遠藤基信

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遠藤 基信(えんどう もとのぶ、天文元年(1532年) - 天正13年10月21日1585年12月12日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。陸奥伊達氏の家臣。不入斎と号す。子に遠藤宗信がいる。

事蹟[編集]

「伊達世臣家譜」によれば、基信は陸奥国信夫郡(現在の福島市八丁目城下西光寺の住職の子であるという。

若いころは諸国を巡り、その後米沢を訪れ、伊達家に仕えたという。はじめは伊達晴宗の権臣である中野宗時の家来であったが、後に宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたとき、宗時の謀反を直前に密告したことを輝宗に賞されて、輝宗配下の宿老として取り立てられたという。このとき、1500石の所領を与えられている。

基信は外交手腕に優れており、織田信長徳川家康北条氏照柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行なったりしている。信長と積極的に交誼するよう輝宗に進言したのは基信であり、輝宗は信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈っている。これらのことより、基信は輝宗政権時の伊達氏のなかでは家臣団を代表する立場であったといえる。

また、後に伊達政宗軍師となったことで有名な片倉景綱を若年のうちに見い出し、小姓に推挙した。

天正13年(1585年)、輝宗は既に政宗に家督を譲り隠居していたが、政宗が起こした諍いを仲裁をするため奔走していた。ところが、同年10月8日、政宗のやり方に遺恨を抱いた二本松義継により拉致されて、政宗の部隊に義継もろとも銃撃されて非業の死を遂げた。基信は輝宗の忌日の10月21日に輝宗の墓前で自刃し、殉死したという。

墓は山形県高畠町夏刈・資福寺跡に有り、主君の輝宗の墓の隣に建てられている。

家督は嫡男の宗信が継いだが早世し、その弟の玄信が継いだ。後に玄信は栗原郡川口村滝野(宮城県栗原市一迫川口滝野)に所領を与えられ、明治まで続いた。

出典[編集]

  • 歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902
    • 「遠藤基信」、「片倉景綱」の項目(伊達宗弘執筆)

登場作品[編集]

関連項目[編集]