趙紫陽
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赵 紫阳
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趙紫陽(左)
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| 生年月日 | 1919年10月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 2005年1月17日(満85歳没) |
| 死没地 | 北京 |
| 所属政党 | 中国共産党 |
趙 紫陽(ちょう しよう、チャオ ツーヤン、赵 紫阳、ピンイン:Zhào Zĭyáng。1919年10月17日 -2005年1月17日 )は、中華人民共和国の「第2世代」の政治指導者。元中国共産党総書記、国務院総理、中国共産党中央委員会副主席。1989年の天安門事件で失脚し、2005年になくなるまで軟禁生活を余儀なくされた。
[編集] 経歴
現在の河南省滑県桑村郷趙庄に生まれ育った。中国国民党率いる中華民国政府が中国大陸を統治していた1932年に、中国国民党と対立していた中国共産主義青年団に加入し、日中戦争最中の1938年2月中国共産党に入党した。
国共内戦終結後の1949年の中華人民共和国成立後、広東省党委第三書記など。大躍進などの失敗で、香港に逃げ込んだ人民に対し「自分たちが彼らを食べさせられないのだから仕方ない」と発言し、英国政府に送還された彼らを厳しく責めることはしなかった。農家を視察し、政策の失敗を目の当たりにしていたからである。農村における調整政策として三自一包などを実行し、広東経済は若干好転した。
1966年4月(第8期11中全会)で陶鋳が政治局常務委員に昇格し中央入りしたため、46歳と当時最年少で党委第一書記に就任する。ところが陶鋳は間もなく鄧小平の代理として打倒され、趙紫陽も広東における陶鋳の代理人として批判を受け、失脚した。
| 中華人民共和国 |
| 中華人民共和国の歴史 |
| 組織集団 |
| 中国共産党 · 中国人民解放軍 |
| 主な出来事 |
| 抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立 大躍進政策 文化大革命 · 林彪事件 四五天安門事件 改革開放 六四天安門事件 |
| 人物 |
| 毛沢東 · 周恩来 · 朱徳 劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平 林彪· 江青· 胡耀邦 趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬 朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝 |
| 理念 |
| マルクス・レーニン主義 毛沢東思想 · 鄧小平理論 4つの基本原則 · 3つの代表 |
| 統治機構 |
| 全国人民代表大会 中華人民共和国国務院 中央軍事委員会 |
| 地域 |
| 中国 · 華北 · 東北 華東 · 華中 · 華南 西南 · 西北 中華人民共和国の行政区分 |
1971年に復権し、広東省党委第一書記、四川省党委第1書記などを務めた。特に1975年から5年間、四川省党委第1書記時代に「四川経験」と呼ばれる経済改革を実施し、農家経営請負制を導入し、四川省では農業生産が飛躍的に向上した。万里が党委書記を勤めていた安徽省と共に農村改革が進んでいたため、「米が食べたければ万里を探せ。メシが欲しければ、趙紫陽を探せ。」という言葉まで出来て流行した。 これらの経済運営の実績を鄧小平に注目され、抜擢されることになる。
第10期中央委員、1977年8月(第11期党大会)中央政治局候補委員、1979年9月(第11期4中全会)で政治局委員、1980年2月(第11期5中全会)に政治局委員、4月国務院副総理と着実に累進。
1980年9月の第5期全国人民代表大会第3回会議で、華国鋒に代わって国務院総理(首相)に就任。党総書記の胡耀邦とともに鄧小平を支える「車の両輪」と称せられた。鄧小平は天が落ちてきても2人が支えてくれると称し、当時の2人に対する信頼は大きなものがあった。1981年6月(第11期六中全会)に政治局常務委員。
1987年1月(政治局拡大会議)で、胡耀邦総書記の辞任(事実上の失脚)を受け総書記代行に就任。 同年11月の第13期一中全会で党総書記、党中央軍事委員会第一副主席に選出された。「経済政策に専念していたかったが、他の誰かがやるよりは自分がやったほうがましだと思った」と後に回顧している。しかし、1988年夏に鄧小平が行った価格改革で発生したハイパーインフレの責任を取り、総書記就任からわずか1年(三中全会)で経済政策を保守派の李鵬、姚依林に譲ることとなった。
1989年4月、北朝鮮を公式訪問中に留守を預かった李鵬や保守派の誇張された報告を信じた鄧小平が、『人民日報』に掲載させた「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」(四・二六社説)で学生運動を動乱と表現したことに対して論調を和らげるよう主張し、帰国後から鄧小平や李鵬らと撤回、軌道修正を巡って論戦になった。
5月3日の五四運動70周年記念式典では学生たちの愛国心を評価し、翌5月4日にはアジア開発銀行理事会総会で「学生たちの理にかなった要求を民主と法律を通じて満たさなければならない」「わが国の法制度の欠陥と民主的監察精度の不備が腐敗をはびこらせてしまった」などと演説した。後者は秘書でありブレーンの鮑トウが起草したもので、政治局常務委員会や党中央書記処に見せることなく発表した。陳希同は5月8日の政治局常務委員会会議で四・二六社説の精神と一致しないと指摘したが、趙は「間違っていたら責任を取る」と反論した。
アジア開発銀行理事会総会における演説は政治局常務委員や長老の反応もまずまずであり、デモ沈静化に一定の効果もあった。15日のミハイル・ゴルバチョフソ連書記長の訪中が迫っていたこともあり、鄧小平は趙紫陽の要求する四・二六社説の論調を和らげることを考え始めたが、5月12日には翌日から学生が絶食を始めることがわかり、趙の穏健戦略は事実上破綻した。10日の政治局会議で対話路線をスタートした矢先の出来事で、ゴルバチョフ訪中までに天安門広場の占拠をやめさせることはできなかった。
ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に
“鄧小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。我告訴你一个秘密,在十三届一中全会有一个正式的决定,雖然這个决定没有公布,但是它是一个很重要的决定,就是說,我們在最重要的問題上需要他掌舵。”
鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話すが、第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の操舵を必要とするというものだ。
と「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かした。鄧小平に局面悪化の責任を負わせる意図があるとみられ、また周囲もそのように感じた。この発言で鄧小平と趙紫陽の関係は破綻した。16日夜の政治局常務委員会でも、趙紫陽は依然として四・二六社説の修正を主張したが、喬石、胡啓立ら趙紫陽に近い常務委員や楊尚昆、薄一波も難色を示した。
17日、朝から鄧小平の私邸で政治局常務委員会が開かれ、前日同様に常務委員5人と楊尚昆、薄一波の2人が出席したが、柔軟路線に賛成するものはおらず、鄧小平が北京に戒厳令を発令するよう提案した。常務委員会の採決では李鵬と姚依林が賛成、趙紫陽と胡啓立が反対し、喬石が棄権したため、鄧小平に委ねられた。趙は党中央を代表して学生たちに絶食を中止するよう求める文章を人民日報に掲載させたが効果はなかった。
18日、鄧小平が八大元老と辞意を示し体調を崩した趙紫陽を除いた常務委員、洪学智、劉華清、秦基偉ら中央軍事委員会委員との会談で戒厳令発令を決定し、席上趙紫陽に対する批判が相次いだ。19日午前4時、趙紫陽は李鵬と天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に現れ、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。これが公の場に姿を見せた最後となった。19日午後10時から開かれた戒厳令を布告する大会には「体調不良のため」欠席した。
6月23日、24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされ、として全職務を解任され、自宅軟禁下に置かれた。共産党員の資格は剥奪されず、外出は比較的自由にでき、趣味のゴルフなどを楽しんでいた。 ただ、党大会など重要な会議の開催中は行動を制限され、これに抗議する書簡を党中央に送っている。また、失脚直後から長年の友人である宗鳳鳴が度々気孔師として訪れ、談話をまとめた物が2007年に香港で出版されている。
一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。
その後、呼吸器系統などの病気を患い、北京市内の病院に入院していたが、2005年1月17日午前7時1分(北京時間)病院で死去した。何度か香港紙で死亡説が流れたがその度に中央がデマであるとわざわざ取り消すほど気を使う人物でもあった。死の直前にも死亡説が香港紙から流れ、それを当局が打ち消している。
失脚の理由から、葬儀や埋葬の問題で遺族、党、長老との綱引きが見られたが、葬儀は党中央が主催し、八宝山に埋葬される事になった。新華社の死亡記事では直接経歴を触れておらず、ぼかした表現になっているが、外交部の孔泉報道官の言葉を借りれば「党内で結論が出ている」となり、現時点における再評価は考えられない。趙の失脚と死により、中華人民共和国の民主化、経済成長は大きなダメージを受けたと言われている。
※1989年5月19日に趙紫陽が学生に話した内容については、ウィキクォート参照のこと(中国語)
[編集] 参考文献
- 『趙紫陽の夢みた中国』趙蔚(著)、玉華(訳)、徳間書店、1989年9月、ISBN 4195540283
- 『北京迷走―鄧小平・胡耀邦・趙紫陽の軌跡』田所竹彦、亜紀書房、1989年10月、ISBN 475058911X
- 『趙紫陽―中国共産党への遺言と「軟禁」15年余』宗鳳鳴(著)、高岡正展(訳)、2008年7月、ISBN 978-4828414416
[編集] 関連項目
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