古河城

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古河城
茨城県
諏訪曲輪土塁・堀(古河歴史博物館)
諏訪曲輪土塁・堀(古河歴史博物館
城郭構造 平城(平山城)
天守構造 御三階櫓(独立式層塔型3層4階 1633年築 非現存)
築城主 下河辺行平
築城年 平安時代末(1180年頃)
主な改修者 小笠原秀政松平康長土井利勝
主な城主 足利成氏古河公方)、土井利勝
廃城年 明治6年(1873年
遺構 堀、土塁
指定文化財 なし
位置 北緯36度11分12.76秒
東経139度41分43.75秒

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市下総国)の渡良瀬川東岸にあった

室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。

目次

[編集] 概要

古河城の起源は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。室町時代には、古河公方足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭としての整備が進められた。古河藩庁が置かれて、行政機能を担うとともに、将軍日光社参時の宿として、あるいは 江戸城の北方の守りとしても機能した。明治時代初期に廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川の改修工事の際に、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、三国橋新三国橋の中間付近には「古河城本丸跡」と書かれた標柱が設置されているものの、周辺に説明板などは設置されていない(2008年9月現在)。

古河城は渡良瀬川の河畔にあり、その位置付けは、人と川との関わりに影響されてきた。 渡良瀬川は、上流では主に栃木県群馬県の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の江戸川)と名前を変え、千葉県埼玉県の県境近辺で利根川と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件により、中世および近世には重要拠点とされたが、近代に治水問題が重視されるようになると、大規模な河川改修事業により、下流の関宿城と同様に城跡が徹底的に破壊された。

[編集] 歴史・沿革

[編集] 平安時代末~鎌倉時代(城の起源)

平安時代末に源頼朝に従った武将下河辺行平が、古河の立崎(竜崎)に城館を築いた(『永享記』等[1])。正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃が目安となる。立崎は渡良瀬川とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地であった。[2] [3] [4]

また、行平を荘司とする下河辺庄は、茨城県古河市千葉県野田市埼玉県幸手市吉川市三郷市など、渡良瀬川とその下流の太日川(今の江戸川)に沿って広がっていた。[3]

このころ、以仁王の挙兵にて敗死した源頼政の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる[2] [5]。近世古河城では頼政曲輪の頼政神社になる。

行平以後、北条氏鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に移ったと考えられる。[3]

[編集] 室町時代~戦国時代(古河公方の本拠)

室町時代前期の南北朝時代、本城は北朝足利氏の拠点の一つであった。[6]

室町時代後期から戦国時代にかけては、古河公方の本拠となる。(詳細は「古河公方」参照)

享徳の乱において、第5代鎌倉公方足利成氏関東管領上杉氏と争い、享徳4年(1455年)に今川範忠鎌倉を占拠すると、下総古河に本拠を移した。「古河公方」の成立である。成氏の勢力範囲は、当時の渡良瀬川利根川下流の東側にあった下総国常陸国下野国上総国安房国であり、山内上杉家および扇谷上杉家の勢力範囲は、反対側の上野国武蔵国相模国伊豆国だった。さらに、京都の室町幕府も上杉氏を支持し、新たな鎌倉公方として足利政知堀越公方)が東下して、30年近く両勢力は争い続ける。[7] [8]

古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすいこと、成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の御料所があったことが挙げられる。成氏は当初、古河の鴻巣にあった古河公方館を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。このころ、扇谷上杉家の家宰である太田道灌は、古河城に対抗する前線上に、江戸城岩付城河越城を築き拠点とした。[7] [8]

古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つとなる。永禄年間には、上杉謙信北条氏康が古河公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援するために関白近衛前久が滞在したこともある。その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、後北条氏の一支城となった。[9] [10] [8]

なお、文明3年(1471年) から、史料に「古河城」という表現が本格的に使用される。以前は「古河御陣」が多く用いられていた。[7]

[編集] 江戸時代(日光社参の将軍宿城)

豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後、 徳川家康に従って小笠原秀政天正18年(1590年) に入部し、古河城の修復・拡張を行った[11]。以後、江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。

城主は幕府の要職を務めることが多く、大老土井利勝堀田正俊老中永井尚政松平信之本多忠良土井利厚土井利位などを数える。[12]

城下には日光街道宿場町である古河宿がおかれるとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。 徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとして重視された。[13] [14]

また、古河城は度重なる渡良瀬川の洪水に悩まされていたため、他には例を見ない洪水対策マニュアルも整備されていた。[15]

[編集] 明治以降(渡良瀬川改修と城の消滅)

戊辰戦争では、藩内の意見を勤皇派に統一して戦火を避けたが、明治維新後の明治6年(1873年)に発布された廃城令によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された[16] [17] [18]迅速測図(明治15年近辺における地図)上で当時の概要を確認できる。

明治末に、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修工事が始まる。このとき、主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、堤防河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅した。建設機械が発達していない時代に、これほど大規模な城跡を徹底して破壊したことは、この河川改修事業の規模の大きさを示す。ちなみに、頼政曲輪(立崎曲輪)が削平された際に、小規模な古墳が発見されている。[19] [4]

なお、この河川改修の際、古河城の北にあった谷中村は、遊水池を設けるために、村そのものが消滅した。このとき、田中正造は、関宿の江戸川分岐点の閘門を広げて、利根川の水を地勢に従って東京湾に流すことで、遊水池がなくても洪水を防げると主張し、足尾銅山の鉱毒問題が治水問題にすりかえられていると批判した。[19]

[編集] 年表

[編集] 中世(平安時代末~戦国時代)

[編集] 近世(江戸時代)

[編集] 近代(明治以降)

[編集] 構造

[編集] 中世

古河公方時代を含む中世の構造はよく知られておらず、今後の調査・研究が期待される。足利成氏時代の城域は、近世古河城の本丸付近と推定されている[30]。一方では、舟で往来可能な古河公方館と一体となり、あわせて広大な水城を形成していた[31]等の見方も示されている。また、 日光街道以前の奥州への古い街道が近世古河城内を縦断し、観音寺曲輪・桜町曲輪に宿場町があったともいわれている[27]

古河城の全体図(江戸時代後期)

[編集] 近世(江戸時代)

ほぼ北から南に向かって流れる渡良瀬川の東岸に位置した。古河城が築かれた台地は、川とその東側に広がる沼地にはさまれ、北から南に伸びる半島状になっていた。

江戸時代の城域は、水堀を含むとおおむね東西約0.45~0.55km、南北約1.8km 程度の広さであり、関東有数の規模であった。城域の西側は川に接し、残りの三方を水堀に囲まれていた。城域の東南から南側は、通行が困難な沼地であり、これらの沼地と渡良瀬川を生かした水に守られた要害であった。[27] [32]

構造は、土塁に囲まれた複数の曲輪が、直線状に配置された連郭式である。主な曲輪は、北から順に、観音寺曲輪、桜町曲輪(丸の内)、三の丸、二の丸(西側)/本丸(東側)、頼政曲輪、立崎曲輪である。そのほかに、桜町曲輪の東側には、水堀(百間堀)の先に「出城」と呼びならわされる諏訪曲輪があった。[27] [32]

このうち、観音寺曲輪・桜町曲輪・諏訪曲輪には重臣たちの武家屋敷、二の丸には藩主の御殿が置かれた。頼政曲輪には源頼政を祀った頼政神社があった。三の丸には馬場が設けられた。観音寺曲輪の北側に追手門、桜町曲輪の東側に御成門など、多数の門が置かれた。御成門は、日光社参時に立ち寄る将軍が入城する門であり、外枡形門形式で虎口を開き、周辺には石垣も築かれた[33][27] [32]

天守は建てられなかったが、土井利勝によって、本丸の西北出隅に建てられた「御三階櫓」と呼ばれた3層4階のが、古河城の実質上の天守であった。高さは約22メートルあり、同様の構造で建てられた水戸城佐倉城の御三階櫓、松江城の天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さである[34][35]

他にも、桜町曲輪にあった茂平河岸は、城内との物資輸送や人員の移動を担った。また、水掘の周囲に配置された寺社(永井寺・正定寺等)は、出城としても機能し、城の防衛拠点となっていた。[36]

なお、古河歴史博物館内には、精密な古河城下模型が展示されており、城全体の構造を把握することができる。[32]

[編集] 遺構

現在の古河城遺構分布
桜町曲輪土塁(獅子ヶ崎土塁)
観音寺曲輪土塁(頼政神社付近)

明治末に開始された渡良瀬川改修事業の際に、主要部分は堤防河川敷に変わった。堤防の市街地側には、観音寺曲輪の大半・桜町曲輪の半分・百間堀等の水堀が残されたが、現在はこれらも宅地等に変わり、ほとんどの遺構は消滅した。本丸や二の丸等の主要部分は、渡良瀬川に架かる三国橋と新三国橋にはさまれた堤防・河川敷に相当する。市街地では、観音寺曲輪は錦町、桜町曲輪は桜町におおむね相当する。[32]

現在の遺構は以下の通り。

  • 頼政神社(錦町)は、渡良瀬川改修工事の際、観音寺曲輪西北部の土塁上に移設されたもので、現在もその土塁の一部が残る。[4]
  • 桜町曲輪北側土塁(「獅子ヶ崎土塁」)(桜町)は、現在、市街地の中に一部が残る。[33]
  • 古河歴史博物館(中央町)は、「出城」(諏訪曲輪)跡地に建てられており、一部の土塁と堀が残る。[37]
  • 福法寺(中央町)の山門は、二の丸御殿の乾門が移築されたものである。(市文化財)[38]
  • 坂長本店(中央町)には、城内の文庫蔵・乾蔵を移築したと伝わる建造物が残されている。(国の登録有形文化財[39]

また、遺構ではないが、追手門・船渡門・桜門跡地に石碑、本丸跡地の堤防上に標柱があり、かつての城域を示している。

[編集] 作品

[編集] 文学

江戸時代の曲亭馬琴(滝沢馬琴)による読本南総里見八犬伝の第三輯巻之五には、芳流閣として古河城が描写されている。[40]

[編集] 脚注

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  1. ^ a b 古河城の起源に関しては、『永享記』にある足利成氏の古河城奪回時の記述「此古河の城は昔日頼朝卿の御弓の師と聞へし下河辺荘司行平より、代々往ける旧館なり、城南東方に竜崎と云う所に、源三位頼政の廟有り」が有名。『鎌倉大草紙』にも「総州下河辺の城」等の記述がある。
  2. ^ a b c d 鑓水柏翠(1986)、53 - 98頁(下河辺庄古河)
  3. ^ a b c d e f 『古河市史通史編』97 – 122 頁(下河辺庄と古河)
  4. ^ a b c 古河市公式ホームページ 史跡と寺院 頼政神社
  5. ^ 『古河市史通史編』124 – 125 頁(頼政神社縁起)
  6. ^ a b 『古河市史通史編』141 – 147 頁(南北朝の動乱)
  7. ^ a b c d e f g h i j 『古河市史通史編』163 – 178 頁(古河公方足利氏の成立)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 千野原靖方(2006)
  9. ^ a b c d e f g h 『古河市史通史編』178 – 190 頁(古河公方足利氏の動揺)
  10. ^ a b c d e f g h 『古河市史通史編』207 – 230 頁(古河公方足利氏の終末)
  11. ^ a b c d e f g h i j 『古河市史通史編』233 – 238 頁(近世の開始と大名の交代)、247-248頁(3-1表 古河の歴代藩主)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『古河市史通史編』238 – 246 頁(前期土井氏以降の藩主)、247-248頁(3-1表 古河の歴代藩主)
  13. ^ 古河市公式ホームページ 出城通信「日光社参と古河宿城」
  14. ^ 阿部昭(2002)、213-214頁(将軍の日光社参)
  15. ^ 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.08「古河城 大変」
  16. ^ a b 『古河市史通史編』582 – 583 頁(古河城の破壊)
  17. ^ a b 古河歴史博物館 歴史の散歩 98.07「勤皇か!佐幕か!幕末古河藩、苦悩の選択」
  18. ^ 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.06「明治の古河城址保存論」
  19. ^ a b c 『古河市史通史編』697 – 733 頁(足尾鉱毒事件と古河地方)
  20. ^ 『松平結城文書』「北畠親房御教書写」による。『古河市史資料中世編』No.35 所収
  21. ^ a b 『古河市史通史編』147 – 156 頁(小山氏の乱と古河)
  22. ^ 『許我誌』による。『古河市史資料別巻』所収
  23. ^ 『古河市史通史編』156 – 162 頁(室町前期の古河)
  24. ^鎌倉大草紙』、『永享記』による。
  25. ^ 『喜連川文書』足利晴氏判物(『古河市史資料中世編』No.778)
  26. ^ 『喜連川文書』による。『古河市史資料中世編』No.1490 所収
  27. ^ a b c d e f g h 『古河市史通史編』254 – 255 頁(古河城の構造)
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』 例えば、『古河市史資料近世編(藩政)』1-93頁に所収
  29. ^ 古河市公式ホームページ 古河の文化財紹介(熊沢蕃山の墓)
  30. ^ 西ヶ谷恭弘 「中世の古河城─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年
  31. ^ 鑓水柏翠(1986),158-159頁
  32. ^ a b c d e 古河歴史博物館ホームページ 展示案内 展示室2 古河城下模型
  33. ^ a b 古河歴史博物館 歴史の散歩 2005.05「古河城御成門と獅子ヶ崎」
  34. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  35. ^ 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社 2007年
  36. ^ 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、11-33頁(伝来諸絵図と古河城の構成)
  37. ^ 例えば、古河市公式ホームページ 出城通信「出城界隈」
  38. ^ 古河市公式ホームページ 古河の文化財紹介(旧古河城乾門 福法寺山門)
  39. ^ 古河市公式ホームページ 古河の文化財紹介(坂長本店の文庫蔵・乾蔵)
  40. ^ 古河市公式ホームページ 広報「古河」No.24 古河風土記(描かれた古河城)

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 阿部昭 『街道の日本史15 日光道中と那須野ヶ原』 吉川弘文館、2002年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料近世編(藩政)』 古河市、1979年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料中世編』 古河市、1981年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館 ─遺構調査・発掘調査報告書─』 古河市、1985年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史通史編』 古河市、1988年
  • 千野原靖方 『関東戦国史(全)』 崙書房、2006年
  • 鑓水柏翠 『古河通史(上巻)』 柏翠会、1986年
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