北条氏照

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北条 氏照
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正18年7月11日1590年8月10日
改名 藤菊丸(幼名)→大石氏照→北条氏照?
別名 通称:源三、由井源三
受領名陸奥守
戒名 青雲院殿透岳開公大禅定門
幕府 室町幕府
主君 北条氏康氏政氏直
氏族 大石氏後北条氏
父母 父:北条氏康、母:瑞渓院[1]
養父:大石定久
兄弟 蔵春院今川氏真室)、新九郎、氏政氏照氏邦氏規、浄光院(足利義氏室)、氏忠氏光上杉景虎新光院北条氏繁室)、尾崎(千葉親胤室)、長林院(太田氏資室)、種徳寺(小笠原康広室)、円妙院桂林院武田勝頼室)
義兄弟:靏松院(実父北条幻庵吉良氏朝室)法性院(実父遠山綱景太田康資室)
正室:比佐(大石定久の娘)
霊照院殿山中頼元室)[2]、養子:源蔵千葉直重
八王子城付近に建つ北条氏照の墓。墓の左右は北条氏照家臣中山家範とその孫、中山信治の墓。背後の石塔群は氏照の家臣団の墓とされている

北条 氏照(ほうじょう うじてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将北条氏康の三男。宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した[3]。北条氏の家中において「取次」の役割を多く担当し、諸勢力との外交・折衝に尽力した[4]

生涯[編集]

天文9年(1540年)[5]、北条氏康の三男として生まれ、初め武蔵滝山城主、後に八王子城城主となった[3]

永禄2年(1559年)、信濃木曾氏一門の武蔵滝山城主大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる[3]。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れたとされる。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っており、氏照が大石氏を継いだ当時由井城(油井城)が同氏の拠点であり、滝山城はまだ存在しておらず、滝山城は家督継承後の氏照が築城したとする説もある。[6]。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。

その後、氏照は父に従って小田原城の戦い直後の永禄4年(1561年)には辛垣城三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した[3]

永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模に侵攻した。氏照は中山家範横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという(この時氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる)。このような氏照の奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。

氏照は平山城である滝山城の防衛面での不利を悟り、武蔵と相模の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られたため、城は八王子城と名付けられた。八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。

永禄11年(1569年)、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いである。

外交手腕にも秀でており、「涌井文書」による、1562年における下野の佐野氏との外交を皮切りに[7]、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達氏とも濃密な外交関係を築くなど活躍した[3]伊達政宗蘆名氏との外交も担当している[3]。氏照の外交相手は、下野の国人、古河公方足利氏の勢力圏、そして奥州の大名達が中心であった[8]

天正2年(1574年)には関宿城の簗田氏を攻略し、これ以降古河公方足利義氏の後見を務め[9]利根川水域を支配した[3]天正3年(1575年)頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている[3]

1576年から「陸奥守」を称するようになる[10]。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる[11]

天正6年(1578年)、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。北条勢は三国峠[要曖昧さ回避] を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。

織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった[3]。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って北条領を拡大した(神流川の戦い[3]。信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐信濃に侵攻した(天正壬午の乱[3]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された[3]。小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51[3]

辞世の句は、

  • 「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
  • 「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」

没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造[12]、元八王子町3丁目に今も現存している。

八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている[13]

備考[編集]

「義烈百人一首」では、名前を「氏輝」と表記されている[14]

脚注[編集]

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  1. ^ 黒田基樹『戦国北条氏五代』P168
  2. ^ 黒田基樹『戦国北条氏五代』P175
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 下山治久『後北条氏家臣団』東京堂出版、2006年、pp590-591。
  4. ^ 戦国北条氏五代・172頁
  5. ^ 生年を天文10年(1541年)、天文11年(1542年)とする異説もある。
  6. ^ 齋藤慎一「戦国期『由井』の政治的位置」(初出:『東京都江戸東京博物館研究報告』第6号(2001年)/所収:齋藤『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第13章))。
  7. ^ 戦国北条氏五代・172頁
  8. ^ 戦国北条氏五代・172頁
  9. ^ 戦国北条氏五代・171頁
  10. ^ 戦国北条氏五代・173頁
  11. ^ 戦国北条氏五代・170頁
  12. ^ 北条氏照及び家臣墓(八王子市公式ホームページ)
  13. ^ 少林寺のツツジ(八王子市公式ホームページ)
  14. ^ 戦国北条氏五代・169頁

北条氏照を主題とした作品[編集]

  • 伊東潤 『北条氏照 秀吉に挑んだ義将』(PHP文庫、2009年、下記から氏照に関する記載を中心に抜粋して新作品としたもの)
  • 伊東潤 『戦国関東血風録 〜北条氏照修羅往道〜』 (叢文社、2003年)
  • 前川實 『私記 北條氏照』 (八ヶ岳寿庵工房、2001年)
  • 日下部政昭 『北条氏照異伝』 (郁朋社、2001年)
  • うじてるくん - 八王子市の公認キャラクター。八王子駅地下街の床タイルには三つ鱗紋が配されるなど、行政から敬意を持たれている。

参考文献[編集]

書籍
史料