科挙

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科挙の合格者発表(放榜)
貢院の号舎

科挙(かきょ、繁体字科舉簡体字科举ピン音:kējǔ)とは、中国598年1905年、即ちからの時代まで、約1300年も行われた官僚登用試験[1]である。

概説[編集]

科挙

科挙という語は「(試験)目による選」を意味する。選挙とは郷挙里選九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。「科目」とは現代の国語数学などといった教科ではなく、後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も“科挙”と呼ばれ続けた。

賢帝として知られる朝の楊堅(文帝)が初めて導入した。古くは貴族として生まれた者たちが高位を独占する時代が続いたが、家柄ではなく公平な試験によって、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新といえる。しかし隋からまでの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙によって官僚になることで地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。

生まれに関係なく学識のみを合否の基準とする科挙ではあるが、科挙に合格するためには、幼い頃より労働に従事せず学問に専念できる環境や、多数の書物の購入費や教師への月謝などの費用が必要とされた。そのため、実際に科挙を受験できる者は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。ただし、旧来の貴族の家系が場合によっては六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに比べ、士大夫の家系は長くても4~5代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた。

科挙の競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することもあったという。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった。無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、失意のあまり自殺した鍾馗の逸話など悲話も多い。試験場でカンニングなどの不正行為が発覚すれば死刑を含む重刑が科せられるにも関わらず、数十万字にも及ぶ細かい文字をびっしり書き込んだカンニング下着が現存するなど、科挙が廃止されるまでの約1300年間、さまざまな手段を駆使して不正合格を試みる者は後を絶たなかった。

このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に合格した官僚たちは、はなはだしきは詩文の教養のみを君子の条件として、現実の問題は俗事とみなし、経済治山治水など政治の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢するにいたり「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。また、太学書院などの学校制度の発達を阻害(そがい)した面を持っていることは否めない。これに対しては、王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、清末の1904年光緒30年)に科挙は廃止された。

歴史[編集]

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科挙はの文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲貴族が家柄によって官僚になるという、貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させた上で、科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。

隋代の科挙は、秀才明経明法明算明書進士の六科からなり、郷試省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、に受け継がれた。

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唐では初期に秀才科は廃止され、代わりに進士科が重んじられた。中唐では、進士科は受験者千人に対し、合格者が1~2%、その次に重んじられた明経科では、受験者二千人に対し、合格率10~20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、開元24年(736年)に礼部に移された。原則として、毎年、行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。このときに不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。

受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である李白が科挙を受験できなかったという説がある。

ただし、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・省試の二段階であった。しかし、その省試の後、合格者が任官されるために、吏部において、実施される吏部試が行われ、「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。

さらに、省試の責任者は、知貢挙といい、その年の進士合格者は、門生と称し、知貢挙を座主とよび、師弟関係を結んだ。これが後の朋党を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたため、事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度、「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を公的に推薦することが許され、「公薦」とよばれ、「通榜」という名簿を渡すことも行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。

この問題点については、いずれにしても、宋代に改められることとなった。

なお、唐代では恩陰、任子などとよばれる父の官位に従い、任官される制度もまた、重視され、門閥出身者が優位を占めていた。しかし、中唐以降は、科挙出身者の勢力が拡大し、拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。

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殿試の様子

唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元榜眼探花の総称である。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。

宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書歴史政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。

この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。

王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。

南宋に入ると、官学生や科挙応試者に対する役法・税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人」と呼ばれる知識人階層が形成される。彼らは階層内部での婚姻を重ねる一方、在地における指導者としての立場を形成していく[2]

宋代の科挙においては、特定地域の出身者に偏らないように、解試レベルでの合格者数が地域ごとに定まっていたが、省試レベルになっていくと、試験官が自己の出身地域に有利な評価を下す事があり、特定の地域への合格者数の偏りを見せる場合もあった。特に南宋期に入るとその弊害が悪化し、福州・温州・明州といった一部の州では合格者数が異常に突出する[3]結果も生み出している[4]

金・元[編集]

1127年、北宋では前年の解試を受けて省試・殿試が行われる予定になっていたが、が首都開封を占領したことで中止された(靖康の変)。旧宋領地域を平定するために派遣されていた斡離不を補佐していた劉彦宗の提言によって、1128年に科挙の続きを実施した(趙子砥『燕雲録』建炎2年戊申正月条)。遼では989年以来、漢民族などを対象に科挙が実施されており、劉彦宗自身も元は遼の進士であった。斡離不・劉彦宗は相次いで没するが、その後を継いだ粘没喝1129年1132年に科挙を実施し、その後熙宗によって1135年に科挙を実施されている。こうした措置は遼の主要領域を占領した直後の1123年にも実施されており、新たな占領地を統治するための人員を確保するとともに漢民族知識人を引き留める効果があったと考えられている[5]。金では1138年に科挙が3年1貢の正式な制度として採用され、1149年にはそれまで実施されていなかった殿試も採用されるようになったが、金が公的な教育機関の整備に動き出したのは12世紀後期に入ってからで、また南宋のような士人に対する特権はほとんど認められず、科挙に合格しない限りは庶民と同等に扱われていた。世宗の即位後、従来の地方官吏から試験による中央登用を停止し、学校を整備して科挙登用を増やす政策を採用した。また、女真族の軍事組織であった猛安・謀克の形骸化によって官途に就く道が閉ざされる形となった女真族を救済するために、女真族のみを対象とした女真進士科(後に策論科)・女真経童科なども実施された。だが、モンゴル侵攻を目の当たりにした宣宗は実務に長けた官吏の中央への登用を進めたため、官吏出身者と進士出身者の対立を引き起こすことになった[6]。なお、金の科挙受験者はもっとも多かったとされる13世紀初めでも多くて4万人程度と、40万人に達したとされる南宋に比べて大幅に少ない。だが、金の領域に入った地域は元々科挙が盛んではなかった(北宋時代には2万人前後の受験者しかいなかった)こと、金が人士への特権を認めなかったこと(反対に南宋のような特権目当ての受験者がいなかったこと)、金の人事制度が官吏からの中央への登用が比較的容易で科挙一辺倒ではなかったことなど、金と南宋の制度的な違いによるところが大きい[7]

では、1313年まで科挙が実施されなかった。これはモンゴル帝国の旧金領地域進出からみれば100年余り、遅れて征服された旧南宋地域でも30年以上行われなかったことによる。従来、そうした状況をもって「士大夫の立身出世への道は絶たれた」「モンゴル支配下の漢民族知識人の不遇」とみなされてきたが、実際にはさまざまな人材登用ルートが存在しており、漢民族の知識人(人士・士大夫)もそうしたルートを介して登用されていた。大きく分けると官吏・兵士・儒戸として出仕してその功績によって中央に転じる者、縁故・猟官によってモンゴル人王侯などの有力者に推挙される者(王侯の幕僚として出仕した後にその推挙を受ける例もある)、国子監・翰林院・司天監などの国家の教育機関で能力を認められて登用される者などがあり、科挙復活後もそうしたルートによって出仕する事例が多く存在した[8]。だが、元代の科挙の1回の定員は100名で、しかも蒙古人・色目人・漢人(旧金領漢民族及び女真族・契丹族・渤海族)・南人(旧南宋領漢民族)で1/4ずつ分けられており、元代全てを通じた合格者の総数は1000人あまりであった。ところが、科挙合格者は、成績によって従六品から従八品までの品階を与えられるなど、当時としては破格の待遇を受けた。しかも、科挙実施と同時に従来の官吏出身者の昇進の最高を従七品までに制限された(ただし、この規定が科挙復活以前の登用者にも適用されたことから問題視され、1323年に正四品に引き上げられた)。科挙の及第によって官僚を目指すことはメリットとデメリットの両方があり、必ずしも他のルートに比べて優位とは言えなかった。当時の知識人は数ある人材登用ルートから科挙を選ぶか、他のルートを選ぶかを選択していたと考えられている[9]

明・清[編集]

1894年の会試の題目

明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。一方で試験内容も四書を八股文という決められた様式で解釈するという方法に改められた。試験科目が簡便なものになったことによって貧困層からも官僚が生まれるようになった反面、形式重視に陥ってしまい真の秀才を得られなくなってしまうという弊害も発生した。

清代に入っても、この制度は続いた。また、挙人履試会試履試といった新たな試験制度が追加されたことで、更に試験の回数が増えて複雑化した。このように科挙の試験形態が一貫して複雑化し続けた背景には、試験者の大幅な増加、豆本の持ち込みや替え玉受験などの不正行為の蔓延ということが挙げられる。しかし、このことは結果的に、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こし、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなるという事態を招いた。

だが、1840年(道光20年)のアヘン戦争以後、立場が逆転して西洋列強や日本が中国を蚕食するようになると、中国でも近代化が叫ばれるようになっていった。そしてついに、清朝末期の1905年(光緒31年)に廃止された。

科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない。

清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

太平天国[編集]

太平天国も、科挙を行った。特筆すべきは、女子に対して科挙を行ったことである。1851年に行われたこの科挙は「惟女子与小人為難養也」をテーマとした論文を書かせるもので、200人余りが受験した。そして傅善祥状元となった。

試験区分[編集]

文科挙[編集]

清代科挙試験の一覧表


童試[編集]

考場の内部
貢院の号舍の模型

童試とは、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい)、あるいは儒童(じゅどう)と呼ばれた。

童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試府試院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かったものは、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得る。

童試は唐代のころから童子科として存在しており、唐代は10歳以下、宋代は15歳以下が対象となっていたようであり、及第者には解試免除や授位などがなされた。ここで特筆すべきは、南宋の時代に女童子の求試が2度もあったことであり及第者も誕生している。

郷試[編集]

童試が国立学校の学生という科挙の受験資格を得る為の試験であるのに対し、郷試は科挙の本試験であり、その第一の関門となる試験であった。尚、郷試を受ける資格を持つ者は挙子と呼ばれた。

郷試は3年に1度、年、年、年、年毎に実施されることが法令で定められていた。その期日もあらかじめ指定されていた。具体的には、8月9日に第1回の試験が始まり、8月12日に第2回の試験が、8月13日に第3回の試験が実施された。第1回の試験では四書題3問と詩題1問の試験が課され、第2回の試験では五経題5問が課され、第3回の試験では策題が課された。なお、この3年に1度の試験の他に、恩科と呼ばれる臨時の試験が存在した。これは、宮中に大慶事(例えば天子の即位等)が発生した際に特別に1回増加された科挙の試験のことである。

試験は各地の貢院で行われた。貢院とは科挙試験を行うための施設で、各省の省府に常設の建物があった。内部には「号舎」と呼ばれる、人がちょうど一人入れるくらいの一方の壁がない独房が無数に集まっており、その一つずつが厩のような長屋の形状で連続していた。貢院の内部の大通りは「甬道」、小道は「号筒」と呼ばれた。

試験は三日がかりで行われ、科目ごとの制限時間は特になく、三日以内に全科目の答案を作成すればよいという条件で、答案作成の合間に食事や睡眠をとることも自由であった。そのため食料や寝具は持参できたが、カンニング防止のため、書物やメモ類の持ち込みは厳禁であった。受験者は見張りの兵士に厳重に所持品検査されたのち、一人ずつ号舎に入れられ、三日間出ることを禁止された。貢院の門はいったん閉められると試験終了までいかなる理由があっても開かず、急病で死者でも出た場合は塀を越えて搬出しなくてはならなかった。

郷試に受かった者は挙人の称号が与えられ、次の会試を受験する権利が与えられた。

挙人履試[編集]

清朝期に新たに加えられた試験区分。事前に志願者をふるい落とし、会試の試験会場である北京貢院の混雑を避けるために設置された。会試の1ヶ月前(2月15日)に行われた。北京近郊の者に対しては、これもまた混雑の防止が目的であるが、前年の郷試の直後の9月に実施された。出題内容は四書題1問、詩題1問。成績は5等に分けられた。1~3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間会試受験の権利が停止され、5等の者は挙人の資格が剥奪された。なお、会試は天子が行う崇高な行事とされていたので、受験者は公費で北京に赴くことができた。

会試[編集]

隋代からある試験区分。貢挙とも呼ばれる。郷試とならび重要な試験で、科挙試験の中核を成す。挙人が受験することができ、合格すれば貢士の呼称を得る。貢士は、資格上は挙人と同等。清代末期における受験倍率は、100倍近くになることもあった。郷試の翌年の3月に、北京貢院にて実施され、頭場、二場、三場、の3回、それぞれ2泊3日の期間で行われる。唐代においては、続く試験、殿試がなかったため、この会試に合格すれば直ちに進士の資格を得ることができた。また、清代においても、殿試はほぼ全員が合格するのが慣例であったため、貢士の呼称を得た挙人を早々に進士と呼ぶことさえあった。会試に合格した貢士のうち、成績が一番目の者を会元(かいげん)、二番目の者を亜魁(あかい)、六番目の者を榜元(ぼうげん)、一番目~十八番目までの者を会魁(かいかい)、最下位の者を殿榜(でんぼう)、と呼んだ。[10]

会試履試[編集]

清朝乾隆帝の時代に新たに加えられた試験区分。期日は4月16日、会場は殿試と同じ紫禁城保和殿。試験内容は四書題1、詩題1。学力の再確認、殿試にむけた試験会場の場慣れ、替え玉受験の防止のための本人確認を目的とした殿試の予備試験的なもの。そのため試験はかなり平易なものが作成された。成績は4等に分けられ、1〜3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間殿試受験の権利が停止された。

殿試[編集]

殿試とは、進士に登第(合格)した者が、皇帝臨席の下に受ける試験をいう。すでに進士の地位はあるが、この試験により順位を決め、後々の待遇が決まってくる。上位より3名はそれぞれ状元榜眼探花と呼ばれ、官僚としての将来が約束された。古来より「進士は月日をも動かす」と言われ、巨大な官僚機構の頂点に立つ進士は一族も含めて多大な栄華を極めたのである。

郷試会試殿試の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶ。これは、各試験での首席合格者を郷試で解元、会試で会元、殿試で状元と呼んだことに由来している。麻雀である大三元は、ここに由来している。また、同じく麻雀の役である四喜和の四喜にも第4の喜びとして科挙合格が含まれている。

武科挙[編集]

武科挙

武科挙とは、科挙の武官登用試験のことを言う。一般的に言われている文官登用試験は文科挙といわれる。武挙、清代には武経と呼ばれた。文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。

  • 馬騎 - 乗馬した状態から3本の矢を射る。
  • 歩射 - 50歩離れた所から円形の的に向かって5本の矢を射る。
  • 地球 - 高所にある的を乗馬によって打ち落とす。
  • その他 - 青龍剣の演武や石を持ち上げるなど。

矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。

その他中国の科挙[編集]

制科[編集]

制科とは、普通の科挙では見つけられない大物を官僚に採用するため、天子の詔で不定期に実施された試験である。隋代から始められ、唐・宋時代にも行われた。清朝の1678年にも行われた記録がある。しかし、乾隆期以後は制科は著しく廃れることとなった。 科挙出身の官僚は制科出身の官僚と派閥争いを行ったが、人数が圧倒的に多い科挙出身の官僚が優位に立った。

外国への影響[編集]

ベトナム[編集]

ベトナムにおいては李朝仁宋治世の太寧元年(1075年)に科挙が導入され、中国が廃止した後の1919年まで存続した。ベトナムは世界で最後に科挙制度を廃止した国である。

李朝期に有能な人材を登用するために科挙制度が導入されたが、李朝期を通じて実施された科挙の回数は4回のみで、採用人数も少なかったことから、李朝期の段階ではいまだ科挙が大きな影響を与えるには至っていなかったといえる。その後、陳朝太宋治世の建中8年(1232年)に科挙が再開された。その際、国子監が新たに設置され、太学の学生の中から試験に参加し、進士の資格を得るようになった。更に1314年、科挙出身の官僚の登用を拡大するために正式に進士科が設けられ、より多くの人が科挙に参加できるようになった。李朝期に始まったベトナムにおける科挙制度は、陳朝期に至って広まることとなった。

陳朝滅亡後、1406年(永楽4年)から1532年まで、ベトナムは明朝によって支配された。このことで、中国の科挙制度が後黎朝期以後のベトナムにおける科挙制度に大きな影響を与えた。すなわち、郷試会試殿試といった三段階の試験、武科挙の実施といった制度が、いずれも後黎朝期においてベトナムの科挙にも導入されることとなったのである。また、その試験の出題内容も同時期の中国のものと似通っていた。

以上ことから、ベトナムにおける科挙制度は最も中国の科挙制度と似通ったものであったといえる。

朝鮮[編集]

朝鮮半島の高麗李氏朝鮮でも、中国式の科挙が導入されていた。李氏朝鮮の科挙は、法的には特別な場合ではなければ全ての良民が受験可能だったが、実際では経済的理由で貴族層である両班ではなければ受験が難しかった。朝鮮後期には三代の間に科挙の及第者を輩出しなければ、両班と認められなかった。科挙の実施は礼曹が行い、及第者からの官僚への人選は文官は吏曹が、武官は兵曹が担当する。これは、唐以来の中国の制度を準用したものである。

韓国では現在でも、科挙の名残として「高等考試(ko:고등고시)」(日本の国家公務員一種試験に相当)がある。また、全国から受験者が集まるソウル特別市の公務員試験の様子を、かつて科挙受験のために漢陽(現在のソウル)に集まった状況に例えて、ニュース等で「現代版科挙」と言われる場合もある。民間でも、サムスングループの入社試験を、その難関さから科挙に例えられる場合がある[11]

日本[編集]

日本でも、平安時代に科挙が導入され庶民から進士に合格し下級官人となり、最終的に貴族にまでなった人物として勇山文継が知られているが、日本独自の「蔭位の制」と呼ばれる例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には自動的に官位が与えられたため(世襲)、受験者の大半は下級貴族で、合格者が中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。その後、律令制の崩壊とともに廃れ、院政期から官職の世襲制化が進み、基本的に江戸時代まで続く。科挙が日本の歴史に及ぼした影響は少なかった。

科挙と近代化[編集]

『日中比較教育史』は、日本との比較において、中国の近代化が遅れた理由のひとつとして科挙制度の影響を挙げている。なぜ中国は西欧の学問思想の導入に遅れたのか、同書はその理由に、科挙による中国の学問・教育の硬直化と、江戸期の日本の学問の柔軟性との差を指摘している。

科挙制度の確立により、中国は世界に類をみない教育国家であり続けた。科挙に合格しさえすれば、だれでも政権の中枢に到達できるため、当時の中国教育の中心は科挙のためのものとなり、儒学以外の学問への興味は失われがちだった。また、科挙に合格するための教育が主流であった中国では、学習者はある程度の地位や財力を持つ者に限られた。さらに、科挙の本質は文化的支配体制の確立であったため、権威は権力と密接し、論争的・創造的学問は排除された。

それに比して、江戸期の日本では、公的試験はあったものの、科挙のような選抜の意味合いがなかったため、学問とは官吏になるためのものではなく、あくまで個人の教養のためのものだった。官立学校が確立していた中国と違い、学校はほとんどが私塾であり、そのため多様な学問が取り入れられ、新しい学問の導入も積極的かつ容易であった。学問が趣味的で、出世の絶対的な道具でなかった日本では年齢や階級にかかわらず学習者が一定の階層に固定せず、庶民にまで広がり、世界的にも高い識字率が実現した。また、朱子学を批判した荻生徂徠の徂徠学の影響で、さまざまな研究が好まれ、支配階級である武士は実用性・合理性のある学問を尊重したため、西洋学問の導入にも理解があった。[12]

その他[編集]

科挙に合格すれば出世も出来るし裕福にもなれる。逆に言えば合格できなければ栄達もかなわない。科挙合格は中国知識人達の夢でもあり、一族全体の期待もかかっていた。それ故に何度も落ちれば落第者は社会に絶望するようになる。

唐以前の戦乱期は頭脳になれるインテリを配下に収めることが難しかったので、新末後漢初や三国志の時代、隋末唐初の天下をとったのは知識人を配下にした豪族勢力であり、流賊や民衆反乱をベースにした勢力は結局はつぶされていった。ところが科挙が始まったことにより知識人を生み出せる層が広くなり、厳しい科挙に負けて社会に絶望した落第者がこれらの勢力に結びつく、あるいは実家の資産を背景に反乱を起こすことによって、反乱がより深刻化することになった。黄巣の乱黄巣太平天国洪秀全がその代表格であり、だからこそ極貧出身の朱元璋が天下をとれたとも言える。

参考文献[編集]

時代別・地域別の研究[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ これを官吏登用試験とするのは誤りである。科挙時代の中国においては「官」と「吏(胥吏)」は全く違う存在である。
  2. ^ 飯山、2011年、P82-85。
  3. ^ こうした州は元々学問が盛んであったという側面もあるが、福州は北宋期から、温州・明州は南宋初期から試験官による同郷出身者の進士への進士合格が増加し、この時の進士が後に試験官と同じような事を繰り返すことで特定地域における進士の再生産が行われた。
  4. ^ 岡元司「南宋期における科挙」『宋代沿海地域社会史研究』(汲古書院、2012年/原論文:1998年)
  5. ^ 飯山、2011年、P49-57。
  6. ^ 飯山、2011年、P77-87・140-141・157-158・178-179
  7. ^ 飯山、2011年、P163-164
  8. ^ 飯山、2011年、P216-246・290-291
  9. ^ 飯山、2011年、P290-306
  10. ^ (参考文献)=著者名:宮崎市定(みやざきいちさだ)、 著書名:科挙史、 発行年:1987/6/10、 参照ページ:164 Page文末より。
  11. ^ “朝鮮科挙制”サムスン入社試験に異変「歴史問題」増加、国内からも疑問…韓国トップ企業“歪められる”超エリートたち 産経新聞 2014年5月8日付
  12. ^ 『日中比較教育史』佐藤尚子, 大林正昭編、春風社, 2002