中国国民党
| 中国国民党 中國國民黨(Kuomintang of China) |
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|---|---|
党旗(青天白日旗)
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| 党首 | 馬英九 |
| 成立年月日 | 1919 年10 月 10 日 |
| 本部所在地 | 中華民国台北市中山区 八徳路 2 段 232-234 号 |
| 立法院議席数 |
64 / 113
(57%)
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| 党員・党友数 |
1,090,000
(2011 年) |
| 政治的思想・立場 | 三民主義 反共主義 保守主義 中道右派 汎中国主義 |
| 公式サイト | 中国国民党公式サイト |
| シンボル | 党章 |
| 国際組織 | 国際民主同盟 |
| 泛藍連盟(政治同盟) | |
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、正体字:中國國民黨、英語:Chinese Nationalist Party、Kuomintang of China、KMT)は、中華民国(台湾)における主要 政党 の一つであり、現在は 政権与党 である。
略称について、冷戦 時代には「国府」と呼ばれることもあったが、現在では国民党が一般。英語名の略称は、「Kuomintang」(クォミンタン。「国民党」の中国語発音)を略した「KMT」である。
目次 |
概要 [編集]
起源は、孫文 らが 1912 年元日 に中国大陸に樹立した中華民国の 一党独裁政党 である。ポツダム宣言(第二次世界大戦 終結)に基づいて 1945 年10 月 25 日 に中華民国が 台湾を編入 し、中国共産党 との 内戦 を開いた中台両地域統治時代経て、1949 年10 月 1 日 に内戦で敗れた中華民国政府が 台北 に遷都した 1949 年 12 月 7 日 以後は、台湾 を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾化 ・本土化)を経て今日に至っている。
2000 年 に 民進党 の 陳水扁総統 が就任し、史上初めて 野党 となった。2001 年 には 立法院(国会)第一党の座も奪われた。しかし、2008 年 に国民党の 馬英九 総統が就任し、立法院第一党も奪回、政権与党に復帰した。
台湾 及び 福建省 のごく一部のみを基盤とした 政党 となって久しく、党の精神的支柱として今なお 孫文 を総理とし[1]、また 蒋介石 を崇めており、「中国」の政党としての建前は捨てていない。李登輝 時代に党の台湾化いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任した 2000 年 頃からは党内「本土派」が退潮し、連戦 が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」を強調する傾向に回帰している。
国民党は、孫文と蒋介石が戦前から日本と関わりが深かったこと(敵としても友としても)や、冷戦 時代に 反共主義 を名目とする一党独裁与党の時期が長かったこともあって、日本の政界とりわけ 自民党 とのパイプは民進党より太く、知日派 を多く擁している。国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある。
現在の党首(党主席)は、馬英九総統が兼任している[2]。 副主席は、江丙坤、詹春柏、林豊正、蒋孝厳、曽永権、朱立倫、黄敏恵。秘書長(党幹事長に相当)は、金溥聰。
連戦 と 呉伯雄 の両元主席は「名誉主席」の称号を与えられている。
歴史 [編集]
中国大陸時代 [編集]
孫文 によって 1894 年11 月に ハワイ で結成された 興中会 を母体として、辛亥革命 後の 1919 年10 月 10 日 に、ロシア革命 の影響を受け、広東 において孫文等により結成された[3]。結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、汪兆銘(汪精衛)などもいた(なお、宋教仁 が 1912 年 に結成した「国民党」は、別の 政党 である)。
第一次世界大戦 後の パリ講和会議 によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動 である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[4]。陳独秀 や 毛沢東 もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[5]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボルシェビキ をモデルとした[6]。実際に、ロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[7]。他にも ソビエト連邦共産党 のシステムを学び、ソビエト連邦 と同様の 党国体制 を布いた。
1921 年 に 中国共産党 が樹立されると、中国国民党は 民族主義 の立場から 反共主義 をとった。
1922 年 のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923 年 1 月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される[8]。1923 年6 月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[9]。1924 年1 月 20 日 には、中国共産党との 第一次国共合作 が成立し、軍閥 に対抗するための素地が形成された。
孫文の死後、1925 年 に 上海 で発生した 五・三〇事件 を背景にして、汪兆銘を主席とする 広東国民政府 を樹立、1926 年 には、北伐 を開始した。1927 年 に、蒋介石 の 上海クーデター により 国共合作 は崩壊したものの、北伐は継続され、1928 年6 月 9 日 には 北京 に入城し、北京政府 を倒すことに成功した。
北伐の完了を受けて、1928 年、南京 に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の 軍閥 を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを 1 つの契機として、中原大戦(1930 年5 月 1 日~10 月 10 日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
1932 年 には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や 満州事変 以降勢力拡大する 日本軍 に脅かされることになる。
蒋介石は、抗日戦 より 反共主義 を優先し、1930 年 から 1934 年 にかけて、5 次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は 井崗山 の革命根拠地を撤収・放棄して 長征 を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の国民党軍はドイツ国防軍からファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。1936 年 には、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され (西安事件)、これが、国共両党の接近をもたらした。1937 年 に 日中戦争 が開始され、同年 9 月 22 日、第二次国共合作 が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は 重慶 に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。
太平洋戦争 期には遠征軍が ビルマの戦い に参加し 10 万名の戦死者を出した(抗日老兵)。
国共内戦 [編集]
1945 年8 月 18 日 に 満州国 が崩壊、1945 年9 月 2 日 には ポツダム宣言 受諾の調印があり、10 月 25 日 に 台湾 は 国民党政府に明け渡され、旧満州国は国民党政府に返還され、日本軍は中国本土から撤退し、国民党政府は中国大陸と台湾の両地域を領土とした。しかし、1945 年 11 月から 国共内戦 が再開されるが、国共内戦中に 法幣 を濫発した事が災いして、ソビエト連邦 政府が支援する 共産党 に対して劣勢に陥り、1949 年10 月 1 日 には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945 年の日本降伏後に連合国として統治していた 台湾 島一帯だけとなった。
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊は タイ、ミャンマー、ラオス など 東南アジア に逃れ、東南アジアの政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。
特に内戦の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていない シャン州 に逃れた。有力な ワ族 など少数民族と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、アメリカは CIA を用いて公然と国民党軍 (KMT) への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。
当時、1950 年代のビルマ政府は少数民族の武装蜂起やビルマ共産党の政権からの離脱などが相次いでいた。KMT のシャン州での占領はビルマの動揺を増幅するものであった。当時の ウー・ヌ 首相は、国際連合において、KMT のシャン州占領を不法行為とみなし、KMT 将兵の国外退去を要求している。また、後に政権を獲得する事になる ネ・ウィン 国防大臣は、少数民族の反乱を鎮圧にこぎつけたのを機に、シャン州の KMT の掃討作戦も開始。時には中華人民共和国人民軍と連携して共同作戦を取って、KMT の追放に取り掛かった。
こうしたビルマ政府の反発によって、シャン州にいた KMT 将兵の大半は台湾やタイなどに出国するか、地元に土着化していった。
また、1962 年のネ・ウィンのクーデターによってビルマは、アメリカとの MAP 協定を含めた条約を一切破棄するなど、厳正な中立姿勢を取るようになった。当初、アメリカはネ・ウィンの評価に難儀するも、最終的にはビルマ共産党と麻薬問題で強硬手段を取るネ・ウィンの政策を支持し、控え目な軍事支援を行なうようになった。こうして KMT への国際的支援は途絶えた。
一部はそれでも残留したが、その後も クン・サ(KMT 将兵の子息といわれる)率いるモン・タイ軍や ビルマ共産党 の台頭、将兵の高齢化などから現在はその大半が武装解除し、現地に帰順・定住するかタイなどに移住している。前者は現地で コーカン と言われる土着の漢族社会に取り込まれている。
タイ王国 北部には国民党の集落がある。タイ王国でも 1970 年代前半までは「大陸反攻」の拠点として中華民国が経済的に補助する中国人学校が運営されていたりしたが、アメリカ同様に国交を中華人民共和国に転換すると、台湾との関係は希薄化していった。現在では帰農するなどして現地社会に帰化している他、地理的条件を利用して中国との交易をおこなっている者もいるという。
台湾時代 [編集]
台湾に本拠地を移して以降は長期的な視野で大陸との統一を主張しているが、共産党主導の統一には反発を示しており、短期的な視野では現状維持を志向している。
台湾移転後は 一党独裁 で政権を担ってきたが、1987 年 に 蒋経国 総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、体制は終結した。そして、1996 年 には 中華民国の国民による総統選挙 に移行し、2000 年 の総統選挙で民進党の 陳水扁 に敗れて野党になり、2001 年 には 立法院(議会)でも第二政党になった。
2005 年 に国民党主席の 連戦 らが 北京 を訪問。中国共産党 総書記・ 中華人民共和国主席 の 胡錦濤 と会談した。両党トップの会談は 1945 年以来 60 年ぶりで、台湾独立 反対という姿勢で一致した。
2008 年 に立法院第一党に返り咲くとともに、中国国民党の 馬英九 が総統選挙に勝利し、8 年ぶりに政権与党の座に復帰した。
2012 年 の立法院選挙では第一党を守り、総統選挙でも再選を果たした。
歴代の党主席 [編集]
| 代 | 姓名 | 肖像 | 在任期間 | 在任中の出来事 | 備考 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 就任 | 退任 | ||||||
| 1 | 孫文(國民党理事長) | 1912 年8 月 | 1914 年7 月 | ||||
| 1 | 孫文(中華革命党総理) | 1914 年7 月 | 1919 年10 月 | ||||
| 1 | 孫文(永久総理) | 1919 年10 月 10 日 | 1925 年3 月 12 日(逝去) | ||||
| 2 | 張静江(中執委常委會主席) | 1926 年5 月 19 日 | 1926 年7 月 6 日 | ||||
| 3 | 蒋介石 | 1926 年7 月 6 日 | 1927 年3 月 11 日 | ||||
| 4 | 胡漢民 | 1935 年12 月 7 日 | 1936 年5 月 12 日(逝去) | ||||
| 5 | 蒋介石(永久総裁) | 1938 年4 月 1 日 | 1975 年4 月 5 日(逝去) | ||||
| 6 | 蒋経国(中央委員會主席) | 1975 年4 月 28 日 | 1988 年1 月 13 日(逝去) | 十大建設 を推進。1987 年 7 月 14 日、戒厳令 を解除し、政党結成を自由化。 | 浙江省 生まれ。国防部長、行政院長(首相)を経て、1978 年 総統。 | ||
| 7 | 李登輝 | 1988 年1 月 27 日 | 2000 年3 月 24 日 | 1991 年、動員戡乱時期臨時条款 を廃止、国家統一綱領 策定。1996 年、初の総統直接選挙を実施。同年、台湾海峡危機。1999 年、二国論(両国論)を提唱。 | 1971 年入党。台北市長、台湾省主席、副総統を経て、1988 年総統。2000 年総統選 敗北の責任をとって辞任後、台湾団結連盟 結成。2001 年、党籍剥奪。 | ||
| 8 | 連戦 | 2000 年3 月 24 日 | 2005 年8 月 19 日 | 2001 年 3 月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年 12 月、訪日(党主席の訪日は初)。2005 年 4 月、北京で 胡錦涛 共産党総書記と 60 年ぶりの国共トップ会談。 | 蒋経国政権で 交通部長、行政院副院長(副首相)、李登輝政権で 外交部長、行政院長(首相)。1996 年副総統。2000 年総統選、2004 年総統選 にいずれも惨敗。2005 年から党名誉主席。 | ||
| 9 | 馬英九 | 2005 年8 月 19 日 | 2007 年2 月 13 日 | 党政治綱領を改訂し、「九二共識」の受入れ、「一国二制度」の反対を盛込む。2006 年 3 月、党本部ビルを売却。同年 4 月、両岸経済貿易文化フォーラム 発足。同年 8 月、党資産の情報公開。 | 蒋経国総統の英語通訳、李登輝政権では台北市長、法務部長。2008 年から総統(現職)。 | ||
| 10 | 呉伯雄 | 2007 年4 月 11 日 | 2009 年10 月 17 日 | 2008 年 5 月、台湾の与党党首として初めて中国を訪問し、胡錦濤 中国共産党総書記と初会談。2008 年 12 月、訪日。 | 李登輝政権で 内政部長、台北市長、総統府秘書長など歴任。2009 年から党名誉主席。 | ||
| 11 | 馬英九 | 2009 年10 月 17 日 | 現職 | 2010 年 6 月、中国との間で 両岸経済協力枠組協議 を締結。 | (相同) | ||
関連項目 [編集]
- 国民政府
- 日中戦争
- 南京国民政府
- 国共合作
- 南京事件 (1937 年)
- 国共内戦
- 中国国民党革命委員会---中華人民共和国 の「民主諸党派」(中国共産党 の 衛星政党)の一つ。
脚注 [編集]
- ^ 国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党代表は「主席」。
- ^ 党主席の選出方法は 2001 年 3 月に初めて党員直接選挙で実施された。
- ^ 国民革命党 からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある
- ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東 VS 鄧小平』<中国の歴史 11>(講談社、2004 年)61 頁
- ^ 天児慧 同書 63 頁
- ^ 天児慧 同書 63 頁
- ^ 天児慧 同書 63 頁
- ^ 天児慧 同書 64 頁
- ^ 天児慧 同書 64 頁
外部リンク [編集]
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