夏目漱石
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| 夏目漱石 | |
|---|---|
| 誕生 | 1867年2月9日 江戸牛込馬場下横町 |
| 死没 | 1916年12月9日 東京 |
| 職業 | 小説家、評論家、英文学者 |
| ジャンル | 小説、俳句、漢詩、評論 |
| 文学活動 | 余裕派、反自然主義文学 |
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影響を与えたもの
多くの日本の作家
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| 文学 |
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夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」(そくてんきょし)の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父直克は江戸の牛込から高田馬場一帯をおさめている名主で、公務をとりあつかい、たいていの民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力をもっていたし、生活も豊かだった。
母千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった[2]。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
漱石の祖父直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[3]。しかし父直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。
金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は江戸幕府崩壊後の混乱期であり生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い実家へ連れ戻した。その後、1歳の時に父親の友人である塩原昌之助の養子に出された。しかし、養父昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父昌之助には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(のちの府立一中、現在の日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・大助に咎められるのを嫌い弁当をもって一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松学舎に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数ヶ月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の明治16年(1883年)、大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学し、頭角をあらわした。
明治17年(1884年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代、この時の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。 本籍地は北海道に移し、徴兵検査で甲種合格になることを避けたという逸話がある。
[編集] 子規との出会い
明治22年(1889年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年(1902年)に子規が没するまで続く。
明治23年(1890年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立つ明治20年(1887年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。さらに直後の明治24年(1891年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。明治25年(1892年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をしてみずから学費を稼ぎはじめる。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は明治26年3月大学を中退する。
[編集] イギリス留学
明治26年(1893年)、帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の圓覚寺で参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
明治28年(1895年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
明治29年(1896年)、熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を確保していく。
明治33年(1900年)5月、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。メレディスやディケンズをよく読みあさった。『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。
明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめる。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になったため、「夏目、精神を病む」という噂が流れる。これを文部省が耳にし、急遽帰国が命じられる。明治36年(1903年)に日本に帰国。漱石最後の下宿の反対側には、ロンドン漱石記念館が恒松郁生によって昭和59年(1984年)に設立された。漱石の下宿、出会った人びと、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
[編集] 朝日新聞社入社と文豪への道
帰国後、漱石は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
[編集] 修善寺の大患
明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院(1932年に湯川秀樹が婿養子となる。1950年に湯川胃腸病院と改称。)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(50歳)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。
漱石の死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。
[編集] 年譜
※日付は明治4年までは旧暦
- 慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
- 明治元年(1868年)、塩原昌之助の養子になる。
- 明治3年(1870年)、この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[4]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい。
- 明治7年(1874年)、公立戸田学校下等小学第八級に入学。
- 明治9年(1876年)、公立市谷学校下等小学第四級に転校。
- 明治11年(1878年)
- 4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。
- 10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
- 明治12年(1879年)、東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
- 明治14年(1881年)、実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
- 明治16年(1883年)、神田駿河台の成立学舎に入学。
- 明治17年(1884年)、大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
- 明治21年(1888年)、夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
- 明治22年(1889年)、正岡子規を知る。
- 明治23年(1890年)、帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
- 明治25年1892年)
- 明治26年(1893年)、大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
- 明治27年(1894年)、初期の肺結核と診断される。
- 明治28年(1895年)
- 4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
- 12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
- 明治29年(1896年)
- 4月、熊本県の第五高等学校講師に就任。
- 6月、鏡子と結婚。
- 7月、五高教授となる。
- 明治30年(1897年)
- 6月、実父直克死去。
- 7月、妻鏡子流産。
- 明治33年(1900年)、イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
- 明治36年(1903年)、帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
- 明治38年(1905年)、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
- 明治40年(1907年)、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
- 明治43年(1910年)、胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
- 明治44年(1911年)、養父塩原に金を無心される。
- 2月、文学博士号辞退。
- 8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
- 大正2年(1913年)、強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
- 大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
- 大正5年(1916年)12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
[編集] 作品一覧
[編集] 全集
- 漱石全集(1993 - 1999年、岩波書店、全28巻別巻1巻)
- 漱石文学全集(1982 - 1983年、集英社、全10巻)
[編集] 小説
[編集] 中・長編小説
- 吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
- 坊つちやん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
- 草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
- 野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
- 虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
- 坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
- 三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
- それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
- 門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
- 彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
- 行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
- こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
- 道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
- 明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
[編集] 短編小説・小品
- 倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
- 幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
- 琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
- 一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 薤露行(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
- 二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
- 文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
- 夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
- 永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
[編集] 評論・エッセー・講演など
- 評論
- 文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)
- 文学評論(1909年3月、春陽堂)
- 随筆
- 思ひ出すことなど(1910 - 11年、『朝日新聞』/1911年8月、春陽堂刊『切抜帖より』収録)
- 硝子戸の中(1915年1月 - 2月、『朝日新聞』/1915年3月、岩波書店)
- 講演
- 現代日本の開化(1911年、和歌山県会議事堂/1911年11月、朝日新聞合資会社刊『朝日講演集』収録)
- 私の個人主義(1914年)
- 紀行
- カーライル博物館(1905年、『学鐙』/『漾虚集』収録)
- 満韓ところどころ(1909年10月 - 12月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
- 句集・詩集
- 漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)
- 漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店)
- 新体詩
- 従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号)
- 画
- 我輩はお先真っ暗の猫である
- 自作の『我輩は猫である』のパロディ[5]。
[編集] 家族 親族
- 夏目家( 夏目氏系譜(武家家伝))
- 現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父直克により名づけられた。生誕の地の碑も坂に面している。
- 家紋(定紋)は井桁に菊。これに因み現新宿区喜久井町(菊に井桁)は、直克により名づけられた。※『硝子戸の中』に関連する記述あり。
- 父直克、母千枝(ちゑ)の五男一女の五男。四男久吉は1歳で夭逝している。直克と先妻との間にニ女(異母姉)がいる。
- 妻 - 夏目鏡子との間に2男5女。
[編集] 長男家
[編集] 長女家
- 長女 - 夏目筆子(作家)
- 娘婿 - 松岡譲(作家、筆子の夫)
- 孫 - 松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授、筆子の次女)[10]
- 孫 - 半藤末利子(エッセイスト、筆子の四女)
[編集] 次男家
- 次男 - 夏目伸六(随筆家)[11]
- 孫 - 夏目沙代子(財団法人夏目漱石評議員、伸六の長女)
- 曾孫 - 夏目一人(実業家・財団法人夏目漱石代表理事、沙代子の次男)
- 玄孫 - 夏目ひみか(シンガーソングライター、沙代子の長女の娘)
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夏目鏡子 |
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夏目漱石 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (次男家)夏目伸六 |
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(長男家)夏目純一 |
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(長女)夏目筆子 |
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松岡譲 |
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| 夏目沙代子 |
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夏目房之介 |
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半藤末利子 |
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半藤一利 |
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松岡陽子マックレイン | |||||||||||||||||||||||||||||
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[編集] 門下生
- 赤木桁平
- 芥川龍之介
- 阿部次郎
- 安倍能成
- 岩波茂雄
- 内田百間
- 小宮豊隆
- 鈴木三重吉
- 寺田寅彦
- 中勘助
- 野上臼川
- 野上豊一郎
- 野上弥生子
- 野間真綱
- 林原耒井
- 松岡譲
- 松根東洋城
- 皆川正禧
- 森田草平
- 和辻哲郎
[編集] その他
[編集] 漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
下戸だったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好み、療養中には当時、貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという(「吾輩は-」には1ヶ月に8缶も舐めたとの記述がある)。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹き付ける音にそっくりだったことから、破障子なる落款を作り、使用していたことがある。
またよく知られているように、漱石は天然痘にかかっており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。
[編集] 精神医学上の研究対象
漱石は、神経衰弱やうつ病を患っていたされているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
[編集] 神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。
[編集] 言葉遊び
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。という俗説があるが、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字とか言葉遊びなどということは、学問的厳密さから見て、漱石以前のすべての資料を確認した者がいない以上、現在ではどれ一つとして確定できない。
[編集] 造語
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。 特に「肩凝り」と呼ばれるものは日本人特有の症状であり、外国ではあまり知られていない。漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったがために、多くの日本人がこの症状を自覚するようになったと言われる。 というような俗説があるが、学問的厳密さから言えば、「漱石の造語」と断言できる言葉はまだ一語も確認されていない。かつては、一人の学者が見ることのできる資料体が少なかったのでこういう俗説も生まれやすかったが、現在は文学以外の分野でもアーカイブスが充実してきたので、かえって確定することが困難になったのである。たとえば、「無意識」という言葉は、文学の外へ出れば、漱石が使う以前の東京帝国大学での心理学の講義録などに出現している可能性が非常に高い。漱石に限らず、「造語」というのはほとんどは俗説だということを知っておくべきである。ただし、「「肩こり」という言葉は漱石が広く読まれたので広がった」というレベルなら、間違いとは言えない。
[編集] 漢詩
日本人が作った漢詩は中国語での発音を意識していないため、中国人には上手な漢詩とはされにくい。だが、漱石の漢詩は中国語で発音しても美しい [12]とされ、2006年には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
現在は吉川幸次郎『漱石詩注』が岩波文庫にある(初版は岩波新書、昭和42年)が、これは漱石の造詣が深かった禅語に関してほぼノーマークであることなど、現在においては学問的価値はほぼ消滅している。また娘婿の松岡讓が朝日新聞社で『漱石の漢詩』を1966年に出版している。(初版は十字屋書店、昭和21年)。最近岩波書店から刊行された古井由吉『漱石の漢詩』は、たとえば押韻の問題についてまったくふまえていないなど、これも学問的価値はない。
[編集] 海外での評価
日本での絶大な名声に比較すると、海外、とりわけ欧米での知名度はそれほど高いとはいえない(中国・韓国では比較的よく知られてはいるが)。グレン・グールドはアラン・ターニーによる英訳の『草枕』を愛読しており、自らラジオ番組で朗読したことがある。また、スーザン・ソンタグは『Where the Stress Falls』のなかで漱石について知られざる「天才的な多芸の作家」として高く評価している。
[編集] 漱石全集事件
1946年末に漱石の著作権が切れるにあたって、桜菊書院と岩波書店とがそれぞれ「漱石全集」を刊行して争った事件。詳細は夏目伸六を参照。
[編集] 財団法人の設立
2009年4月1日、夏目一人によって夏目漱石に関する一般財団法人が設立されたがこれに対して夏目房之介によって多くの親族の同意がないものであることが明らかにされている[13]。
[編集] 脚注
- ^ 原武哲『喪章を着けた千円札の漱石―伝記と考証』(笠間書院 2003年 ISBN 978-4305702548)によれば9月19日と推測している。
- ^ 『夏目漱石 人と作品』 11頁には「遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をしてすごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋・高橋長左衛門の妹として結婚したが、おもてむきは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。それで漱石は、終生母の実家は質屋だと思いこんでいたらしい」とある
- ^ 『夏目漱石 人と作品』 9頁
- ^ 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)
- ^ 茂木健一郎所蔵。アナザースカイ(日本テレビ) 2009年7月3日放映分にて披露。100万円で購入したそうである
- ^ 有限会社サイアン・インターナショナル
- ^ Visa TVコマーシャル
- ^ 夏目房之介の「で」?2008年11月18日
- ^ 共同通信2002年12月7日
- ^ 松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
- ^ 菊池寛との親交が深かったことで「父・夏目漱石」文芸春秋社を発表した。
- ^ 一橋大学・景(加藤)慧(Jing, Hui)ら)
- ^ 「夏目漱石財団」なるものについて 夏目房之介の「で?」2009年7月10日
[編集] 参考文献
- 福田清人 『夏目漱石 人と作品』 清水書院 1966年
- 江藤淳『漱石とその時代』(1970年 - 99年、新潮選書)
- 1部 ISBN 4106001268、2部 ISBN 4106001276、3部 ISBN 410600447X、4部 ISBN 4106005050、5部 ISBN 4106005751
- 長尾剛『漱石ゴシップ』(1993年、ネスコ)ISBN 4167336065
- 小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む』(1995年、中公新書)ISBN 412101233X
- 小森陽一『漱石を読みなおす』(1995年、ちくま新書)ISBN 4480056378
- 柄谷行人『漱石論集成(増補版)』(1997年、平凡社ライブラリー)ISBN 4582764029
- 秋山豊『漱石という生き方』(2006年、トランスビュー)ISBN 4901510398
- 神山睦美『夏目漱石は思想家である』(2007年、思潮社)ISBN 4783716358
- 三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』(2008年、岩波新書)ISBN 4004311294
- 夏目鏡子『漱石の思い出』(1966年、角川書店)ISBN 404100201X ,(1994年 文春文庫)ISBN 4167208024
- 水村美苗『續明暗』(1990年、筑摩書房、新潮文庫、ちくま文庫)
[編集] 映像化作品
- 1935年『吾輩は猫である』(PCL、監督:山本嘉次郎)
- 1953年『坊っちゃん』(東宝、監督:丸山誠治)
- 1955年『こゝろ』(監督:市川崑)
- 1955年『三四郎』(監督:中川信夫)
- 1958年『坊っちゃん』(監督:番匠義彰)
- 1966年『坊っちゃん』(監督:市村泰一)
- 1973年『心』(原作「こゝろ」監督:新藤兼人)
- 1975年『吾輩は猫である』(監督:市川崑)
- 1977年『坊っちゃん』(監督:前田陽一)
- 1985年『それから』(監督:森田芳光)
- 2006年『ユメ十夜』(監督:山口雄大)
[編集] 関連項目
- 岩波書店
- 松山と坊っちゃん
- 高等遊民
- 耳納山地 - 漱石が耳納連山を歩いた体験は『草枕』に活かされている。
- ラファエル・フォン・ケーベル
- 夏目吉信 - 漱石の先祖。三河松平家に仕え、徳川家康の忠臣として知られる。
- 夏目鏡子 - 妻
- 世説新語 - 同書にある孫楚のエピソードが「漱石」の号の出典
[編集] 外部リンク
[編集] オンライン・テクスト
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