胡錦濤

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胡錦濤
胡錦濤
胡錦濤(2004年)

任期: 2003年3月15日 – 現職

任期: 2002年11月15日 – 現職

出生: 1942年12月21日
中華民国 江蘇省
政党: 中国共産党
配偶: 劉永清
胡錦濤
職業 政治家
各種表記
簡体字 胡锦涛
繁体字 胡錦濤
ピン音 Hú Jǐntāo
和名表記 こ きんとう
発音転記 ホゥー・ジンタオ
ラテン字 Hu Jintao
ポータル テンプレート ノート
中華人民共和国
中華人民共和国の国章

中華人民共和国の歴史


組織集団
中国共産党 · 中国人民解放軍


主な出来事
抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 · 林彪事件
改革開放
四五天安門事件
六四天安門事件


人物
毛沢東 · 周恩来 · 朱徳
劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平
林彪· 江青· 胡耀邦
趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬
朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝


理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 · 鄧小平理論
4つの基本原則 3つの代表


統治機構
全国人民代表大会
中華人民共和国国務院
中央軍事委員会


地域
中国 · 華北 · 東北
華東 · 華中 · 華南
西南 · 西北
中華人民共和国の行政区分

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胡 錦濤(こ きんとう,ホゥー・ジンタオ、1942年12月21日 - )は、中華人民共和国政治家中国共産党中央委員会総書記中華人民共和国主席中国共産党中央軍事委員会主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席。

目次

生い立ち

胡錦濤は1942年12月21日に江蘇省姜堰で生まれた。家族は彼の祖父の代にこの地に移住していた。

父は泰州で小さいながらも茶の貿易会社を所有していたが、家族はあまり裕福ではなかった。母は胡が7歳の時に死亡したため、胡はおばに育てられた。父は後に文化大革命で告発され、このことは胡に大きな影響を与えた。妹の胡錦蓉江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事。

1959年、胡は高校に進学した。高校では歌やダンスに秀でていた。1964年清華大学在学中に中国共産党に入党した。翌1965年に同大学水利エンジニア学部を卒業。また大学在学中に劉永清と知り合い、1970年に結婚している。2人は1971年に長男の胡海峰(清華同方威視技術股份有限公司社長)、1972年に長女の胡海清(新浪CEO夫人)をもうけている。

1968年甘粛省にある中華人民共和国水利部劉家峡工事局で水力発電所技師として労働に従事する。それから1969年から1974年にかけて水利部第4工事局でも技師として働いた[1]

初期の政治活動

甘粛省、中国共産主義青年団での活動

1974年、甘粛省建設委員会に異動し、秘書として働く。翌1975年には同委員会副主任に昇進。1980年鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。この時、胡も有能な若手党員の一人として、中国共産党甘粛省委員会第一書記の宋平の推薦で中国共産主義青年団(共青団)の甘粛省委員会書記に就任した。

1981年、鄧小平の娘(鄧楠)と胡耀邦の息子とともに、中国共産党中央党校で共産党の高級幹部となるための訓練を受ける。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものだった[2]。鄧楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に対面させている。

1982年10月、胡錦濤は甘粛省共青団書記に就任する。そのわずか2ヵ月後の12月、共青団中央書記処書記に就任する。2年後の1984年、共青団中央書記処第一書記に昇進し、共青団の事実上のリーダーとなる。共青団中央書記時代の胡錦濤は中国共産党総書記だった胡耀邦の地方訪問のエスコートをしている。

貴州省党委員会書記

1985年、胡耀邦は胡錦濤を貴州省党委員会書記に就任させた。上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。

チベットでの活動

1988年6月、チベット自治区党委員会書記が重病のため辞職した。中国共産党総書記だった趙紫陽は2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡錦濤がそれにかかわったと信じている[3]。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった[4]。日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防御するため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。

しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた[5]。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことが出来ず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった[6][7]。しかし胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。

ポスト江沢民

1992年の中国共産党第14回大会が行われる前に、鄧小平と陳雲を含む党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した[8]。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は中国共産党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に中国共産党中央書記処書記にも選出された。

胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した[9]。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年コソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。

そして2002年に中国共産党第16回大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国賈慶林曽慶紅黄菊李長春を党中央政治局常務委員に配置し、また自身も中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。

国家主席

2005年、第31回主要国首脳会議(グレンイーグルズサミット)に国家主席として参加(手前の列の左からの3番目の人物)
2005年第31回主要国首脳会議グレンイーグルズサミット)に国家主席として参加(手前の列の左からの3番目の人物)

「和諧社会」

中国共産党第16回大会で総書記に就任した胡は首相に指名した温家宝とともに「和諧社会」というスローガンを掲げ、格差の是正に努めた。1990年代以降、中華人民共和国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ暴動・騒乱が増加していたためである。しかし胡錦濤が最高権力者になってからも海外でも大規模な暴動が度々報じられるようになり、特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は、建国以来最大規模のものとなった。そのため、「和諧社会」はいまだ成功しているとは言えない。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定ではあるが乗り出していること、これまで保険制度のなかった農村部に保険を導入するなど、独自の政策も打ち出している。

上海幇との主導権争い

院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これによって胡錦濤は人民解放軍のトップにもなり、党・政府・軍の権力の全てを事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。

その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。2005年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになり、これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には陳良宇上海市党委員会書記が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。

しかし胡錦濤は自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることが出来ず、2008年全国人民代表大会(全人代)で上海幇の推す習近平が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。それでも、2007年の中国共産党第17回大会で胡錦濤の勢力が躍進したため、これから胡錦濤の権力は強くなっていくという見方も出ている[10]

対日姿勢

1990年代の江沢民政権期、中華人民共和国国内の教育は愛国的な色彩を強め、インターネットが普及すると「愛国者同盟網」「中国民間保釣連合会」「反日先鋒」など愛国的なナショナリスト団体の運営するウェブサイトが立ち上げられるようになった。これらのサイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があるため、胡錦濤が党総書記に就任すると閉鎖や活動停止の処分を受けていたが、2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも愛国的な記事や戦時中の日本軍の侵略行為についての特集が見られるようになった。

同年4月には北京で反日デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の産経新聞香港紙「成報」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「中国青年報」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中華人民共和国では、法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は、胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示すという見方もある。

胡錦濤自身の対日姿勢は前国家主席の江沢民ほど強硬ではなく、2008年5月に来日した際には、共同文書に歴史問題を含めず、日本が戦後60年間世界の平和に一定の役割を果たしてきたことを評価した[11]。また、来日時に早稲田大学で講演を行い、日本の円借款などによる支援が中国の経済成長に貢献したことを認めた[12]

略歴

来日歴

  • 1985年、中華人民共和国青年代表団団長として来日。
  • 1998年、中華人民共和国国家副主席として来日。
  • 2008年、中華人民共和国国家主席として来日。

脚注

  1. ^ Nathan, Andrew J.; Gilley, Bruce (March 2003). China's new rulers: the secret files. New York: The New York Review of Books, p.79.
  2. ^ Nathan & Gilley, p.42.
  3. ^ "Profile: Hu Jintao", BBC NEWS (September 16, 2004).
  4. ^ Nathan & Gilley, p.42.
  5. ^ Nathan & Gilley, p.81.
  6. ^ "Profile: Hu Jintao", BBC NEWS (September 16, 2004).
  7. ^ Nathan & Gilley, p.81.
  8. ^ Nathan & Gilley, pp.42-43.
  9. ^ Nathan & Gilley, p. 84.
  10. ^上海閥のドン、江沢民氏に押し切られた胡錦濤主席」 『朝鮮日報』 2007年10月23日。
  11. ^ 「日中互恵関係を推進」 『朝日新聞』 2008年5月7日。
  12. ^ 「胡主席の講演」 『東京新聞』 2008年5月9日。
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