中国共産党

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中華人民共和国の旗 中国の政党
中国共産党
中国共产党
Flag of the Chinese Communist Party.svg
中国共産党党旗
ソビエト連邦の国旗と似ているが、「赤い星」がなく、鎌と槌の図柄のうち鎌の持ち手がより短い。
中央委員会総書記 習近平
成立年月日 1921年7月23日
全国人民代表大会議席数
 / 2,985
党員・党友数
8512.7万人
2012年末)
政治的思想・立場 マルクス・レーニン主義毛沢東思想鄧小平理論3つの代表科学的発展観
公式サイト 中国共产党新闻
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中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、簡体字: 中国共产党拼音: Zhōngguó gòngchǎndǎng英語: Communist Party of China, "CPC")は、中華人民共和国政党共産主義の実現を最終目標としている。略称は中共(ちゅうきょう)。2012年6月で8260.2万名の党員を抱える世界最大の政党である。

中華人民共和国憲法において「中華人民共和国を領導(上下関係を前提とする指導)する政党」と明記され、建国以来一党独裁制を維持している。年代によって程度の違いはあるが、宗教や言論に対する統制など、極めて抑圧的な統治が特徴である。自由経済の利点を中国の経済に取り込むようになってからは私営企業家の入党が認められるようになるなど、雑多な集団へと変質してきているとも言われ、現在の党内は必ずしも一枚岩ではないという説もある。

歴史[編集]

結成[編集]

1921年7月に、コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる[1]

一般には、創立党員は57人とされるが、57人の名前が明確に示された文献はなく、本当に57人であるかは定かではない。 結成時に上海に集まった党員は13人であるとする説もあるが、公式記録では、12人とされている。また、顧問として、オランダ共産党政治局員が招聘されている。なお、創立党員で中華人民共和国建国まで生き残り、かつ、死ぬまで「中国共産党」内での名誉を保ちつづけた者は毛沢東董必武のみとされる。

コミンテルン指導下[編集]

中華民国の統治期には、中国国民党と、時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対し(1927年蒋介石による4・12クーデター上海クーデター)により国共分裂)、軍閥および日本との戦いを続けた。

結党当初は、コミンテルンの指導が強く、また、ソビエト連邦への留学生が「中国共産党」の中心勢力であった。 そして広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せずに大都市の労働者による武装蜂起を革命の基本路線と考えたコミンテルンの指導に忠実に従ったために、第一次国共合作に固執しすぎ、また、国共分裂後は、極左冒険主義に走りすぎるなどの路線の失敗を犯した。 一方で並行して、中国国民党からの熾烈な白色テロの標的ともなったため、中国国民党と比較しても、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。

このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義レーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえなかったためである。また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。

日中戦争期[編集]

しかしこの時期、共産党は上海から移動してきたソ連留学組によって指導されていた。共産党軍は中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。1935年のコミンテルンから国民党と協力せよとの指示が出され、1936年西安事件(西安事変)、1937年盧溝橋事件中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際には八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。蒋介石をして、ソ連との不可侵条約締結などで、反共から容共化に変えさせた。

国共内戦[編集]

1945年日本第二次世界大戦で敗北し、中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入させた。

満州を占領したソ連の後押しで東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民政府は台湾へ遷都した。

内戦でのアメリカの傍観への疑義[編集]

1945年12月、ジョージ・C・マーシャル将軍はトルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は、内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った、と言う主張があり、下記の点が指摘されている[2]。この疑惑は、後にアメリカ政界でジョセフ・マッカーシー議員によるマッカーシズム赤狩り)にまで発展した。

  • マーシャルは、国民党が有利な状況となると蒋介石に圧力をかけて再三停戦命令を出させ、国民党の優勢がピークとなった1946年末には、無条件の即時停戦命令まで下した。
  • マーシャルは中国での武器や弾薬の通商禁止措置を実施したが、それにより国民党が弱体化する状況で、ソ連が、旧日本軍が満州地域に残した物資やアメリカからの援助物資を、共産党に横流しするのはまったく黙認した。
  • 1948年3月にアメリカ議会が国民党に対して、2億7千5百万ドルの経済支援と1億2千5百万ドルの緊急軍事支援を議決したが、マーシャルと国務省の親中国派(=世界分割派)は、同年11月まで実施を意図的に遅延させた。この間に、国民党軍の敗北が決定的となった。
  • 国務省官僚を含む太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ国内で積極的な中国共産党擁護プロパガンダを展開した(IPRはマッカーシズムで攻撃され解散した)。

中華人民共和国の建国[編集]

建国宣言を朗読する毛沢東

1949年10月1日には中華人民共和国の建国を北京で宣言した。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党だが、安定的に発展することはできなかった。

当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、1960年からは公開論争にまで発展し(中ソ論争)、武力衝突までに至った。

文化大革命[編集]

中ソ論争の頃から中国共産党は独自路線を歩み始めるが、党内部では反右派闘争大躍進政策などの路線闘争、権力闘争は絶えず、毛沢東が自らの実権を回復するために1966年に発動した文化大革命でその混乱は極に達した。毛沢東批判さえしなければ、共産党ですら批判してもよいということになり、これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。全国各地に張り巡らされていた既存の党委員会は解体され、代わって革命委員会が設立されるようになる。国家主席として大躍進の失敗後、経済の調整に取り組んできた劉少奇は毛沢東から打倒すべき筆頭とみなされ、失脚の後に獄死した。鄧小平も失脚し、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。また、1971年、毛沢東後継者と憲法にまで規定された林彪らは毛沢東暗殺を画策するも失敗し、飛行機でソ連へ逃亡途中、モンゴルで墜落死した(林彪事件)。

内部問題とソ連との敵対関係(ダマンスキー島事件を参照)で危機感を強めた政権は1972年にはアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの訪中を受け入れと、日本との国交回復を実現するなどの外交政策の大転換を行った。1976年に毛沢東が死去すると、文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻・江青など文革派の四人組は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年には文革の終結が宣言された。

改革開放路線[編集]

鄧小平

1978年12月の第11期3中全会では、最終的に文革期の失脚から返り咲いた鄧小平の指導体制が確立し、それまでの革命路線から改革開放、現代化路線へと大きく転換した。1981年には文化大革命を完全に否定、毛沢東の誤りを一部認めた(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)。

改革開放の流れの中で党の指導体制は改革派と保守派に分れ、1980年代後半からは党機構と行政機構の分離も盛んに議論されるようになったが、1989年に起きた天安門事件後は保守派が息を吹き返し、党の独裁指導体制が再び強化された。(趙紫陽がこの事件で事実上、失脚した) しかし、それによってこれまで続いてきた経済成長がスピードダウン、1992年冬に行われた南巡講話の中で鄧小平は「改革開放を加速せよ」と指示を出し、同年10月の第14回大会では社会主義市場経済が打ち出された。

鄧小平死後の1997年9月の第15回党大会では、鄧小平理論を指導思想と確立し、社会主義の初級段階における党の路線が確立されると同時に、名実ともに江沢民時代に入った。

現在[いつ?][編集]

習近平総書記

2002年11月の第16回党大会では、江沢民が提唱した私営企業家の入党をも認める「3つの代表」思想が規約に明記されるとともに、江沢民から胡錦濤体制へと移行、第3世代から第4世代への世代交代が初めて平和的に実現した。2004年9月には、江沢民が最後まで残していた党中央軍事委員会主席の地位も胡錦濤に移り、少なくとも公式には胡錦濤体制への転換が完了した。

2020年までにGDPを2000年の4倍とし、「全面建設小康社会(いくらかゆとりのある社会を全面的に建設する)」という目標を打ち出しているが、今後[いつ?]、政治の民主化を遅らせつつ一党独裁体制を継続していけるかが注目されている。 また、私営企業家の入党許可は階級政党から国民政党への脱皮を意味しており、党のあり方そのものが問われる重大事件であった。

歴代党首[編集]

理念[編集]

中国共産党は党における最終目標と最高の理想を、「共産主義の実現」としている(中国共産党規約。第17回党大会で一部改正の上、2007年10月21日採択)。よって、中華人民共和国は現在共産主義を実現するための初級段階として社会主義を行っている。

社会主義共産主義の初級段階であるため、中華人民共和国の政権政党として党規約に基づいて、現在は国防及び科学、工業及び農業技術の現代化を実現し、国を富ませ強くし、民主的かつ文明的な国を建設することで共産主義の実現を目指している。

思想[編集]

2007年現在、指導思想として、マルクス・レーニン主義マルクス主義)、毛沢東思想鄧小平理論、さらに江沢民が提唱した思想理論「3つの代表」思想と胡錦濤が提出した「科学的発展観」を掲げている。

宗教には否定的で、文化大革命当時、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉に忠実な紅衛兵によって聖職者は弾圧され、宗教施設は破壊行為により甚大な被害を受けた。

文革終了後、民族間関係の緊張を危惧した共産党は宗教政策を修正し、一定程度の宗教活動を保障し、宗教施設も修復されるようになった。党はこれをもって「信仰の自由が保障されている」と主張しているが、依然、「民族分裂主義者」として厳しく糾弾するダライ・ラマの写真を掲げることは禁止され、メッカ巡礼も自由に行えない、キリスト教は党が公認した教会以外は迫害を受けるなど、宗教に対する締め付けは残存しており、あくまでも当局の管理下においてしか宗教活動は行えない。

言論統制[編集]

中華人民共和国は中国共産党による一党独裁体制のため、共産党が打ち出した政策は迅速に発令される(反対政党が事実上存在しないため)。また、中国共産党は「自党に都合が悪い」と判断した出版物や各メディアに対する閲覧や出版や公開停止などの厳格なメディア統制をしている。経済が発展した現在[いつ?]でも、メディア統制は基本的に堅持され、インターネットサイトの検閲などが行われている。

機構[編集]

中国共産党の最高指導機関は、5年に一度開催される中国共産党全国代表大会(党大会)である。 閉会期間中は大会で選出された中国共産党中央委員会(毎年少なくとも1回開催)がこれを代行する。 中央委員会全体会議は、中央政治局委員、中央政治局常務委員、中央委員会総書記を選出し、中央書記処メンバーを選出する。

中国共産党中央政治局中央政治局常務委員会は党の最高意思決定機関であり、中央委員会総会の閉会期間に中央委員会の職権を行使する。 総書記が中央政治局会議、中央政治局常務委員会会議を招集する。 現在(第18期1中全会選出)の政治局委員は25人。 うち、政治局常務委員は習近平(総書記)、李克強張徳江兪正声劉雲山王岐山張高麗の7人で、党の最高指導部を形成している。 毛沢東時代には合議制が形骸化し、毛沢東の恣意的な決定が頻繁になされた。 鄧小平時代になっても、こうした傾向は継続したが、現在[いつ?]では改められている。

中国共産党中央書記処は、中央政治局と中央政治局常務委員会の事務処理機関。総書記が中央書記処の活動を主宰する。 2012年11月現在、第18期中央書記処の書記は劉雲山ら7人。

中国共産党中央軍事委員会は、国家中央軍事委員会と一体となって人民解放軍を指揮する軍事の最高機関。事実上、中国人民解放軍は党が指導する軍隊である。 2004年9月以降の委員は11人で、うち主席は習近平、副主席は範長竜許其亮の3人。

中国共産党中央規律検査委員会は、党の規律検査を担当する機関。委員は全国代表大会で選出される。書記は王岐山。

党の直属機関として、組織部、宣伝部、統一戦線工作部、対外連絡部、弁公庁、政法委員会、政策研究室、台湾工作弁公室、中央党学校、人民日報社など20の機関が設置されている。

党の地方組織は、地方各級ごとに代表大会、党委員会、常務委員会、書記などが置かれている。 中央と同じく、任期は5年。

派閥[編集]

指導部には団派上海幇太子党などの派閥がある[3]ロイター通信のデータベース「コネクティッド・チャイナ」によれば、左記の3派閥のほかに清華大学閥がある[4]

党員[編集]

中国共産党員は中国社会のエリートであり、行政、立法、司法、軍、大衆組織など、社会のあらゆる部門に末端組織である党組を設け、指導している。共産党員に成るためには厳格な審査があり一般の人は簡単にはなれない。一つの途としては、学校で学業優秀だったり芸に秀でるなどして、選抜されて共産党青年団メンバーになり、その活動結果と党員の推薦により、党員になれる途がある。そのエリートでもイデオロギーと政治活動よりは拝金主義を優先する党員がいて、独裁体制の弊害が出ている。

腐敗[編集]

世界最大の党員を抱えるだけに、党員による汚職・収賄などの腐敗が深刻化している。2012年10月、規律検査委員会の賀国強書記が、2007年11月から2012年6月までに汚職や職務怠慢などで66万人以上の党員を処分し、このうち2万4000人以上が刑事処分のため司法機関に移送されたことを明らかにした[5]

党幹部の中には子弟をアメリカカナダなどに移住させ、いつでも海外へ逃亡できるよう準備している者も少なくない(→裸官)。また、1,000人以上の幹部が二重国籍を有している。北京市検察機関は、90年代半ばから、2008年までに、2万人弱の汚職官僚が海外逃亡をし、その際持ち去られた国家資金は8000億元(約12兆円)に達したと述べた。このような事に対して胡錦涛政権は幹部の国外逃亡を事前に阻止するため、幹部のパスポート管理や不正の疑いがある者に対して出国制限を課す、既に外国に逃亡している者を現地の政府・治安機関に身柄拘束を要請するなどの対策を打ち出している。

日本との関係[編集]

中国共産党の初期の指導者は、多くが日本への留学経験を持つ。マルクス主義理論家の李大釗東京生まれの廖承志早稲田大学で、毛沢東体制で長く首相を務めた周恩来1917年から1919年まで東京の専門学校(のちの明治大学)で学んでいる。

中国共産党の対日政策は1935年の抗日戦争呼びかけに始まる。中国共産党はコミンテルン(ソ連)の指示で、当時の蒋介石政権に抗日戦争を呼びかけて、日中戦争を導いて最後は日本の敗北に至らせた。日本共産党でも中国共産党と協力して抗日運動に協力した例が多く、野坂参三はコミンテルンの日本代表として延安で日本人民反戦同盟を指揮した。

第二次世界大戦で日本が敗れると、ソ連軍の協力で中国東北部を支配した中国共産党は、当時は国の政権を担っていなかったが満州国などの日本人指導者層や軍人を戦争犯罪人として拘留した。中国の戦犯管理所に抑留された日本戦犯は合計で1062人、そのうち1017人は1956年に釈放され、日本に帰った。ほかの45人は1964年4月に全部釈放された。日本に帰った「戦犯」たちは中国帰還者連絡会(中帰連)を結成し、「中日友好」に一役買った。 現地に留まった日本人の中には、国共内戦で共産党軍に協力し、中華人民共和国成立後も残留する者もいた。 ただし、文化大革命が始まると残留日本人の多くは激しい批判の対象となり、帰国する者も現れた。 また、廖承志などの党内知日派も自己批判を要求され、ほとんど失脚した。

日中共産党の関係は、1950年代前半の日本側の党分裂時代でも維持され、中ソ対立でも日本共産党は当初中華人民共和国側を支持した。 しかし、インドネシア9月30日事件後の1966年に訪中した日本共産党書記長 宮本顕治は毛沢東と意見が対立し、その後は両党機関紙での激しい非難合戦が続いて、両党の関係は断絶した。日本側の親中派は「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)などを結党した。 一方、日本社会党との関係は委員長 浅沼稲次郎が1959年に「米帝国主義は日中人民共同の敵」と述べたように、文化大革命時代も相互自立の関係を維持した。 社会党には「野党外交」を展開できるメリットがあったともいえる。

1972年に日中両国の国交が回復し、文革が終結すると、廖承志の復権(中日友好協会の初代会長へ就任)や両国指導者の相互訪問の増加などで中国共産党と日本社会との関係は再び深まり、自由民主党公明党なども対象としてより多層に広がっていった。日本では1995年頃から日本社会党の勢力が後退した。その為中国共産党は日本共産党との和解を模索し始め1998年には日本共産党幹部会委員長(当時) 不破哲三の訪中で両国共産党の関係も正常化した。2005年には、若手幹部が訪日し、両党で理論交流を行うなど、活発な交流を行っている。

現在[いつ?]の中国共産党の対日担当者は、党中央委員 唐家璇(国務委員、元外相)などのように、日本と中華人民共和国の間の国交が無い時代の中華人民共和国国内で研修を積んだ世代が中心であり、今後[いつ?]は再び国交回復後の日本留学者が多く関わってくる事が予測される。

日本の報道機関に対しては、朝日新聞などの左派陣営に好意的であり、産経新聞などの右派陣営に批判的である。中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』において、中国共産党が「右翼」と批判する安倍晋三首相に関する言説で、反安倍政権の論調をとる朝日新聞に対して賛辞を送り[6][7]、安倍政権の「暴走を牽制する役割」を期待する記事を掲載している[6][7]

全国代表大会・中央委員会全体会議[編集]

中国共産党一大会議会場(上海)

結成から1949年までのものを以下に掲げる[8][9]。日付は開始日、カッコ内は開催地。

  • 全大会=全国代表大会
  • 中全会=中央委員会全体会議

脚注[編集]

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  1. ^ 中国共産党はこのように主張するが、当時の文書等はない。
  2. ^ ジョゼフ・マッカーシー (2005). 共産中国はアメリカがつくった. 成甲書房. ISBN 4880861928
  3. ^ 清水美和「新政権に対する中国の政策と背景経済産業研究所、BBLセミナー2009年度、2009年11月12日付議事録(2013年3月17日閲覧)
  4. ^ 中国指導者の『派閥』など関係図公開 ロイター、中国国内は閲覧規制」『産経新聞』2013年3月3日付記事(2013年3月17日閲覧)。
  5. ^ 中国共産党、汚職など66万人…4年半の処分数」『読売新聞』2012年10月13日付記事。
  6. ^ a b 中国共産党中央委員会 (2014年2月12日). “安倍が火をつけた日本の「メディア内戦」”. 人民日報. http://j.people.com.cn/94474/8533507.html 2014年3月3日閲覧。 
  7. ^ a b 中国共産党中央委員会 (2014年2月12日). “安倍が火をつけた日本の「メディア内戦」(2)”. 人民日報. http://j.people.com.cn/94474/204188/8533512.html 2014年3月3日閲覧。 
  8. ^ 党史频道
  9. ^ 历次党代会(第1〜17次)

関連項目[編集]

近年[いつ?]の主な紛争と戦争

外部リンク[編集]