疑が絶えなかったが、黒脛巾組という忍者集団がいたと仙台藩士の半田道時の伊達秘鑑には掲載されている。その一方で、『政宗記』などには黒脛巾組という名称の記述は見あたらない(参考:葛西大崎一揆や和賀忠親一揆等)
- 実戦経験がない将軍家光はしばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。
- 遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。政宗の長女の五郎八姫は、一時期キリシタンだったことがある。
- 養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。
- 朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。
- 料理が趣味[22]。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を命期集に残している。仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。
- 岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。
- 料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。特に若年から習っていた能には傾倒しており、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、自身も豊臣秀吉や徳川家光の前で太鼓を打つなどしている。政宗が晩年、能に使用した費用は年間三万石余に及んだという。
- 喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた[23]。遺品に、愛用のキセルがある。
- 隙のない印象の政宗であるが、酒にだけは滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。
- 映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた[24]。
- 大悲願寺13世海譽の元で弟子として在山していた弟・秀雄のもとを政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し[25]貰い受け、臥龍梅を大悲願寺に贈った。
- 明治天皇は政宗の事を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」と評している。[26]
- 宮城県宮城郡松島町にある伊達光宗の菩提寺円通院には、伊達一本締めという仙台藩祖・伊達政宗ゆかりの一本締めが伝承されている。「いよ~っ、パパパン!、いよ~っ、パン!」という「3」と「1」の拍子の組み合わせが「三国一」を表しており天下を狙った政宗の夢が込められ、慶長遣欧使節の支倉常長もこの”伊達一本締め”で見送られ、徳川政権が安定してからは秘めた意味が露見しないよう姿を消した。そのため資料が一切残っておらず、伊達家所縁の円通院に代々人づてに伝えられていた。[27]
- 「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも見せない心意気であったという。
- 23歳の時、落馬して骨折し、小野川温泉で湯治したという記録がある。
[編集] 政宗の野望
政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。
- 秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた蘆名家領土の「経略多端」の故と弁明している。佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
- 葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙ったという説がある。
- 関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。
- 政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。
- 政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の1反360歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた1反300歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取り、各領主に開墾を奨励し、仙台平野の新田開発を推し進めた(寛永5年(1628年)には、白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した[28]。政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。最盛期には表高の1/3にあたる20万石もの米が江戸に出荷されていた。享保17年(1732年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。なお、このときの収益は約50万両にものぼったという。この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある[29]。
- 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者として慶長遣欧使節をローマに派遣したという説がある(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年など)。しかしこれに対しては根拠が薄弱であるという批判がある[30]。
- 支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
- 政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていた。
大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。
(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)
– 『東奥老子夜話』より抜粋
- 親密であった徳川家の家臣、大久保長安と結託して倒幕を図っていたとの説もある[31]。しかし、これも説の根拠となる『治家記録』の記述を再検討した上での批判が加えられている[32]。
- 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。[要出典]
- 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ、おにする(毒見する)所にてはなきぞ。御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも、日本の神かけて毒などにて、殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
- 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
- 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何。」というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う二通りの解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったのか、政宗の残した大きな謎となっている。
- 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。
その一方で、家光の代においては「かつては天下を狙っていたが、今は家光を支える立場である」とことを示したという逸話が残る。
- 家光の将軍就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。この家光の発言は政宗の助言によるものだったとも、あるいは幕閣が政宗に予め根回して即座に返答するよう依頼したとも言われている[要出典]。
- 家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)
- 天正12年(1584年)10月 - 家督継承
- 天正13年(1585年)閏8月 - 従五位下美作守に叙任。
- 天正14年(1586年) - 左京大夫に転任。
- 天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる。
- 慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
- 慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる。
- 元和元年(1615年)
- 寛永3年(1626年)8月19日 - 従三位権中納言に昇叙転任。この時点で、水戸徳川家当主頼房、加賀前田家当主利常、薩摩島津家家久と官位が並ぶ。
- 寛永11年(1634年)8月 - 所領石高62万5000石となる。
- 1918年(大正7年)11月18日 - 贈従二位。
[編集] 政宗の異名「独眼龍」について
伊達政宗が「独眼龍」のあだなで呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者頼山陽の賦した漢詩にまで遡る。山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められた「詠史絶句」15首のひとつに、政宗に題を採ったものがある。天保元年(1830年)の作とされている。
横槊英風独此公 (槊を横たふる英風独りこの公)
肉生髀裏斂軍鋒 (肉髀裏に生じて軍鋒をおさむ)
中原若未収雲雨 (中原もしいまだ雲雨収まらずんば)
河北渾帰独眼龍 (河北すべて帰せん独眼龍)
-
- 出典
- 伊藤靄谿注釈『山陽遺稿詩注釈』 書藝界、1985年
- 頼成一・伊藤吉三訳注『頼山陽詩抄』 岩波書店〈岩波文庫〉、1944年
「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、各地に割拠した軍閥の首領のひとりで、そのなかでも軍事的に最強と謳われた李克用のあだなである。たとえば『資治通鑑』巻第255に「諸将みなこれを畏る。克用一目微眇なり。時人、これを独眼龍と謂う」とある。ただし、漢字の「眇」には「片方の目が見えない」という意味と「一方の目が他方よりも小さい」という意味とがあり、李克用がどちらであったかははっきりしない。隻眼の伊達政宗をあえて李克用になぞらえたのは山陽の詩的独創に属する。
起句の「槊」は「ほこ(矛)」であり、魏の曹操が赤壁の戦いを前にして陣中で武器を小脇にはさんで詩を賦したという伝説に基づき、北宋の蘇軾が『前赤壁賦』で「釃酒臨江、横槊賦詩、固一世之雄也」と詠い、一代の英雄として讃えたことを踏まえる。曹操に匹敵するほどの文武両道に秀でた英雄は、日本では政宗だけだというのである。
承句は、同じく三国志の英雄劉備の「髀肉の嘆」の故事を踏まえたもので、そんな英雄政宗も平和の訪れととともに軍を収め、体がなまったことを嘆くようになったことをいう。
転句の「中原」は黄河中流域を指し、唐の首都長安・副都洛陽を含む地域であり、古代殷王朝・周王朝以来、中華文明の中心地として栄えた地である。当時は、李克用の終生の仇敵である軍閥朱全忠の支配下にあった。朱全忠はのちに唐王朝から帝位を奪い自らの王朝後梁を樹立する。ここでは政治・経済・文化の中心地として、日本の近畿地方の比喩となっている。「雲雨」は戦乱の比喩である。
結句の「河北」は現在の河北省の地ではなく、漠然と黄河の北側の地域をいい、李克用の本拠地晋陽(現在の山西省太原市)が中原に対して黄河の北方にあったことを指す。ここでは日本の東北地方の比喩である。中原の戦乱が終息しなければ、つまり、織田信長や羽柴秀吉による天下統一事業があれほど急速に進展しなかったならば、東北地方全域が政宗の支配下に入っていたに違いない、と山陽は政宗が“遅く生まれてきた”ことを惜しんでいるのである。
[編集] 主要家臣団
このうち、伊達成実・片倉景綱および鬼庭綱元を伊達三傑[33]、片倉景綱と伊達成実を伊達の双璧[34]と言うことがある。[要出典]
[編集] 系譜
- 正室:愛姫 - 田村清顕娘
- 側室:新造の方(六郷伊賀守娘)『飯坂盛衰記』『龍華山史』では秀宗、宗清の母は六郷氏となっている。史料により差異がある。
- 側室:飯坂の局(飯坂宗康娘、松森御前)『寛政重修諸家譜』では秀宗、宗清の母は飯坂氏となっているが、飯坂の局には子はなく新造の方が逝去したため宗清の養母になったとされている。
- 側室:塙氏 - 塙直之娘
- 伊達宗泰 - 一門岩出山伊達家始祖
- 側室:阿山方 - 柴田宗義娘
- 側室:弘子姫 - 芝多常広娘
- 側室:勝女姫 - 多田吉広娘
- 側室:妙伴 - 村上正重娘
- 千菊姫 - 京極高国室
- 愛妾:於種の方(香の前) - 高田治郎右衛門娘(京都伏見)、文禄元年の朝鮮出兵時に豊臣秀吉から茂庭綱元が秀吉の寵姫を貰い受け、後に政宗に引き合わせた。
[編集] 伊達政宗を扱った作品
[編集] 映像作品等
[編集] テレビドラマ
- NHK大河ドラマとして史上最高の平均視聴率39.7%を獲得した、伊達政宗を描いた映像作品の事実上の決定版。放映当時は「政宗ブーム」を巻き起こし、仙台市には多くの観光客が訪れた。政宗を演じた渡辺謙は当時まだ無名に近い俳優だったが、本作の名演で一気にスターダムにのし上がり、いまだに渡辺以外が演じる政宗など考えられないともいわれるほどの強烈なインパクトを残した。
- 『独眼竜の野望!伊達政宗』(1993年 東映・ANB 主演:高橋英樹)
- 『愛と野望の独眼竜 伊達政宗』(1995年 東映・TBS 主演:柴田恭兵(子役:堂本剛))
- 『HERO's HERO Gacktが語る英雄伝説』(2002年 NHK 演:柄谷吾史)
- 『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』(2006年 テレビ東京、演:清水綋治)
[編集] その他大河ドラマ(脇役)
- 『太閤記』(1965年NHK大河ドラマ 配役:井上昭文)
- 『樅ノ木は残った』(1970年NHK大河ドラマ 配役:尾上松緑)
- 『春の坂道』(1971年NHK大河ドラマ 配役:垂水悟郎)
- 『おんな太閤記』(1981年NHK大河ドラマ 配役:横光克彦)
- 『徳川家康』(1983年NHK大河ドラマ 配役:尾上辰之助)
- 『春日局』(1989年NHK大河ドラマ 配役:金田龍之介)
- 『葵徳川三代』(2000年NHK大河ドラマ 配役:すまけい)
- 『利家とまつ~加賀百万石物語~』(2002年NHK大河ドラマ 配役:遠藤雅)
- 『武蔵 MUSASHI』(2003年NHK大河ドラマ 配役:西村和彦)
- 『天地人』(2009年NHK大河ドラマ 配役:松田龍平)
[編集] 映画
- 『伊達政宗』(1912年エム・パテー商会)
- 『伊達政宗』(1915年日活京都 主演:2世尾上松之助)
- 『伊達政宗』(1919年天活 主演:5世澤村四郎五郎
- 『独眼竜政宗』(1942年大映京都・キネマ倶楽部 主演:片岡千恵蔵)
- 『独眼竜政宗』(1959年東映京都 監督:河野寿一 主演:中村錦之介)
[編集] ゲームソフト
- 『独眼竜政宗』(1988年、ファミリーコンピュータ向け、制作:ナムコ)
- 『決戦シリーズ』(2000年、プレイステーション2、制作:コーエー 声:置鮎龍太郎(I)、根本幸多(III))
- 『戦国無双』シリーズ(2004年~、プレイステーション2・Xbox、Xbox 360、Wii向け、制作:コーエー 声:檜山修之)(作品によって背丈が異なる)
- 『無双OROCHI』シリーズ(2007年~、プレイステーション2・PSP、Xbox、Xbox 360、向け、制作:コーエー 声:檜山修之)
- 『天下人』(2006年、プレイステーション2向け、制作:セガ 声:堀秀行)
- 『戦国BASARA』シリーズ(2005年~、プレイステーション2、Wii、アーケード向け、PSP、制作:カプコン 声:中井和哉)
[編集] ボードゲーム
- 『独眼竜政宗』(作戦級ウォー・シミュレーションゲーム、ツクダホビー)
- 『独眼竜政宗 カラクリ城ゲーム』(ヨネザワ)
[編集] 文学作品等
[編集] 資料
- 『伊達政宗』(著者:小林清治、出版社:吉川弘文館)
- 『伊達政宗卿』(著者:鈴木節夫、編集:藩祖伊達政宗公三百年祭協賛会)
- 『伊達政宗卿伝記史料』(著者:藩祖伊達政宗公顕彰会)
[編集] 小説
- 『伊達政宗』(著者:山岡荘八)
- 『伊達政宗』(著者:海音寺潮五郎)
- 『伊達政宗』(『風雲独眼竜』)(著者:井口朝生)
- 『伊達政宗』(著者:永岡慶之助)
- 『伊達政宗』(著者:鷲尾雨工)
- 『圖南の豪雄 伊達政宗』(著者:菅原兵治)
- 『独眼龍政宗』(著者:津本陽)
- 『独眼竜政宗』(著者:早乙女貢)
- 『独眼竜 政宗』(著者:松永義弘)
- 『独眼竜伊達政宗』(著者:西野辰吉)
- 『独眼龍伊達政宗』(著者:水野泰治)
- 『戦う政宗』(著者:星亮一)
- 『竜の見た夢』(著者:羽太雄平)清水 綋治
- 『独眼竜の涙』(著者:赤木駿介)
- 『政宗の娘』(著者:岩城希伊子)
- 『伊達政宗とその武将たち』(著者:飯田勝彦)
- 『臥竜の天』(著者:火坂雅志)
- 『伊達政宗』(著者:江宮隆之)
[編集] 短編小説
- 『奥羽の二人』(著者:松本清張)
- 『馬上少年過ぐ』(著者:司馬遼太郎)
- 『武家盛衰記 伊達陸奥守政宗』(著者:南條範夫)
- 読本系小説
- 『伊達政宗 物語と史蹟をたずねて』(著者:竹内勇太郎)
- 『秀吉・家康を翻弄した男 伊達政宗』(著者:長谷川つとむ)
- 『伊達政宗―知られざる実像』(『史伝 伊達政宗』)(著者:小和田哲男)
[編集] IF小説
[編集] 子供向け伝記
[編集] 絵本
- 『みちのく政宗公絵巻』(編:支倉出版編集部)
- マンガ
- 『伊達政宗』(原作:山岡荘八、著者:横山光輝)
- 『戦国武将烈伝 伊達政宗』(著者:永井豪&ダイナミックプロ)
- 『姫武将戦国伝ぼんたん!!』(著者:阿部川キネコ)
- 『学研まんが人物日本史 伊達政宗』(漫画:ムロタニツネ象)
- 『戦国BASARA 乱・戦・乱・舞』(著者:霜月 カイリ)
- 『みちのくの荒武者 伊達政宗』(作:外村吾郎 画:小井土繁)
- 『戦国BASARA2』(著者:灰原 薬)
[編集] 読本・研究本
- 『伊達政宗のすべて』(編:高橋富雄)
- 『陸奥伊達一族』(編:高橋富雄)
- 『伊達政宗 文化とその遺産』(編:小林清治、金沢規雄、浅野晃)
- 『武将歌人伊達政宗』(著者:伊達宗弘)
- 『みちのくの指導者、凛たり-伊達八百年の歩み』(著者:伊達宗弘)
- 『伊達家の風景』(著者:伊達真美)
- 『伊達政宗』(著者:相川司)
- 『伊達政宗の研究』(著者:小林清治、出版社:吉川弘文館)
[編集] 雑誌
- 『歴史群像シリーズ19 伊達政宗【独眼竜の野望と咆哮】』(学研)
- 『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション 伊達政宗【炯眼独眼竜の雄材大略】』(学研)
- 『歴史クローズアップ人物 伊達政宗 最後の戦国大名独眼竜の実力と野望』(世界文化社)
- 『歴史を作った先人たち 週刊日本の100人 No.007 伊達政宗』(DeAGOSTINI)
[編集] 関連項目
- 隻眼
- 伊達氏
- 瑞鳳寺
- 仙台藩
- 政宗(プロレスラー)
- 伊達政宗 (小惑星)
- ハンニバル・ライジング:2007年トマス・ハリス作の同名小説の映画化。主人公ハンニバル・レクターの伯母、レディ・ムラサキは伊達政宗の子孫ということになっている。
- 小室達(仙台城にある伊達政宗騎馬像の制作者)
- 仙台放送 - めざましテレビの中継で右上に表示されるキャラクターの「めざまし君」が伊達政宗に扮装している。
- 政宗号 - 伊達政宗が命名の由来となっている。
[編集] 史料
- 『伊達治家記録』(伊達氏の正史。全529巻578冊。)
- 『貞山公治家記録』
- 『成実記』(著者:伊達成実)
- 『伊達家史叢談』 (著者:伊達邦宗)
[編集] 脚注
- ^ 義姫が懐妊前に白髪の老僧の瑞夢を見たと言う伝説や、政宗は万海上人の生まれ変わりであるという伝説が政宗存命中より語られていた。
- ^ 当時、天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。
- ^ 『三国志演義』の夏侯惇の故事を引用したものだとされる。
- ^ 『戦国武将合戦事典』吉川弘文館、2005年の伊達政宗の項目。
- ^ 東北地方の戦国時代史研究家である小林清治は、政宗の勢力拡張について、平安後期に白河以北の地を席巻した奥州藤原氏の勢力に匹敵するものであると評した(小林清治『伊達政宗』吉川弘文館、1985年、p. 47.)。
- ^ 重修真書太閤記では、「正宗終に二本松大崎一栗などを合わせ150万石余を知行しけるが」と記述されている。政宗の領土は面積的には東北地方の1/3に留まるが、太閤検地時に石高の高い東北地方南部を支配している。後に蒲生氏郷と奥州南部を分け合う事になるが、この時の石高は政宗72万石に対して氏郷42万石(のち92万石)、上杉景勝と分かち合った時は政宗58万石に対し景勝120万石である。石高の言及はないが、政宗が奥羽の30余郡を支配したとの同様の記述は氏郷記にもある。
- ^ ただし、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしていることや、義姫が最上家に戻ったのは事件のさらに数年後とする史料が新たに発見された。この事件には小次郎擁立派一掃のための政宗自作自演説もあるが、信憑性は低い。
- ^ 伊達男とは政宗がかなりの男前だったことから苗字を取って伊達男となった、と思われることが多いが、伊達政宗の数百年前から「男立て」(おとこだて。男らしくあるいは勇敢に振舞う、という意味だが、徐々に男らしさを演出する傾向が強くなっていく)という言葉があり、それが略されて「だて」となり、やがて「伊達」と結び付けられていった。
- ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、181-191頁。
- ^ 広島県「水野記」『広島県史近世資料編1』1973年。
- ^ 鈴木尚著「骨が語る日本史」
- ^ 外部リンク瑞鳳殿公式HP/三藩主の墓とその遺品
- ^ 伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきた。しかし、政宗の元服は足利義昭が織田信長によって追放された後であった為、一字拝領は無かった。
- ^ 他に落胤一男一女が確認されている。
- ^ 正室・愛姫が産んだ嫡出子は夭折した子も含めて記録に残っているが、側室が産んだ庶子は成人した子しか記録に残っていない可能性も考えられる。また側室も政宗との間に子供をもうけた女性だけが正式に記録され、実際には他にも関係を持った女性がいた可能性もある。
- ^ ちなみに作十郎と政宗の側室勝女姫は実の姉弟(いずれも多田吉広の子)である。
- ^ 猫御前の通称は後世の創作であるが、山岡荘八の小説及び大河ドラマによって有名になった。
- ^ 秀宗は幕府より新規に国主格大名として宇和島10万石の所領(宇和島藩)を与えられた。
- ^ 大崎一揆煽動の疑惑をかけられた際には、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭した。
- ^ 第3代将軍の家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともある
- ^ 似たような話が平家物語に登場している。平清盛の父忠盛は、闇討ちを警戒して常に刀を帯びていたが、そのことで貴族の讒言を受けた。上皇に問い質された忠盛が「お調べください」といって刀を差し出すと、それは木刀に銀箔を張ったものだった。上皇は「身を守るための帯剣であれ、後日の訴えを考えて木刀を用意したことは見事。これこそ武人に相応しい振る舞いである」としてかえって忠盛を賞賛したという。(『殿上闇討』)
- ^ 当時の大名は多趣味な者が多かったが、料理が趣味なのは極めて異例である
- ^ 当時の人々は煙草を薬と考えていた者が少なくなかった。
- ^ 外部リンク - 仙台NEW 第9号 / ダースベイダーと伊達政宗…その意外な関係
- ^ 「追って曽掛に候へ共、折節に任せ、小袖壱重ね進め候。以上。態飛脚を以って申し入れ候。先度は参り、会面を遂げ本望に候。仍無心の申す事候へども、御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。先日は申し兼ね候て罷り過ぎ候。預候はば恭かるべく候。猶後音を期し候。 恐惶謹言 松平陸奥守 八月廿一日 花押 彼岸寺御同宿中」
- ^ 『伊達家史叢談』(伊達邦宗)
- ^ 河北新報「とことんフォーカス」4月9日版
- ^ その割に表高に変化がないのは、表高を増やすとそれに応じた軍役負担を課せられ出費の増大に繋がるからである。見栄を張って表高を増やしたための財政負担を主因として改易にまで至った松倉勝家、真田信利のような事例も存在する。
- ^ ただし、『東潜夫論』は、佐渡12万石(1.7万石)、隠岐6万石(0.5万石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。その数字は誇張されている可能性もあるが、隣藩である米沢藩にも上杉治憲・上杉治広時代に表高の三倍の実高50万石と称された時期があり、決してありえない数字ではない。文久3年幕府大目付調べにおいては石高62万石とされているが、この資料における石高は表高であり、実高とは一致していない。10万石格・実高5千石の喜連川藩や同じく10万石格である対馬藩も10万石として記されていることなども注意すべきである。
- ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、239頁
- ^ 阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年など
- ^ 『伊達政宗の研究』239-242頁
- ^ 主に、伊達成実は武勇で、片倉景綱は知略で、鬼庭綱元は政治での活躍をしたと言われる。
- ^ 「智の片倉景綱」「武の伊達成実」と称えられている
[編集] 外部リンク
- せんだい教材アーカイブ「伊達政宗」(1986年 仙台市教育委員会)
- 伊達家伯記念會「伊達政宗博物誌」
- 瑞鳳殿(伊達政宗墓所)公式HP
- 天地人・上杉の智将 直江兼続(米沢市公式サイト) - 武将兜ペーパークラフト
|
|||||||||||||
|
||||||||
