魯迅

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魯迅
LuXun1930.jpg
誕生 周樹人
1881年9月25日光緒7年8月初3日)
浙江省紹興市
死没 1936年10月19日(満55歳没)
職業 小説家
国籍 中華民国の旗 中華民国
活動期間 1918年 - 1936年
主題 小説
代表作 阿Q正伝
狂人日記
親族 周作人(弟)
周建人(弟)
許広平(妻)
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魯迅
各種表記
繁体字 魯迅
簡体字 鲁迅
拼音 Lǔ Xùn
和名表記: ろ じん
発音転記: ルー シュン
ラテン字 Lu Hsün
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魯 迅(ろ じん、ルーシュン、繁体字: 魯迅; 簡体字: 鲁迅; ピン音: Lǔ Xùn; ウェード式: Lu Hsün 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国小説家翻訳家思想家。本名は周樹人繁体字: 周樹人; 簡体字: 周树人; ピン音: Zhōu Shùrén; ウェード式: Chou Shu-jen)で、豫才。ペンネームのは母親の姓だという。浙江省紹興市出身。弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)がいる。

代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。短編作である『狂人日記』は旧来の中国文学が文語主体な中で口語を主体とする点、被害妄想狂の心理を実にリアルに描写する点において画期的だった。なお、魯迅の中学校の時の良友に本物の迫害妄想患者が存在し、彼を観察したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。

人物・経歴[編集]

牛込の日本語学校弘文学院にて松本亀次郎日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。その間日露戦争について、授業中に戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに処刑される様を同胞である中国人が喝采して見物する姿があった。その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊』自序)。学校における細菌学のスライドを用いた授業において、当時の時事断片が余り時間に上映され、その中に処刑の場面があった、という記述もある(『藤野先生』)。

当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され[1]、魯迅は無試験で入学しているが、当時の医学専門学校は卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技で、魯迅のようにわずか1年7か月でドロップアウトすることも珍しくなかった[2]日本人学生でさえ入学者100名に対し卒業試験まで至る学生は50名に過ぎなかった。『藤野先生』によると、初年度の試験で魯迅は百人中まんなかへんで、落第はせずにすんだ、得点は六十だった、とある。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、夏目漱石など日本の小説の読書に熱中していた。街で遊興に耽ることもあり、自身も「当時、私は一向に不勉強」と述べている。さらに二年度に進むと学年試験の成績について同級生から試験問題の漏洩を疑う不当な流言があり[4]、この疑いは晴れたものの、中国人留学生である自分の語学能力への差別感情を感じたようである。そのような状況下で中国人が処刑される情景に出会ったことが進路を考え直す契機を与えたものであろう。

1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。そこに友人銭玄同金心異に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。

たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか。

これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言う。それに対して金心異は、「起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか」といった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた。(『吶喊』自序)

帰国後は、杭州紹興などを経て、1912年南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。

また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業を進めていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。

魯迅の言語観[編集]

魯迅の作品に見られる特徴のひとつとして、欧米語とりわけ英語文法をなぞった、本来の中国語(白話)には無い語法がある。彼は中国語が文法的な精緻さにかけているという発想に取り付かれており、欧米語は文法が精緻なので思考も理性的なのだと考えていた[5]

魯迅と仙台[編集]

魯迅の留学時代の解剖学ノート。藤野厳九郎の添削が書き込まれてある
紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館

仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。その藤野との関係は、小説『藤野先生』に以下のように描かれている。

「私の講義、ノートが取れますか?」とかれは訊ねた。「どうにか」 「見せてごらん」  私は筆記したノートをさし出した。かれは受け取って、一両日して返してくれた。そして、今後は毎週持ってきて見せるようにと言った。持ち帰って開いてみて、私はびっくりした。同時にある種の困惑と感激に襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してあった。このことがかれの担任の骨学、血管学、神経学の授業全部にわたってつづけられた。-中略-

 だが、なぜか私は、今でもよくかれのことを思い出す。わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ。私はよく考える。かれが私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中国のためである。中国に新しい医学の生れることを期待したのだ。大きくいえば学術のためである。新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。私の眼から見て、また私の心において、かれは偉大な人格である。その姓名を知る人がよし少いにせよ。

150px、魯迅「藤野先生、訳文は竹内好訳『魯迅文集』第二巻、1976、p150・p154

魯迅は、1904年明治37年)9月から1906年(明治39年)3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている[6]。 中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年平成10年)11月29日には江沢民中華人民共和国主席も訪問している。訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。

2004年(平成16年)、東北大学は、魯迅の留学100周年を記念して、同大に縁りのある中国要人に『東北大学魯迅賞』、同大大学院に在籍する優秀な中国からの留学生に『東北大学魯迅記念奨励賞』を贈った[7][8]。 ただし、諸事情により、翌年から各々『東北大学藤野先生賞』と『東北大学藤野記念奨励賞』に名称変更された。

東北大学の創立100周年を記念して、魯迅と藤野厳九郎の胸像が仙台市内のキャンパスに設置された。また、2011年(平成23年)7月19日、東北大学史料館に「魯迅記念展示室」が設置され、9月28日にオープニングセレモニーが実施された。

作品原題一覧[編集]

  • 熱風
  • 華蓋集
  • 華蓋集続編
  • 而已集
  • 三閑集
  • 二心集
  • 偽自由書
  • 南腔北調集
  • 准風月談
  • 花辺文学
  • 且介亭雑文
  • 且介亭雑文二集
  • 且介亭雑文末編
  • 集外集
  • 集外集拾遺
  • 集外集拾遺補編
  • 故郷
小説作品
  • 吶喊
  • 彷徨
  • 故事新編
  • 朝花夕拾
  • 野草  平凡社東洋文庫に全釈
書簡・評論
  • 両地書  許広平との書簡集
  • 中国小説史略  平凡社東洋文庫(全2巻)で新訳

日本語作品集[編集]

  • 『魯迅文集』 全6巻(代表作品集) 竹内好訳、筑摩書房、新版ちくま文庫
  • 『魯迅全集』 全20巻、学研
  • 『魯迅選集』 全13巻、岩波書店 新書版で訳文は古い 

IMAGINEのくだりで有名な『吶喊』[編集]

英語で『Call to Arms』と翻訳された『吶喊』は、IMAGINEから始まる鮮烈なくだりをもって概説されることが多い[9]

Imagine an iron house without windows, absolutely indestructible, with many people fast asleep inside who will soon die of suffocation. But you know since they will die in their sleep, they will not feel the pain of death. Now if you cry aloud to wake a few of the lighter sleepers, making those unfortunate few suffer the agony of irrevocable death, do you think you are doing them a good turn? But if a few awake, you can't say there is no hope of destroying the iron house.

脚注[編集]

  1. ^ 日本の中学卒以上の学力があるという条件は示されていた。
  2. ^ 坂井建雄2007「明治後期の解剖学教育---魯迅と藤野先生の周辺」『解剖誌』82:21
  3. ^ その額は金400円にのぼる。この他学費は全額免除されていた。当時の400円は中学校の教員の収入を優に超えるものであった。
  4. ^ 初年度からの授業の担当だった解剖学の藤野厳九郎教授が、好意から魯迅のノートを添削してくれていたためにそういう疑いを持った学生がいたらしい。
  5. ^ 魯迅における欧化の文法-的、地の使い分けを手がかりに-(PDF文書) 胡蓉著
  6. ^ 魯迅特集(東北大学・まなびの杜)
  7. ^ 日中今昔ものがたり「人的財産」賞に(asahi.com)
  8. ^ 東北大学魯迅記念奨励賞(東北大学)
  9. ^ Western Connecticut State University

関連項目[編集]

外部リンク[編集]