足尾銅山

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世界測地系36°37′60″N, 139°26′23″E

足尾銅山(あしおどうざん)は栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山鉱山)。「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。

明治期には亜砒酸も産出し、昭和時代硫酸も産出した。

目次

[編集] 概要

1550年(天文19年)に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸時代からである。当時、足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。

足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年明治10年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した。しかし、急激な鉱山開発は足尾鉱毒事件に見られる公害を引き起こし、下流域の住民を苦しめることとなった。そのような現状を見かねた田中正造は立ち上がり、その問題に対し懸命に取り組んだ。

1973年昭和48年)閉山。現在は足尾銅山観光などの観光地となっている。閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、1989年平成元年)にJR足尾線貨物輸送が廃止されて以降は鉱石からの製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸,廃アルカリ等)リサイクル事業を行っている[1]のみである。

[編集] 公害

詳細は「足尾鉱毒事件」を参照

[編集] 施設

  • 鉱山 - 備前楯山と呼ばれる銅山が1つある。その他の足尾近隣の山からはは産出しなかった。
  • 坑口 - 本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。本山坑から小滝坑はほぼ一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっている。小滝坑は1954年閉鎖。最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。(より正確には、本山坑と有木坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。通常はこの3つの坑口をまとめて「本山坑」と呼ばれる。有木坑は当初梨木坑という名であったが、縁起担ぎで有木に変更された。また、簀子橋という名の坑口もあった。規模は小さく、通洞坑と同一視されることが多いが、名目上は独立していた。現簀子橋堆積場付近にあった)
  • 選坑場 - 通洞地区におかれた。最初期は女工が目で使える鉱石かどうか識別したという。
  • 製錬所 - 本山地区にあったものが最も大きかったが、小滝地区にも小規模なものがおかれていた時代がある。鉱石から銅が製錬された。1960年代以降は、製錬時に出る亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、これも出荷していた。
  • 浄水場 - 1897年、鉱毒防止策として政府は足尾の銅山施設すべてから出る水を一旦沈殿させることを命じた。中才浄水場、間藤浄水場の2箇所が2005年現在も稼動中である。閉山後も浄水設備の稼動は続けられる。小滝にも浄水場はあったが、規模が小さかったため、中才に統合された。
  • 堆積場 - 鉱石くずなどを貯めて場所。公表されているものは足尾町内に14箇所ある。
  • 社員住宅 - 坑口付近に多くつくられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で通勤した。小学校商店なども周辺につくられたが、閉山後はほとんどが無人化している。
  • 神社 - 本山坑向かいの山頂付近に鉱山神社が存在する。本殿と拝殿の2棟があるが、何れも放棄されている。このほか、通洞坑には別に神社があり、足尾銅山観光出口付近に拝殿がある。
  • 鉄索 - 足尾ではケーブルカー(索道)のことを鉄索と呼んだ。1890年にまず、細尾峠を越えて日光を結ぶ路線が作られた。最も大規模なものは、本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、そこからさらに利根村根利に向かう路線である。物資や鉱石を運ぶため、足尾町内に大規模なものがいくつも作られたが、閉山後にすべて撤去されている。登山家を乗せたという記述も残っており、鉱夫などの輸送にも使われたとみられる。
  • 馬車鉄道、ガソリンカー - 人や物資を運ぶために町内の道路に路線がつくられた。初期は馬車で、後期にはほぼ同じ路線をガソリンカーが走った[2]。初期には馬車鉄道であった路線が、後に鉄索や鉄道に切り替えられたところも多い。

[編集] 年表

[編集] 脚注

  1. ^ [1] 足尾製錬株式会社 平成19年度EA21活動報告(平成20年5月12日)
  2. ^ 臼井茂信「私の思い出写真 2 フォード万歳」『鉄道ファン』(No.168 1975年4月号、p86、交友社)に1934年(昭和9年)当時のガソリン機関車(10号)と客車(25号)の写真が掲載されている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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