六四天安門事件
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六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)、又は天安門大虐殺(てんあんもんだいぎゃくさつ)、1989年6月4日に、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊が「人民解放軍」によって武力弾圧されデモ隊が殺害された事件である。また、この事件に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括して指すこともある。
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[編集] 呼称
1976年4月5日に周恩来が死去した時に発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して、「第二次天安門事件」とも呼ばれる。現在の日本で『天安門事件』と言うと、こちらの第二次天安門事件を指すことが多い。
[編集] 概要
| 中華人民共和国 |
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主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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[編集] 「百花斉放・百家争鳴」
1985年3月に登場したソ連の指導者のミハイル・ゴルバチョフ書記長が、共産党による一党独裁政権が続いた中で言論の弾圧や思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために「ペレストロイカ」を表明し同国の民主化を進める中、同じく1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。
しかしこれに対して李鵬らの党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発し、同年9月に行われた六中全会では胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや保守派らの批判の矢面にさらされた。
[編集] 胡耀邦の失脚
その後胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で鄧小平らの党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚させられてしまう。11月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽が総書記に選出された。
失脚後の胡はその後、北京市内の自宅で公安警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、その後2年も経たない1989年4月15日に心筋梗塞のため死去した。
[編集] 胡耀邦追悼
翌16日には、同国の民主化に積極的であった胡の死去を受けて、北京の大学生を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた小規模な集会を行った。
これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行い、その後民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。また同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の官邸などがある中南海で小規模なデモをおこなったが、当初は「一部の右寄りの学生だけの問題」と報道され、中国共産党内及び国内では重要視されていなかった。
しかし、その後4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった上、翌22日にはデモ隊が「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬首相との面会を求めた声明を出すなど、中国共産党政府も事態を無視できない状況になっていった。
[編集] 全国規模に拡大
学生を中心とした民主化を求めるデモは、4月22日には西安や長沙などの一部の地方都市にも広がっていったが、中華人民共和国全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めた頃からである。活動が全国規模に広がっていったことを受け、穏健派の趙紫陽総書記が北朝鮮を公式訪問していた隙の4月24日に、中国共産党政治局がこの活動を「反政府動乱である」と規定した。
この決定を受けて、中国共産党政府は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、活動は逆に拡大をみせ、その後の五四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生、市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。5月中旬には全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安警察による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せて香港や日本、アメリカなどに留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。
なお、この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、ウーアルカイシは5月18日にハンガーストライキを行う学生を見舞うために天安門広場を訪れた李鵬首相と会談し、その態度を激しく批判したことで全世界から注目を集めることとなった。
[編集] ゴルバチョフ訪中
この様な状況下にもかかわらず、5月15日には、「改革派」として世界的に知られていた、ソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ中央委員会書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定どおりに北京を公式訪問した。
中国共産党政府は、ゴルバチョフと鄧小平ら中国共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。このために、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり場所を移動して行われることになった。
その上、外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中華人民共和国における一連の民主化運動を絡めたものになった上、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」、「民主主義の大使」として歓迎する一幕[1]が外国メディアによって報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったにもかかわらず、結果的に中国共産党政府の面子が完全に潰される結果になった(なおゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党政府も、ゴルバチョフ書記長の訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている)。なおゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。
[編集] 戒厳令布告
この頃の中国共産党政府内部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚衣林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。
その後ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による中国共産党政治局常務委員会が行われたが、最終的に結論が出ず、改めて党長老で事実上の最高権力者である鄧小平を含めた会議が行われた[2]結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定され、翌20日に布告された。これに伴い、デモ隊の学生を見舞うなど民主化推進派の主張に理解を示していた改革派の趙紫陽は同21日に「動乱を支持し、党を分裂させた」として党の全役職を解任され失脚し自宅軟禁下に置かれ、この後表舞台から姿を消すことになる。
これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化するばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。
その後5月30日には、天安門広場の中心に、フランスによってアメリカのニューヨークに作られた「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。またこの頃香港や中華民国、アメリカなどの国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
[編集] 報道管制
またこの頃、戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本や西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党政府によって次々と遮断されていたものの、アメリカのCNNは依然として生中継を続けていた。しかしこれに業を煮やした中国共産党政府の上層部は、生中継を行っていた最中に現場に係官を派遣して放送を中止するよう命令した。
しかしこの際にテレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りはそのまま生中継され、中国共産党政府による報道管制の実態が世界中に流されることとなった。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオ収録による中継と、電話や携帯電話を使用した音声による生中継によって行われることとなった。また、民主化推進派が香港や中華民国などの国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクスを使って北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたと言われている。
[編集] 武力弾圧
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装を行った兵士が配置に就いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[3]。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、中国人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した[4]他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[5]。
この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った学生達は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[6](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。なお、学生運動の主立ったリーダー達は武力突入前後にからくも現場から撤収し、支援者らの手引を受けて海外へ亡命した。
この市街地での武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜州電視、アメリカのCNNをはじめとする中華人民共和国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して世界中から多くの非難が浴びせられた。また、その後の事件の経過も、中国共産党政府による報道規制が強化される[7]中で世界各国で報道され、武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して威圧し、その戦車が進めずに戻っていくという映像も放映された(無名の反逆者)。
なお、武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、北京に知人、友人が少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗の少ないという理由で戒厳令の施行後に地方から動員された部隊が中心と報道された。
[編集] 死傷者
中国共産党政府の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者の多寡については数百人から数万人の間で複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報[8]があるように、事件後に中国共産党政府によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。
[編集] 中華人民共和国国内における反応
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[編集] 中国共産党政府の対応
事件後の6月23日から開催された四中全会において中国共産党政府は、この事件を「反革命暴乱」と規定した。また同時に趙紫陽や胡啓立などの民主化活動に理解を示し、戒厳令の布告に反対した人物は失脚することとなった。その後鄧小平の指示により、趙紫陽総書記の後任には上海におけるデモの拡大を抑えきった江沢民政治局委員が抜擢された。なお、趙紫陽はその後中国共産党政府により軟禁され、2005年1月に死去するまで軟禁されたままであった。
[編集] 批判
事件後には、中国共産党政府によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。しかしその様な中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が民主派の助けを受けて香港などを経由して西側諸国へ亡命した。
また、密かに中国共産党首脳部の強硬派による自国民に対する虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。
[編集] 隠匿
上記の様に、西側諸国だけでなく東側諸国を含む世界各国ではこの事件は大きな驚きと怒りをもって報道されたものの、中華人民共和国の国内においては、事件後には平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった[9]。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派とその一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党政府によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証的な報道はこれまで殆ど行われていない[10]。
その上に、中国共産党の遅浩田国防部部長が1996年にアメリカを訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言[11]し世界各国から反発を受けた他、日本を含む多くの国において、中国共産党の御用ジャーナリストを使って「虐殺は存在しない」、「死者は数人にすぎなかった」、「負傷者は1人もいなかった」などの、自らの行った正式報告さえ翻すような極端に歪曲された内容のプロパガンダ を垂れ流し続けている[12]。また、西側諸国にさえもこの様な中国共産党によるプロパガンダをそのまま垂れ流す「ジャーナリスト」すら存在する。
また、一部の中華人民共和国国内のサイトの検索エンジンでは、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると接続不可能になるといった規制や(Yahoo!やGoogle、MSNなど)、この事件についての記事が存在する「ウィキペディア」に対する接続規制が2008年現在も行われている。[13] など、事件から18年経った現在も政府ぐるみでの事件の隠匿が行われている。そのため、本事件以降に学校教育を受けた世代は本事件を殆ど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度)、海外に出て初めて知らされるという傾向にある。
結果中国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本事件で中国共産党と失望、決別した活動家は多く石平をはじめとした活動家が海外で活動を続けることになる。
[編集] 世界各国の反応
[編集] 香港の反応
全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが中国系で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。
1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。また理由は不明だが、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。
同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全員賛成で採択。その宣言は中華人民共和国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党政府の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、香港がイギリスより中華人民共和国へ返還され、事件後20年近くが経った2007年6月4日にも同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が香港島で開かれ[14]、5万5千人の参加者を集めた。
また、結果的に香港人のイギリス連邦諸国やアメリカなどへの移住ブームを本格的に始動させた事件となったが、その後、宗主国のイギリスと中華人民共和国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」の方針を受けて、「返還」後に中国共産党政府からの言論の締め付けなどがあるにもかかわらず、かろうじて政治的に安定している香港を評価して、多くの移民が香港に戻った[要出典]。
だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「中国全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党政府に対する不信感の原点とも言われる。
[編集] 西側諸国の反応
多くの民主主義国の政府が、六四天安門事件における中国共産党政府による武力弾圧についての声名を発表した。日本やアメリカ合衆国、中華民国やフランス、西ドイツなどの民主主義国は、武器を持たぬ市民への「虐殺」とも言える武力弾圧に対して譴責あるいは抗議を発表し、ほとんどの当時の西側主要国が懸念、遺憾の意を示している。「遺憾の意」を示した国には、ベトナムのような社会主義国や、タイのような華僑の多い中華人民共和国の友好国も含まれている。
同時に多くの国が中国共産党政府による武力弾圧に対して抗議の意を示すため(と団員の安全を確保するため)に在中華人民共和国の外交団の撤退を始めた他、ヨーロッパ諸国は対中兵器輸出を禁止するなど、多くの主要国が最恵国待遇の停止や武器輸出の停止などの条件付、もしくは無制限の交易の停止を発表した。また、世界銀行による中華人民共和国への融資の停止も行われた。
その後、「譴責」や「抗議」を行った国を含めて、ほとんどの国が時期をおいて中華人民共和国との外交関係の回復を行ったものの、この事件が中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国及び中国共産党そのものの異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる大きな原因の1つとなった。
また、2007年6月1日にアメリカ国務省のトム・ケーシー副報道官が、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した [15]。
なお政府与党ではないが、日本共産党もこの事件を批判し、結果中国共産党と5年間にわたって断交している。
[編集] 東側及び独裁国、第三世界の反応
一方、ベルリンの壁などで同じく自国民を管理していた東ドイツ政府が公式に中国共産党政府による武力弾圧を支持した他、開発独裁で有名なシンガポールの独裁者のリー・クアンユーも個人的に「自分も同じ事をしただろう」という言葉を残している。また、華僑が多く、中華人民共和国と微妙な関係下にあるフィリピンやインドネシアは、事件について直接コメントせず、「事件が中華人民共和国と自国とのあらゆる関係に対して影響を及ぼさない」と発表した。
[編集] 脚注
- ^ 『チャイナハンズ-元駐米国大使の回想』ジェームズ・R・リリー著 西倉一喜訳(草思社 2006年)p.289
- ^ 『北京特派員』信太謙三著(平凡社新書 1999年)P.44
- ^ 『チャイナハンズ-元駐米国大使の回想』ジェームズ・R・リリー著 西倉一喜訳(草思社 2006年)p.291
- ^ 『天安門文書』張良著(文藝春秋 2002年)
- ^ 『北京の長い夜―ドキュメント天安門事件』ゴードン トーマス著 吉本晋一郎訳(並木書房 1993年)
- ^ SAPIO(2002/04/10号)特別図解『李鵬[4月来日]の「天安門流血粛清」全手口を暴く/惠谷治』
- ^ 『天安門文書』張良著(文藝春秋 2002年)
- ^ 『チャイナハンズ-元駐米国大使の回想』ジェームズ・R・リリー著 西倉一喜訳(草思社 2006年)p.313
- ^ 『北京の長い夜―ドキュメント天安門事件』ゴードン トーマス著 吉本晋一郎訳(並木書房 1993年)
- ^ 『中国における人権侵害―天安門事件以後の情況』 アムネスティ・インターナショナル アジア・ウオッチ著(1991年)矢吹晋、福本勝清訳
- ^ [1]『国防部部長・遅浩田が訪米した際に、「天安門広場で誰一人が殺されなかった」と発言』
- ^ 『中国における人権侵害―天安門事件以後の情況』 アムネスティ・インターナショナル アジア・ウオッチ著(1991年)矢吹晋、福本勝清訳』
- ^ 「IT Media news」 2004年6月15日 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0406/15/news055.html
- ^ 『「風化させるな」天安門事件18周年、香港で追悼集会』朝日新聞 2007年6月4日 http://www.asahi.com/world/china/news/TKY200706040397.html
- ^ 『米政府、天安門事件の活動家釈放を要請』AFP 2007年6月2日 http://www.afpbb.com/article/politics/2233499/1645982
[編集] 参考文献
- 張良 『中国六四真相』 (明鏡, 2001年) ISBN 962-8744-36-4
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク

